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15 影を落とす新店

人の営みは、たいてい表から見えるものばかりで出来ている。

けれど、ときに――

何を商うのかさえ明かさぬ店が、ひっそりと姿を現すことがある。

それがどんな波紋を呼ぶのか、この時の水絵は、まだ知らなかった。


「あら、どうして?」


 辰吉の父は、決して仕事の手は抜かない腕の良い大工だ。それなのに……と思って尋ねると、辰吉は小声で言った。


「店っていうのは、商売によっていろいろ造りが違うだろ? だから、親父は何の店になるのかって聞いたんだ。だけど、向こうは何度聞いても言わねえんだよ」


「大工にも言わないなんて、おかしいわね」


「そうなんだ。だから、後ろ暗い商売なんじゃねえかって気にしてる。そのうえ、早くしろってやたら急かすし」


 辰吉の顔も暗いが、働いているほかの大工たちも乗り気でないのが見て取れる。水絵がなんと言っていいか分からずにいると、辰吉はふっと一つ息を吐くときっぱりと言った。


「けど、親父は一度引き受けちまったものは、断るわけにはいかねえって言ってる。だから、俺も手を抜かずに仕事する。この普請が終わるまで、寺子屋には行けないから……」


 辰吉は、少し言いよどんでから、付け加えた。


「……鏡之介先生にも、そう言っておいて」


「伝えておく。そろばんの時、辰吉がいないと、鏡之介さんは淋しいだろうけどね」


 すると、辰吉は少しすねた口調で言った。


「俺なんかいなくても、礼次がいれば大丈夫だろ」


「そんなことない」


 水絵は間を置かずに言った。


「鏡之介さん、いつも言ってる。辰吉がそろばんに向き合う真摯な姿勢は、歳下の寺子たちのいいお手本になるって」


「ほんと?」


 辰吉の顔がぱっと明るくなる。


「だから、普請が終わったら、必ず寺子屋に帰ってきて。それと、そろばんをはじく大事な指、怪我なんかしないでね」


「そんなへま、しねえよ」


 辰吉が、にやっと笑ったとき、「辰吉、何してんだ?」と呼ぶ声がした。


「いけね、親父にどやされる」


 慌てて仕事に戻る辰吉を見送ってから、水絵はお琴のそばに戻った。


「お知り合い?」


「寺子なんです。父親が棟梁で。それで……」


 水絵は、辰吉に聞いたことをお琴に話した。


「大工もなんの店だか知らないの?」


 お琴は驚きに目を見開き、


「お父様に話しておかないと……」


 と、不安げなまなざしで言った。


 翌日、水絵は少し早く眞性寺に向かった。鏡之介も早く来ていれば、寺子達が来る前に、「おむすび 美味しい 思い出」の種明かしが出来るからだ。

 どんなふうに種明かししようか、頭の中で話を組み立てながら本堂に行ってみると――。


「おう、早いな」


 すでに、鏡之介の姿があった。


「鏡之介さんこそ」


 ずいぶん早いんですね、と言おうとして、その前に置かれている木箱が目に留まる。


「なんですか、それ?」


 本堂に上がり、覗いてみて驚いた。


「そろばん? ……しかも、ずいぶんたくさん……」


 どうしたんですか? と、尋ねる気持ちで顔を上げると、鏡之介が苦笑した。


「昨日、俺のうちに『浅葱屋』の若旦那が持ってきた。寺子屋に納めてほしいってさ。どうやら、文の謎解きをした礼のつもりらしい」


 全く、律儀なやつだ……とつぶやきながら、鏡之介は箱の中のそろばんを一つ手に取る。


「贅沢な品じゃねえが、造りがしっかりとして、珠の動きもなめらかだ。こいつは長持ちする。いい見立てだ」


「……こんなにたくさん」


 数えてみると、そろばんは十挺あった。


「でも、なんでわざわざ、鏡之介さんの家に?」


「寺子屋が休みだったからだよ」


 休みとは知らずに、信之助は眞性寺を訪れた。鏡之介も水絵もいないと聞いて、最初は水絵の家に届けようとしたらしい。けれども、祐光師から、水絵は「鳴門屋」に行っているはずだと聞かされ、鏡之介の家を教えてもらったそうだ。


「ついでに、『おむすび 美味しい 思い出』の謎解きもしていった」


 苦笑しながら、鏡之介が付け足す。


「十年前の、神田祭の話ですか?」


「その様子じゃ、水絵もお琴さんから話を聞いたな」


「ええ」


 と答えてから、水絵は少し口をとがらせた。鏡之介に謎解きをする手順を色々考えていたのに……と。その時、もうひとつのことを思い出した。


「そう言えば、『花菱屋』の近くで、辰吉に会いました」


 辰吉からの伝言に加えて、はす向かいの店のおかしな様子についても語る。

 鏡之介は真剣な表情で聞いていたが、


「そりゃあ、礼儀知らずで済まされることじゃねえな」


 と、眉をひそめた。


「婚礼は八月らしいが……」


 今は六月。あとふた月だ。それまでに、何事も起こらなければ、よいけれど……などと考えていたら、まるで、その考えを読んだように鏡之介が言った。


「そのはす向かいの店を調べようなんて気は起こすなよ。おそらく、おまえの手に負えることじゃねえ。今度ばかりは、岡っ引きのまねごとはやめておけ」


 いつもの軽口なら、言いかえすことが出来た。だが、鏡之介の口調はいたって真面目で、表情も真剣そのものだった。

 だから、水絵は「分かりました」としか、言えなかった。


 しばらくして、辰吉が寺子屋に戻ってきた。

 少し見ない間にずいぶん大人びていて、水絵は驚いて、


「久しぶりね」


 と言うのが精一杯だったのだが――。

 鏡之介は、優しい笑顔を向けて言った。


「普請終わったんだな。もう一丁前の大工の顔をしてるぜ」


 辰吉は少し照れた顔を見せる。その表情はいつもの辰吉で、水絵はほっとした。


「俺なんか、まだまだだよ。しょっちゅう親父に怒鳴られてるし」


「叱るのは、見込みがあるからだ。親父さん、俺にはおまえの自慢をしてたぞ。『あいつはいい大工になる』ってな」


「え? 鏡之介先生、いつ親父とそんな話を?」


「そりゃあ、日本橋の店の普請を見に行った時に……」


 と言いかけて、鏡之介は慌てて口をつぐんだ。ちらっと水絵のほうを見て、自分が睨まれていることに気づく。鏡之介は、


「……ええと……」


 と、口ごもったが、水絵の表情に気づかない辰吉は、嬉しそうに、


「ああ、あの時。鏡之介先生、ずいぶん熱心に店の中、見てたよな」


 などと言う。

 つまり、水絵には「調べるな」と言っていたのに、自分は店の様子を見に行っていたということだ。

 鏡之介は、水絵から目を逸らし、


「ま、まあな」


 と、口の中でもごもごと言う。それからわざとらしく、


「手習い、始めるぞ。みんな、座れ」


 などと大きな声で言った。


「はあい」


 と、それぞれの席に着く子どもたちを見ながら、水絵は「後でとっちめてやる」と心の中で言った。

 だが、鏡之介のあの表情は、隠し事がばれた気まずさ――それだけではないような気がしていた。


ほんの些細な違和感だった。

けれど、それを見過ごしてよいものかどうか――

答えは、まだ出ていない。

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