17 譲れぬもの
理不尽は、黙っていれば過ぎていく。
けれど、目を背けなければならない理由にはならない。
誰かが踏み出さなければ、何も変わらないのだから。
「ずるいですよ」
水絵は、さっき言い損ねた言葉を口にした。
「祖父ちゃんの名前を出されたら、言い返せないじゃありませんか」
鏡之介は一瞬目を見開き、それから、思いのほか素直に頭を下げた。
「すまん……だが、危ないのは間違いねえんだ。『桝屋』は怪しい。悪党の匂いがする。それも、小悪党じゃねえ。人殺しさえなんとも思わねえ、救いようのない悪だ」
「匂い」などと言う、鏡之介らしからぬ言い回しを意外に思う。
「桝屋の与八って人に会ったんですか?」
「会ったと言うより、『見た』だな。辰吉の親父さんと話しているところを見たんだが――。与八はおそらく下っ端だ。あいつの後ろには、かなり危ない親玉が隠れている……と、俺は思う。だから……」
必死に言い募る鏡之介の表情に、水絵のわだかまりは溶けていった。
「わかりました。明日、お琴さんに小袖を届けますけど、『桝屋』には近づきませんから、安じるには及びません」
水絵がそう言うと、鏡之介は、深いため息を吐いた。まるで、今まで詰めていた息をすべて吐き出すように。
翌日、水絵が「花菱屋」を訪れると――。
「……水絵さんっ」
水絵の顔を見るなり、お琴は泣き出した。
「お琴さん……」
水絵がそばまで行くと、水絵にすがりつくように泣き崩れた。
やがて……泣き声が少しおさまるのを待って、水絵は尋ねた。
「どうなさったんですか?」
お琴は、水絵から離れると、涙で汚れた顔を隠すようにうつむき、かすれた声で言った。
「……縁談が……流れてしまったの……」
水絵は、少しだけ間を置いて、そっと囁いた。
「それは……『桝屋』のせいですか?」
お琴はぱっと顔を上げる。驚きに目が見開かれていた。
「なんで、知ってるの?」
「詳しい訳はわかりませんが、あの店が怪しいという話は聞きましたから」
「それは、寺子だと言っていた大工から?」
水絵は頷いた。
「それと……普請の様子を見た鏡之介さんも……。でも、なんでそれがお琴さんの縁談に関わるのかは、わたしには分かりません」
教えてくれますか? と尋ねると、お琴は堰を切ったように話し始めた。
「桝屋」が酒屋の暖簾を上げた時、日本橋の株仲間は大騒ぎとなった。株仲間の誰もが、全く知らないことだったからだ。
もちろん、「花菱屋」をはじめとする酒屋の店主は、「桝屋」に話をつけに行ったが――。
「お父様、わたしには詳しいことは教えてくださらなかったけれど、なんでも、証文や台帳では、筋が通っているんですって」
だから、酒屋仲間もやむなく目をつぶった。だが……。
「『桝屋』は、表向きは普通の値段だけど、奥では、普通の半値くらいで売っているらしいの。だから、小売りはほとんど『桝屋』に取られてしまって。料理屋への卸しも、今まで通りうちから買ってくださるのは『浅葱屋』さんとあと数件だけになってしまったの」
このままでは、「花菱屋」の暖簾も傾きかねない。
「いつ倒れるか分からない店に、婿に来てもらうのは忍びないって……お父様はそうおっしゃるの。わたしも……信之助さんにそんな苦労はさせたくないから……悲しいけど……」
すっかり諦めた口調のお琴に、水絵はなんだかとても悲しくなった。
お琴も、信之助も、そして「花菱屋」の旦那も、誰も悪くない。みんな心優しく誠実な人なのに、いや、誠実な人だからこそ、縁談が壊れてしまう。
そんなことは、許せない。
「お琴さん、旦那さん――あなたのお父様にお話を伺えないかしら? 『桝屋』のこと、ちょっと調べてみたいの」
すると、お琴は眉をひそめた。
「そんな危ないこと、水絵さんにさせられないわ」
水絵は首を横に振った。
「わたしは首を突っ込むなって、鏡之介さんに言われてるの。鏡之介さんなら、なんとかしてくれると思うし。それに、いざとなれば、八丁堀の方にも。……祖父の時の縁が、少しだけ残っているから」
「ああ」と、お琴は得心したような声を上げた。
「水絵さんのおじいさま、岡っ引きだったそうね。お父様から聞いたことがあるわ」
それで安心したのか、お琴は、父親に話を通してくれた。
「花菱屋」を後にした水絵は、まっすぐに眞性寺に向かった。
遅くなってしまったが、鏡之介はきっと待っている。水絵にはそれが分かっていた。
眞性寺の本堂に寺子はすでにいなかったが、鏡之介一人でもなかった。
そこにいたのは――。
「『浅葱屋』の若旦那さん」
水絵が思わず声を上げると、信之助は、「おじゃまいたしております」と、丁寧に頭を下げた。
水絵が本堂に上がると、鏡之介が、
「『桝屋』について調べてほしいっておっしゃるんだ」
と、若旦那がここにいるわけを話してくれた。
信之助にとっても、今回の破談は納得がいかないものだったのだろう。
「私に不足があるとか、お琴さんにもっといい縁談が出来たとか、そういう訳なら、私は黙って身を引きます。ですが、店が傾きかけているから破談なんて、到底承知できません」
きっぱりと言い切った信之助は自信に満ちていて、志津のところに羽織を取りに来た時とはまるで別人のように見えた。
「大変な時にこそ、力を合わせて店を支える……それが、身内ってものじゃありませんか?」
それを聞いて水絵の心に浮かんだのは、頬を染めておむすびの話をしていたお琴の顔だった。先ほど見た、泣き顔ではなく――。
きっと、お琴さんは幸せになれる……そんなことをぼんやり考えていたら、鏡之介が咳払いをひとつして、
「おっしゃるとおりです」
と言った。
水絵もはっとして、慌てて頷いた。
「お琴さんの気持ちは、なにひとつ変わっていません。悪いのは『桝屋』です」
「『花菱屋』の旦那から話を聞けたのか?」
鏡之介に訊かれて、水絵は、「花菱屋」の旦那から聞いたことを、話し始めた。
「あの店の店主、証文の上では与八ではなく、久兵衛という人だそうです。『桝屋 久兵衛』」
『桝屋 久兵衛』――。
その名を口にしたとき、水絵は胸の奥に、言いようのない重さを感じた。
おそらく、その人は……。
名はたしかにそこにあった。
だが、その名の持ち主がどこにいるのか――
それを知る者は、まだ誰もいない。




