20 それぞれの縁
人の縁は、思いどおりにはならない。
それでも、ほどけた糸は、別のかたちで結び直されていく。
この夏、ひとつの縁が、ようやく落ち着こうとしていた。
孝之進は、水絵に向き直った。
「水絵、憶えているだろう? 一年前の花見の時、おまえが『袖切り』をした巾着切りのこと」
水絵は頷いたが、その途端、背筋に怖気が走る。巾着切りのせいではない。その後「兄貴の仇討ち」と称して、襲われたことを思い出したからだ。
「あの巾着切りと、水絵を襲ったならず者。あの二人も、与八と同じ一味だ」
「……それは、確かなことなのですか?」
鏡之介の声が、一瞬だけ揺れた。孝之進は気づかない様子だったが、水絵にはそれが分かる。
「ああ。同じ一味なのは間違いない。しかし、親玉はもちろん、どれほどの人数が絡んでいるのかも分からない」
孝之進がかすかにため息を吐く。かなり疲れている様子なのに、水絵は今さらにして気付いた。おそらく、きつい取り調べをしたのだろう。
「あいつらは、口を割らないのではない。親玉のことはなにも知らないのだ」
巾着切りと水絵を襲ったならず者は、すでに遠島になっていると聞いている。与八は、人殺しをしているので、おそらく死罪になるだろう。
だが、肝心の親玉には手が届かない。孝之進の内心は、強い焦燥に荒れているはずだ。
「根城の見当もついていないのですか?」
鏡之介の口調は穏やかだった。だが、その手が固く握りしめられていることに、水絵は気づいた。
「分からぬが……江戸ではあるまい。おそらくもう少し北。武州か、上州か……」
鏡之介の眉が、ぴくりと動いた。
「……そうですか」
しばしの沈黙が流れた後、孝之進は立ち上がった。
「親玉はかなり用心深く賢い。だから、水絵や鏡之介殿に仕返しに来るような愚かな真似はしないと思うが、万が一のこともある。当面、春太に見張りをさせるが、気をつけてくれ」
そう言い残して、孝之進が立ち去った後、鏡之介は厳しい顔のまま水絵に言った。
「しばらく、ひとりで出歩くな。寺子屋への送り迎えは、俺がする」
そんなことしなくていい、とは言えなかった。一年前の記憶は、水絵を臆病にしている。だから、素直に頭を下げた。
「よろしくお願いします」
落ち着かない日々をひと月ほど過ごした水絵たちだったが、孝之進の言うとおり、悪党が仕返しに来ることはなかった。
そして、虫の声が聞こえるようになった八月の初め――。
信之助とお琴が寺子屋を訪れた。
信之助が身につけているのは、憲法色の鮫小紋。お琴は、水絵が仕立てた薄紅の地に、草花の飛び柄。
二人が並んだ姿を見て、水絵の顔に笑みが浮かぶ。
――見立ては間違いなかった。
そして、二人が寺子屋を訪れた訳は……。
「おふたりの、お知恵をお借りしたくて」
信之助の言葉に、鏡之介は苦笑した。
「またかよ」
だが、そんな軽口を真に受ける信之助ではなかった。
「実は、私どもの祝言のことなのですが……」
お琴の父「花菱屋」の旦那は、「世間への聞こえにもなるから、祝言は派手にしよう」と言ったそうだ。普通なら「花嫁道中」だが、今回は婿入りなので、「花婿道中」。それを派手にすれば、「花菱屋」と「浅葱屋」、両方の評判になる、と。
「ですが、私はそこまで派手にしなくても、と思うのです。『桝屋』の一件も片付いたばかりなので……」
しかし、お琴の父は「だからこそ、縁起直しにちょうどいい」と言ったらしい。
「あの……お琴さんは、どう思っているの?」
水絵が尋ねると、お琴はちらっと信之助を見て、うつむきながら言った。
「わたしは、信之助さんのお考えに従います」
妻としては正しい答えなのだろうが……それがお琴の本当の気持ちなのだろうか? 水絵が思い悩んでいると、鏡之介が軽い口調で尋ねた。
「信之助さん、『丑の日に鰻』って知ってるかい?」
「はい。もちろん。土用丑の日に鰻を食べると、身体に良いという……」
「あれ、考えたのは平賀源内って人なんだが……」
鏡之介の笑顔が、苦笑に変わる。
「夏場に、困っていた鰻屋に『丑の日に鰻』と触れさせたら、途端に客足が伸びたって話だ」
その言い方に、水絵は引っかかるものを感じた。
「もしかして……法螺なんですか?」
すると、鏡之介は首を横に振った。
「いや、法螺じゃねえよ。あの人は本草学者だから。夏場に鰻が売れねえのは、味が落ちるからだ。だが、味は悪くとも、暑気あたりを防ぐ薬にはなるってのは正しい。それを『本日丑の日、鰻食すべし』って、わかりやすい言葉で示したのが、源内さんの手柄なんだ」
「そうですよね……よかった」
水絵はほっとして言った。
源内は、風呂敷は広げるが嘘を吐く人ではないのだ。
「まあ……つまり俺が言いたいのは、そういう知恵も、悪くねえってことだ。時と場合によるがな」
鏡之介の言葉に、信之助は唇をかみしめた。
「私は、正直に商いを続けていれば、お客様は離れないと思っていました」
「もちろん、それが一番大事なことだ。どんなに小賢しい知恵を働かせても、商売がまっとうじゃなけりゃ、客は離れていく。けど……さっきの鰻屋の話だが、源内さんに頼んだ鰻屋も、まっとうな商いをしていたと思うぜ」
「そうですね。夏に鰻の味が落ちるのは、鰻屋の腕が悪いからではないでしょうから。身体に良いのも本当のこと……」
その時、お琴が信之助の手にそっと自分の手を重ねた。
「もう一度、お父様と話してみましょう。信之助さんのお父様にも来ていただいて」
信之助は黙って頷き、二人は寺子屋を後にした。
信之助が身につけていたのは、母・志津が仕立てた小紋だ。ちょっとした事情があったので、着るのをためらうのではないかと心配していたのだが、それについてはお琴が払拭してくれた。
「信之助さん、水絵さんのお母様のこと、『私の母に似ているので、つい甘えてしまいました』なんて言ってたわ」
そして、くすくす笑いながら付け加えたのだ。
「志津さん、信之助さんとたいして歳も違わないのに、お母さまは、失礼よねぇ」
だから、水絵も言えた。
「いいえ。母も若旦那さんのことは、子どもみたいに思っていたようですよ」
すると、お琴は嬉しそうに言ったのだ。
「それなら、わたしにとってはお姑さんね」
そして、小さな声で「『浅葱屋』のお常さんが姑なんて、嫌だもの」と、付け加えた。
水絵は聞かなかったふりで、
「母が姑なら、わたしは小姑になっちゃいますよ」
と言い、ふたりで笑い合ったのだった。
二人の後ろ姿を見送りながら、そんなことを思っていたら、突然声がふってきた。
「よう、久しぶりだな、鏡」
物陰から姿を現した奇天烈な髷の男は、驚く水絵の顔を見て、にやっと笑った。
「タルモメイトル、持ってきてやったぜ」
ひとつの縁が定まり、日常が戻る。
だが、静けさは長くは続かない。
次なる風は、思いがけないかたちでやってくる。
次話、最終話です。




