18 その店に近づくな
どこかおかしい——
そう感じたときには、すでに遅いことがある。
見えないものほど、近くに潜む。
そしてそれは、気づいた者から遠ざけようとする。
「久兵衛という人は、本所で酒屋を営んでいた人で、台帳の上では本所から日本橋に場所替えしたことになってるそうです」
「だが、その久兵衛の姿を見た者は、誰ひとり居ねえ。……そう言うことだな?」
鏡之介に確かめられて、水絵は頷いた。
「『花菱屋』さんたち、惣仲間にも掛け合ったそうなんですけど、どうにも歯切れの悪い答えしか返ってこなかったって」
「なるほどな。日本橋の株仲間を飛び越えて、惣仲間に裏から手を回したってことか」
「……なんだか、ひどくきな臭いですね。まあ、あの店、どこか後ろ暗い感じはしましたが」
今まで黙っていた信之助の言葉に、水絵は頷いた。
「若旦那さんもそう思いますか? あの店、明らかにおかしいですよね。店の大きさに対して、間口が狭い気がするし。樽の積み方も、『花菱屋』さんとは比べものにならないくらい雑だし。杉玉も……」
「もういい」
低く放たれた鏡之介の言葉に、水絵は思わず口を閉じた。おそるおそる見上げると、鏡之介は、鋭い目つきで睨んでいる。どうやら、まずいことを口走ったらしい。
そのとき、ふたりの間に流れた空気を断つように、信之助が言った。
「……そうですね。あの杉玉、ずいぶん色あせていて。それに、看板も妙に古びていました」
だが、鏡之介はそれに相槌すら打たず、ひどく低い声で水絵を問い詰めた。
「『桝屋』に行ったのか? あの店はまともじゃねえと、何度言えば……」
水絵は、慌てて両手を振った。
「行ってません! 『花菱屋』さんに行った時、向かい側から、ちょっと様子を伺っただけです。店の前にも行ってませんから!」
だが、鏡之介の目つきは鋭いままだ。
「本当か?」
「本当ですよ。嘘なんて吐いてません!」
叫ぶように言うと、信之助がくすっと笑った。そして、二人が自分を見ていることに気づくと、慌てて言い訳する。
「確かに、あの店は怪しいですから、鏡之介先生が、水絵さんを心配するお気持ちは分かりますし、水絵さんは近づかない方がいいと思います。……すいません、笑ったのは、鏡之介先生が、私の思っていた人と、ちょっと違ったので」
信之助の言葉に、鏡之介はわずかに眉をひそめただけだったが、水絵は気になった。
「違ってたって、どんなふうに?」
「存外、世話を焼かれる方なんだな……と」
聞いた瞬間、今度は水絵が吹き出した。
「確かに、そんなところ、ありますね」
「寺子屋師匠だ。そうなっても仕方あるまい」
鏡之介が不機嫌そうに言うと、信之助は意味ありげに微笑んだ。
「水絵さんは、寺子ではありませんが?」
鏡之介は一瞬だまり、それからぷいっと横を向いた。
「似たようなものだ」
寺子と一緒にされた水絵は文句を言おうとしたが、鏡之介はそれをさせなかった。
「そんなことより、『桝屋』をどうするか、そっちが先だ」
「様子を見に行きたいんですが、私は顔を知られていますので……」
店を開いたすぐ後、与八は「浅葱屋」に、酒の売り込みに来たそうだ。もちろん、「浅葱屋」は断った。
「『花菱屋』さんへの義理もありましたが、なにより喜代彦が『酒の味が悪い』と言いましたので断ったんですが……」
断った途端、与八の物腰はがらりと変わった……と、信之助は言った。
「なにやら、よくない筋の人のようでした。ですから……」
言いよどんだ信之助の言葉を、鏡之介が引き取った。
「確かに、信之助さんは近寄らないほうがいいな。おそらく、『花菱屋』との縁談話も、伝わっているだろうし。そっちは、俺が様子を見てこよう」
さらっと言われて、水絵は戸惑った。
「大丈夫なんですか? 普請の時に、一度『桝屋』に行ってるんでしょう?」
あちこち見て回っていたと辰吉が言っていた。その時に、怪しまれていたら……。水絵の心配そうな顔を見て、鏡之介はははっと笑った。
「大丈夫だ。棟梁が、俺のことを『寺子の仕事ぶりを見に来た寺子屋師匠』って言ってたからな。酒を買いに行っても、不審には思われねえよ」
だといいんですけど……と言いながら、水絵はいつもと逆だな、と思った。いつもは、無茶をしそうになる自分を鏡之介が案じるのに――。
そんな水絵の物思いを断ち切るように、信之助が口を開いた。
「それでは、私は本所に行ってきましょう。本所の『桝屋』は店じまいしているようですが、近所で話を聞いてきます」
「それなら、わたしも一緒に……」
行きますと言いかけた言葉は、鏡之介に遮られた。
「駄目だ。この件には関わるなと言ったろう」
「でも……」
聞き込みをするのなら、若い娘のほうが相手の口が軽くなる。そう言おうとしたのだが、鏡之介の厳しい顔つきが、それを言わせなかった。
黙り込んでしまうと、信之助が穏やかな口調で水絵に言った。
「大丈夫ですよ。料理屋が酒屋の話を聞くのですから、誰も変に思やしません。それより、水絵さんにお願いがあります」
「なんですか?」
問い返すと、信之助はわずかに頬を染めた。
「……お琴さんのことを、気にかけてあげてくれませんか? ずいぶん心細い思いをしているので……。お琴さんは、水絵さんのことを頼りにしていますから」
それが、自分を聞き込みに行かせないための方便なら、水絵は反発しただろう。だが、信之助は心底、お琴を気遣っている。だから、水絵は言った。
「分かりました。たいしたことは出来ませんけど、お琴さんの話し相手なら、いくらでも」
「ありがとうございます」
信之助は、丁寧に頭を下げてくれたが、その向こうで、鏡之介の肩から、わずかに力が抜けたのも、水絵は見逃さなかった。
――数日後の夕刻。
鏡之介と水絵、そして信之助は、再び眞性寺に集まった。
最初に口を開いたのは、信之助だった。
「『桝屋』久兵衛は、すでに還暦を過ぎていて、周りの人にそろそろ店じまいして隠居する……と、言っていたそうです」
本所の「桝屋」は、今は空き店になっていて、日本橋の店のことは、誰ひとり知らなかったという。
「『桝屋』に跡継ぎはいなかったのか?」
鏡之介が尋ねると、信之助は気の毒そうな顔で話を続けた。
「跡取りのひとり息子がいたんですが。そろそろ身代を譲ろうか、という時に、流行病であっけなく……。孫も嫁も同じ病で……」
身内をいっぺんに失って、もう商売を続ける気力もなくなったのだろう。周りには、「酒屋株を売って、後は息子達の菩提を弔って暮らす」と言っていたそうだ。
「律儀な人なのに、何の挨拶もなくいなくなってしまって、みんな案じていたそうです。世をはかなんで、身投げでもしたんじゃないかって」
「なるほど……。筋は、見えてきたな」
そう言って、鏡之介は一度だけ二人を見た。
そして――。
二人の前に、静かに図面を広げて見せた。
姿の見えぬ者ほど、恐ろしいものはない。
名だけを残し、裏で糸を引く者は誰か。
その答えは、もうすぐ明らかになる。




