14 やさしさの行き先
花嫁衣装に、小紋に、そしてひとつの思い出。
心が満ちる日というものは、確かにある。
――だからこそ、変化は静かに忍び寄る。
「それが、『浅葱屋』の若旦那だったんですね?」
お琴は頬を染めて頷いた。
「わたし、信之助さんの顔を見た途端、大泣きしちゃったの」
信之助は戸惑いながらも、お琴を抱き上げ裏口から浅葱屋の中に入れてくれた。
足から血が出ているのに気づくと、手当てをしてくれ、さらに、お腹がすいていることにも気づき――。
「『ちょっと待っててください』って言って、持ってきてくれたのが……」
ふふっといたずらっ子のように笑うお琴を「かわいいな」と思いながら、水絵は言った。
「おむすびだったんですね」
「それがね、まるで瓜みたいに大きくて丸いおむすびだったの。まん丸じゃなくて、ちょっといびつで」
そんなおむすびを見たことがなかったから、思わずじっと見つめてしまったら、信之助は困った顔をして言った。
「すみません。今日は板場が忙しくて、板前に頼めなかったものですから」
「若旦那さんが作ってくれたんですか、おむすび?」
水絵の言葉に、お琴は再び頷いた。
「そのおむすびが、とっても美味しくて……。『美味しいです』って言ったら、信之助さん、『お腹がすいていたからですよ』なんて……」
だから、お琴はもう一度言った。
「このおむすび、今まで食べた中で、一番美味しい」
すると、信之助は照れたように笑いながら、
「わたしが作ったものを『美味しい』と言ってくれたのは、お琴さんがはじめてですよ」
と、言う。
「わたし、その時、この人のお嫁さんになりたいなぁって思ったの。でも……」
お琴は話を続けた。
もう少し大きくなると、その願いは叶わないと気づく。年も離れているし、そもそも跡取り息子に跡取り娘だ。
「諦めるつもりだったんだけど、信之助さん、いつまで経ってもお嫁さんをもらわないし。変だなって思っていたら、お父様が言ったの。信之助さん、料理が苦手だから、『浅葱屋』で肩身の狭い思いをしてるって。後添えのおかみさんとの折り合いも悪いって」
お琴の父は、ひどく腹を立てて言った。
「料理屋は、板前の腕だけで成り立つものじゃない。若旦那がしっかり帳場を預かっているから、『浅葱屋』は繁盛してるんだ。あの人は、商売の勘所というものが分かっている。『浅葱屋』が要らないというのなら、うちに欲しいくらいだ」
「お父様は、言葉の綾で言ったんだってことはわかってたわ。でも、わたし、思い切って、言ってみたの。『それなら、信之助さんをうちのお婿さんにしたら』って」
最初は驚いていた「花菱屋」の旦那も、お琴の気持ちを知ると本気になり、「鳴門屋」の大旦那に仲立ちを頼んだ。
だが、なかなか話は進まない。だから、お琴は、信之助に文を書いた。
「でも、ちょっと恥ずかしくて……。だから、あんな判じ物にしちゃったんだけど……」
水絵さんが解いてくれて、よかったわ、と、お琴はもう一度、水絵に頭を下げた。
「判じ物を解いたのはわたしですけれど、あの言葉の意味を若旦那さんはすぐに分かったのでしょう? 十年前のこと、若旦那さんも、ちゃんと憶えていたんですね」
こくりと頷きながら、お琴は小さな声で「嬉しかった」とつぶやいた。
その後、「小紋のほうは、水絵さんが仕立ててね」と頼まれたので、二人で裏を選んだ。
選びながら、お琴が言った。
「今の話、誰にも言わないでね」
「はい」と答えながら、水絵は、鏡之介は知りたがるだろうなと思い、どう誤魔化そうかと悩んでしまう。そんな思いが表情に出たのか、お琴はふふっと笑いながら言った。
「ああ、でも、なんとおっしゃったかしら、水絵さんと一緒に寺子屋で師匠をなさっている……」
「……鏡之介さんですか?」
「そう、その鏡之介先生になら、言ってもいいわ。判じ物を解くお手伝いをしてくださったのでしょう?」
お琴の判じ物は、ほとんど水絵一人で解いたのだが、そう言ってくれるならありがたいので、あえて、正すことはしなかった。
「……ありがとうございます。きっと気にしていると思うので……。鏡之介さんは、こういうことを言いふらす人ではありませんから」
「鏡之介先生って、おいくつの方なの?」
いきなり聞かれて、水絵は戸惑いながら、
「三十歳と聞いていますが」
と答える。すると、お琴は、口の中で「信之助さんの二つ下……水絵さんは、わたしよりひとつ下……」などとつぶやいている。
「……あの……?」
どういう意味ですか? と聞こうか聞くまいか迷っているうちに、お琴はぱっと顔を上げて、言う。
「じゃあ、小紋のお仕立て、お願いね」
水絵は、「はい、お任せください」と答えるしかなかった。
用向きは終わったので、お琴と二人で「鳴門屋」を後にした。方向が同じなので、並んで歩きながら、「花菱屋」の前まで来ると、何やら普請をしている音が聞こえてくる。
見ると、「花菱屋」のはす向かいの店を普請し直しているらしい。
「あのお店、長いこと空き店だったんですよね。なんの店になるんですか?」
何気なく聞いたのに、お琴の顔が曇った。
「それが、分からないのよ。普通なら、普請の前に挨拶に来るものでしょう? それなのに、近所の店には何の挨拶もなく、普請が始まってしまって。礼儀知らずだって、お父様は怒ってるわ」
「そうなんですか……」
と、返した時、水絵は、普請をしている大工の中に見知った顔を見つけた。「ちょっとすいません」と、お琴に断って、大工の一人に声を掛けた。
「辰吉?」
振り返った辰吉は、水絵に気づくと、駆け寄ってきた。
「水絵先生。どうしたんだ、こんなところで」
最近、辰吉をはじめとする年長の寺子は、「水絵先生」と呼んでくれるようになっていた。小さい子は、相変わらず「水絵姉ちゃん」だが。
「『鳴門屋』さんに用事があって。ここの普請、辰吉のうちの仕事だったのね」
すると、辰吉も何故か浮かない顔で答えた。
「そうなんだけど……親父はあんまり乗り気じゃないんだ」
やさしい思い出は、人を強くする。
けれど、
それだけでは守れないものもある。




