最終話 満ちる夜
暑さや寒さは、数で量ることができる。
けれど、人の心のぬくもりは――。
この夏、水絵はひとつの“温度”を知ることになる。
「若旦那の縁談」最終話です。
そう言うと、源内はぽんっと水絵の手の中に何かを落とした。
それは木札で、大きさや形は神社の祈祷札に似ている。けれど、祈祷札と違い、中央に透明な管が張り付いていた。その両脇には、目盛りと見慣れない文字。
「ええと……これが、『たるもめいとる』」
以前、鏡之介が「タルモメイトルと一緒に厄介ごとも持ち込みそうだ」と言っていたので、よく憶えている。
「これは、異国の文字ですか?」
目盛りの脇の文字を指すと、源内ではなく、鏡之介が答えた。
「おそらく、蘭語だろう」
真ん中の管にそっと触れる。硬くて、少し冷たく感じる。
「これは……びいどろの管ですか?」
水絵が訊くと、源内が、
「その通り。下の方の赤い玉、触ってみな」
と言う。そっと触れると、管の中の赤い筋が、すーっと伸びた。
「え!?」
驚いていると、源内が楽しそうにケラケラと笑った。
反対に、鏡之介は渋い顔をしている。
「水絵の熱で、暑さが変わったんだ。赤い筋は、暑ければ長くなり、寒ければ縮む。タルモメイトルは、暑さや寒さが数で分かる道具だ」
水絵が、タルモメイトルをじっと見つめていると、鏡之介が咳払いをひとつした。
「こんな夕刻に持ってきても、寺子はいないですよ」
「ああ、それは水絵にやるよ。寺子屋の柱にでも下げておいたらいい」
こんなたいそうなものをもらってしまっていいのだろうか、と水絵はうろたえたが。
「では、ありがたく」
と、鏡之介があっさりと言ってしまったので、それ以上は何も言えなかった。
「それで? 今日は、どんな厄介ごとを持ち込んだんですか?」
本堂で向かい合うなり、鏡之介はそう尋ねた。
すると、源内は「その言い草はないだろう」とつぶやき、それから鏡之介に真顔を向けた。
「礼を言いにきただけだ。いや、詫び……かな」
鏡之介が眉をひそめると、源内は続けた。
「中津川だ。……この前、山を閉じた」
「……そうですか」
「坑の図面まで引いてもらったが――。鏡の言うとおりだった。どうにも利が立たねえ。だから、閉じることにした。すまなかった」
頭を下げる源内を見る鏡之介の目には、どこか優しい光があった。いろいろ振り回されても憎みきれない、というのが本音なのだろう。
「もういいですよ。源内さんに謝られても、嬉しくない」
「それじゃあ、俺の気がすまない。鏡には、ただで図面を引かせることになっちまったからな。礼をしなくちゃならねえが、あいにくと、こちとら『貧家銭内』だ。なんで、それ以外のもので頼む」
「礼なんて……」
と言いかけて、鏡之介は口を閉じた。そして、しばらくなにか考えていたようだったが、やがて、にやりと笑うと、
「それなら、日本橋で、ひと働きしていただきましょうか」
と言った。
八月半ばの大安吉日――。
婚礼が始まったのは、辰の刻。内輪で盃を交わした後、行列は日本橋の街の中へ。
「本日、日本橋花菱屋、浅葱屋、祝言道中にて候!」
と、先触れが声を張る。
それぞれの店の手代が幟や提灯を持ち、歩き始めると、何事かと人々が集まり始める。そこを見計らって、引き札が配られる。
少し離れた場所で見ていた水絵と鏡之介のところにも、わざわざやってきて、引き札が渡される。持ってきたのは、「花菱屋」の手代だった。
表はただの引き札。だが、裏を返すと、妙に艶っぽい文章が書かれている。
「この引き札、源内さんが考えたんですよね?」
ちょっと頬を染めながら水絵が尋ねると、鏡之介が苦笑した。
「引き札だけじゃない。この婚礼そのものが、源内さんの仕掛けだ」
提灯や幟の次には、酒樽を抱えた男達。
その次には、箱や籠を抱えた、板前達。
その次に、両家の親族。
そして――花嫁と花婿。
本来なら、花婿道中――迎える花嫁は、行列に加わらない。だが、今回その型を破ることを、水絵はお琴から聞いて知っていた。
お琴は、嬉しそうに言ったのだ。
「源内先生がおっしゃったのよ。『家同士の繋がりだけじゃない、想い想われて繋がった縁なら、それを型で見せなきゃならねえ』って」
それを鏡之介に言うと、
「まったくあの人は……」
と、苦笑いしていた。
日本橋の上まで来ると、行列はいったん止まる。
再び引き札が配られ、そこに現れたのは――菊村月之丞。
姿を見せた途端に、歓声が沸く。
菊之丞が、橋の上で一さし舞うと、「舞鶴屋!」「待ってました!」などの掛け声に、場はいっそう賑やかになる。
その頃あいに、振舞い酒と肴が配られ、さらなる大騒ぎに。
あまりの賑わいに、水絵と鏡之介はその場を離れる。
人混みを避けた場所で一息吐いていると、今度は、「浅葱屋」の手代が、酒と料理を持ってきた。
盃には、菊の花びらが散っている。
「まあ、きれい」
と、水絵は言ったが、酒はそれほど得意ではない。ちょっとだけ口をつけた盃を持て余していると、鏡之介がひょいっとそれを取り上げ、喉に流し込んだ。
「いい酒だな」
「振舞い酒だ。最高のものを用意しろと言ったからな」
不意に声をかけられ、水絵は文字通り飛び上がる。
「源内先生……」
鏡之介は気づいていたのか、驚く様子も見せず、
「少しばかり派手過ぎという気もしますが」
と、肴を口に入れる。
「……これも、うまい」
つぶやいた鏡之介に、源内はにやりと笑った。
「この祝言は、花婿花嫁ふたりだけのものじゃねえ。街を景気づけるための仕掛けだ。祝いは、人を呼び、金を動かす。そう仕向けたのは、鏡だろう?」
鏡之介は、ちらりと源内を見たが、なにも言わなかった。
祭のような婚礼が終わり、水絵が巣鴨にたどり着いたのとき、日はすっかり落ちていた。
途中、鏡之介の家のある駒込を通ったので、そこで別れようとしたが、鏡之介は家まで送ると言ってきた。
「……春太もいねえからな」
ひと月何もなかったとは言え、今日のような大騒ぎの日なら、悪事を働くには都合がいいかもしれない。
水絵は素直に送られることにした。
「月が、きれいですね」
空に浮かぶのは、まん丸の、まさに中秋の名月。
「ああ、いい月だ」
夜になると、さすがに肌寒い。
「この寒さだと、タルモメイトルの赤い筋は、短くなってるでしょうね」
そう言った途端、水絵は以前、鏡之介と言葉を交わしたことを思い出した。
それは、はじめて源内の名前が出た時のこと。
水絵が源内のことを、「寒いと赤くなる棒を作った人」と言った時、鏡之介から「寒いと赤くなるのではない、赤い物が動いて、寒さが数でわかるんだ」と指摘されたのだ。そして――。
その時、水絵は何気なく言った。
――そんな物があるなら、見てみたい、と。
「だから、タルモメイトル……」
思わずつぶやくと、鏡之介が「うん?」と水絵を見下ろした。
「なんでもありません」
水絵の言葉に、鏡之介は何か言いかけて、やめた。
わずかな沈黙が落ちる。
水絵は、鏡之介から顔を背けた。
満月の夜なら、はっきり見えてしまうから。
自分の赤くなった頬が――。
その夜の月は、いつもより少しだけ明るく見えた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。




