16 遠い人、近い声
人は、知らぬものに不安を覚える。
だがそれ以上に――
よく知っているはずの人が、急に遠く感じられることのほうが、
心には重く残るものかもしれない。
「辰吉、ちょっといいか?」
手習いが終わった後、鏡之介が辰吉を呼び止めた。
「ちょっと、見てもらいたい物があるんだ」
「はい」
と、答えて本堂に残った辰吉は、心なしか嬉しそうだ。
水絵のほうは「とっちめてやる」と決めていたのに、肩透かしを食らったことになった。
だが、辰吉に聞きたいこともあったので、鏡之介が何かを取りに行っている間に尋ねた。
「そう言えば、あの店、何を売る店だか分かった?」
「ああ、それ、水絵先生に言おうと思ってたんだ。水絵先生、『花菱屋』のお嬢さんと一緒にいたろ?」
「ええ。仕立てを頼まれたから」
そんな話をしているうちに、鏡之介も戻ってきた。手には、大きな紙を一枚持っている。
「あの店、酒屋だったんだよ」
「え?」
水絵は思わず声を上げた。
「だって、『花菱屋』の旦那さんはなんの店か知らなかったのよ。だいいち、はす向かいに同じ酒屋なんて……」
「普通なら、株仲間が許すはずねえな」
話の内容が分かったのか、鏡之介がそう言ってきた。
「うん。だから、親父もなんか変だなって」
酒屋は、誰でも店を開けるというわけではない。「酒屋株」が要るし、店を出すためには、「株仲間」の許しをもらわなければならない。
同じ日本橋で酒屋を開くのなら、「花菱屋」の旦那が知らないはずはないのだ……普通なら。
「まっとうなやり方で開いた店じゃねえってことだな」
「そう。だから、親父も気味悪がってて。けど、手間賃はちゃんと支払ってもらったから、大騒ぎするわけにもいかないし」
「……そうか」
鏡之介はうなずき、持ってきた紙を辰吉の前に広げた。
「これ、あの店の指図?」
「ああ。だが、見ただけで引いたものだから、正しくはねえと思うが……」
辰吉は、指図を手に取ると隅々まで目を通し、
「いや、結構合ってる。親父が引いた指図とは違うけど、こっちのが正しいかもしれない」
と言った。
「どういう意味だ?」
鏡之介が尋ねたが、水絵もそこを不思議に思った。
大工の棟梁が引いた指図より、見ただけで引いた鏡之介の指図のほうが正しいなんてことが、あるのだろうか?
辰吉は不満を滲ませた顔で、言った。
「実はさ、あの店の旦那――「桝屋」与八って言うんだけど――急かすくせに、時々、今日は早じまいしろなんて、昼過ぎくらいに俺たちを追い出すように帰すことが何回かあったんだ」
そして、その翌日行ってみると、明らかに誰かが手を入れた跡がある。
「最初の時、親父は文句を言ったんだ。『勝手なことされちゃ困る』って。けど……」
与八は棟梁を怒鳴りつけた。
「俺の店に俺が手を入れて、何が悪い!」
その後も、何度かそういうことがあったが、棟梁は我慢してなにも言わなかった。
「だから、あの店は、親父が引いた指図通りには出来ていない。きっと、鏡之介先生が引いた指図の方が合ってると思う」
「つまり……表向きは普通の店に見えて、中身はそうじゃないってこと?」
水絵が確かめると、二人は頷いた。
「はい」
「まあ、そういうことだ」
水絵は、辰吉が床に置いた指図をもう一度見た。水絵にはよく分からないが、二人にはこの図のおかしさが分かっているのだろう。
それにしても――と、水絵は思う。水絵には「行くな」と言っていたのに、自分は、こんな指図が引けるくらいあの店のことを調べていたのだ。
そう思ったら「とっちめてやる」と思っていた気持ちが、言葉になって表れた。
「わたしには『行くな』って言ったくせに、自分は、こんな指図が引けるくらい、何回もあの店に行ったんですね」
ずるいですよと、言おうとした言葉を遮ったのは、辰吉だった。
「鏡之介先生があの店に行ったのは、一回きりだよ。あちこち見ていたけど、差し金使ってるわけでもないし、何かを書き付けたりもしてなかった。それなのに、こんな指図引けちゃうなんて、鏡之介先生、ただ者じゃないね」
あの時の声が、ふいに水絵の耳によみがえった。
『おまえほどの算学者が、どこにいる!?』
平賀源内が、鏡之介に放ったあの言葉――。
すぐ近くにいるはずの鏡之介が、とても遠い人のように思えて、水絵は顔を上げられずにいた。
一瞬の沈黙が流れたが……。
鏡之介がからかうような口調が、その空気を破る。
「そう、河豚みたいに膨れるな」
「誰が河豚ですか!」
思わず言いかえすと、辰吉がぷっと吹き出した。
「確かに、水絵先生は、怒ると河豚みたいになるよね」
「辰吉まで……っ!」
鏡之介も声を上げて笑い、水絵はなにも言いかえせず、ぷいっと横を向いた。
やがて、辰吉が帰った後――。
水絵はまだ不機嫌なまま、手習いに朱を入れていた。
すると、鏡之介が、やけに大きなひとり言を言った。
「店の間取りがおかしいのは分かったが、問題は、『桝屋』がどうやって『酒屋株』を手に入れたかだなぁ」
明らかに、水絵に聞かせようとしているのは分かったが、まだ業腹だった水絵はそれを聞き流した。
だが、鏡之介の独り言は続く。
「一番いいのは、『花菱屋』の旦那にことの次第を聞くことなんだが、俺は『花菱屋』にこれといった縁がねえからな。行っても、門前払いを食っちまうかもな」
水絵は、一瞬だけ筆を止めたが、それでも、なにも言わずにいると、
「困ったな。どうしたもんだか……」
と、わざとらしくため息を吐く。
水絵はついに音を上げた。
「お琴さんに頼まれた小袖、仕立て上がってたんだった。届けに行かなくちゃいけないなぁ」
鏡之介に倣って、手習いの反古紙から目は上げず、独り言のように言う。
「でも、明日も明後日も寺子屋があるから、届けに行けないな」
そう言った時、いつの間にか鏡之介がすぐそばまで来ていることに気づいた。
「な、なんですか?」
顔をのぞき込まれ、思わず身を引いてしまう。
「明日は、俺ひとりで大丈夫だ」
「わたしに、『花菱屋』に行って、話を聞いてこいって?」
「なるべく、早いほうがいいからな」
さらっと言われて、「そうですね」と言いそうになる自分を、水絵は抑えた。
「『桝屋』を調べるのは駄目なのに、『花菱屋』には行けって言うんですか?」
すると、鏡之介は真顔になった。
「ああ、その通りだ。『花菱屋』には危ないところはねえが、『桝屋』はそうじゃねえからな」
確かにその通りだ。「花菱屋」なら、旦那の人柄もよく知っているし、お琴とも仲が良い。なんの心配もない。
けれど「桝屋」は――。
しかし、正しいことを言われても、それが正しいからこそ、腹立たしいこともある。
返事をしないでいたら、鏡之介がぽつりと言った。
「おまえにもしものことがあったら、『袖切り冬三』に会わせる顔がねぇ」
近くにいるはずなのに、届かない。
その距離の理由を、水絵はまだ知らない。




