↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
42/43

41.5- 宴会

どちらともなく沈黙を破ることもなく、連れ立って宴会場へと戻る。

手の中には、未だ固く握りしめられた香織子の手がある。

安堵しきっているわけでも、怯えきっているわけでもない。いかなる言葉でも名付けようのない、ひどく曖昧な熱だけがそこから伝わってきた。


ぱたり、と背後で小さな客間の扉が閉まる。

ついに口を開いたのは、香織子のほうだった。


—「さて……ここに突っ立っていても答えは出ませんね。動きましょうか、だんなさま」


—「何をするつもりだ」


—「いつも通りでございますよ。誰も真に受けないような、馬鹿げた質問をして回るのです」


ふふ、と意味ありげな視線を向けてくる。


—「お義父さまは、決してその名を口にしてはいけないと仰った。けれど、その周辺を探ってはいけないとは、ただの一言も仰っていませんわ」


この夜の深刻さにもかかわらず、思わず口元が緩んでしまう。


—「広間を手分けして回るか」


—「ええ、それがよろしいかと。だんなさまは殿方へ、私はご婦人方の方へ。一時間半後にまた落ち合いましょう」


ほどなくして逸子さまがこちらの姿を認め、香織子を広間の静かな一角へと連れ出してくれた。

そこにはすでに、捨松さまが腰を下ろしている。

片手には葡萄酒(ワイン)の満ちた硝子杯(グラス)。華やかな社交の場にあっても決して曇ることのない、鋭利な観察眼で人だかりをねめ回していた。


—「それで」


香織子を挟んで捨松さまの隣に腰掛けつつ、逸子さまが尋ねてくる。


—「お父さまは、いかがなご様子でした?『案じてはいるが、それを表に出すくらいなら死んだほうがましだ』といったお顔かしら。それとも『政治的な難題を抱え込んだゆえ、理由も告げずにその重荷をお前たちに背負わせるぞ』といったお顔?」


—「両方を少しずつ、といった塩梅でございましたね」


香織子がこともなげに答えてみせる。


—「そこに葱と甘藍を混ぜ込み、『絶対に明かせない秘密を抱えているぞ』という薬味をひとつまみ、ふりかけたようなお顔でございました」


—「くすくす、それはまさに勝海舟閣下そのものですわね」


捨松さまが、上品に笑い声をこぼす。


—「昔からずっとあのようなお方よ。私たちが海外から帰朝した日、清隆さんを迎えにいらしたときもそうだったわ。勝さまは、早まって秘密を一つ漏らすくらいなら、十の秘密を抱えたまま腹を切るようなお方ですからね」


香織子は、ごくわずかに身を乗り出す。

もっとも真剣な問いを放つときに用いる、彼女特有の巧妙な仕草だった。


—「秘密といえば、でございますが……。こちらにいらっしゃる名家の方々も、奇妙な古い血筋にまつわる逸話などを一つや二つ、お持ちなのではないですか? 広間では決して声に出して語られずとも、ひそやかに囁かれているようなお話ですわ」


逸子さまと捨松さまは、ちらりと顔を見合わせた。

ほんの一瞬。その問いが真に無邪気なものか否かを図りかねる、女たちの鋭い視線が交錯する。


—「どこの家にも、その手の類の話はあるものよ。……どうしてそのようなことをお聞きになるの?」


逸子さまが、慎重に言葉を選んで返す。


—「単なる異邦人の好奇心でございます」


計算し尽くされた仕草で、香織子はすくみあがってみせた。


—「私はそういうお話に目がなくて、我を忘れてしまうほどなのです。私の故郷では、どの村にも精霊(ジン)や魔女の伝説がございましてね。自分でそれらをまとめた詞華集を作ったほどですの! 日本の貴族の方々にも、似たようなものがあるのではないかと思いまして。真面目すぎるがゆえに、かえって怪しいほどひっそりとしている一族、とでも申しましょうか」


捨松さまはしばらく物思いに沈むように香織子を見つめていたが、やがて口を開く。

すべてを聞き取れる距離にいた僕の耳にも、はっきりと伝わるほどの警戒を含んだ声だった。


—「たしかに、噂はあるわ。ごく一部の、それこそ勝家の祖たる物部氏よりもさらに古い血筋について。ご維新ののちも、政府が公式に認めることはなかったけれど、あえて廃止することもできなかった特権を……そうね、保持し続けている一族がいる、と」


誰も直接触れようとはしない。風紀を乱すような醜聞よりも早く、その場の全員を黙らせてしまうような話題だからだ。


—「とはいえ、あくまで都市伝説の域を出ないお話ですけれど」


—「興味深いですわね。そして、その方々が何者なのか、どなたもご存知ないのですか?」


香織子の口調は、それが一過性の好奇心などでは断じてないことを雄弁に物語っていた。


—「仮にご存知の方がおられたとしても」


今度は、逸子さまが声を潜める。


—「降誕祭(クリスマス)の晩餐会で、その話を持ち出すような野暮なお方はいないでしょうね」


その言葉のあとに落ちた沈黙は、完全に無邪気とはいい難いほどに、ほんのわずかだけ長く引き伸ばされた。

直後、唐突さを一切感じさせない見事な社交術で、捨松さまがより和やかな方角へと会話の舵を切ってくれる。


—「それよりも、マンドラについて聞かせてくださらない? 逸子さまから、ご自身でお作りになったと伺いましたわ。それに、爾国(アルジェリア)のことも教えてちょうだいな」


その問いには、香織子も隠そうとしない喜びをもって応じる。

真に心惹かれる話題を口にするときがそうであるように、両手はすでに空中に何かを描き始めていた。


—「爾国(アルジェリア)、でございますね。錦絵(にしきえ)のようなお話がよろしいですか、それとも真実の姿がよろしいですか?」


—「もちろん、真実の姿を」


—「では……冬になると雪の頭巾(ターバン)を巻いているかのように高くそびえる山々を想像してみてください。谷へ滑り落ちるのを恐れるように、山肌にすがりつく村々。そこには、金属の釘を一本も使わず、三世代がかりで手作業で積み上げた石造りの家々が並んでいます。そして眼下には海が広がっていますの――私が他では一度も見たことがないほど、青く澄んだ海が。こちらの海岸も素晴らしいですが、あの青さには敵いませんわ」


—「人々はどのような感じなのですか?」


逸子さまの問いに、香織子は誇らしげに微笑む。


—「誇り高いですわ。時として、自身の身を滅ぼしかねないほどに。故郷では『カビル人は乞食をするくらいなら餓死を選ぶ』と申しますが、それはほぼ真実でございます。――『ほぼ』と申しますのは、その誇り高さとは少し矛盾するような、容赦ない交渉人としての顔も持ち合わせているからですけれど」


ふふ、と香織子は笑う。


—「そして、驚かれるほどの客人歓待の精神を持っていますのよ。扉を叩く見知らぬ人であれば、たとえそれが一族の敵であっても、用件を聞く前にまず食事を振る舞わねばなりません。それはどんな王様の掟よりも古い掟なのです。もっとも、日本のようにすべての事において勤勉というわけではございませんけれど。常に謙虚で、どこか現実的なところがありますの」


—「いつかこの目で見てみたいわ」


捨松さまは、心から夢見るように息をついた。


—「米国(アメリカ)には行きましたし、仏国(フランス)も少し見ましたけれど、非州(アフリカ)はまだですもの」


—「ぜひいらしてくださいませ。もし私がいつか戻ることがあれば、自らご案内いたしますわ」


そこで言葉を切り、彼女特有の唐突な話題転換で、いたずらっぽい笑みを逸子さまへと向ける。


—「さて、今度は私から質問する番でございますね。私が知り合う前のだんなさまは、どのような方だったのですか? とっておきのお話が聞きたいですわ。子供の頃の馬鹿げた失敗談など」


逸子さまと捨松さまは、こちらにとって到底良い予感のしない視線を交わした。


—「まあ。良いところにお気づきになりましたわね」


肉食獣のような笑みを浮かべ、逸子さまが応じる。


—「耐え難いほど真面目だったのよ」


捨松さまが、一語一語を味わうように語り始める。


—「学習院で、他の男の子たちが些細なことで殴り合ったり、隣村の女の子たちの尻を追いかけ回したりしている間、この人は一人部屋にこもって、趣味で弾道計算の復習をしていたの。趣味でよ、石場さん。趣味で弾道計算を復習する人間なんていないわ」


—「まったく驚きませんね。あの人は、世界から自分の人生の分を力ずくでもぎ取ってきたような人ですから」


香織子が笑い転げる。


—「それに、西洋将棋(チェス)で負けるのを極端に嫌がっていたわ」


逸子さまが追撃する。


—「あるお正月に、いとこに三回連続で負けたことがあってね。丸二日間もふてくされて、家族と一緒に食事を取ろうと階下へ降りてこなかったのよ。十一歳のときのことね」


—「十一歳、でございますか」


声の届く場所に留まっていたことを後悔させるような視線で、香織子が振り返る。


—「だんなさま。どうやら当時からあまりお変わりないご様子で」


—「異議を申し立てる」


口を挟んでみたものの、大した説得力はない。


—「すでに提琴(ヴァイオリン)も弾いていたわね」


捨松さまは僕の抗議を華麗に無視して続ける。


—「最初は下手だったの。本当に下手だったわ。私たちの共通の音楽の教師は、清隆さんのことを『楽器を弾くというより、自分自身の悲しみと交渉しているようだ』と評していたわ」


その言葉のあと、ふと沈黙が落ちた。

香織子は今度は笑わず、こちらが望む以上に、心を打つほど柔らかく表情を和ませた。


—「それは……少しも変わっていませんね」


静かなつぶやきが、耳を打つ。


一方、窓際で一人佇む道仁親王殿下のお姿を見つける。

殿下は、闇に沈む庭園を、いつものあの遠くを見つめるような眼差しで眺めておられた。

まるで心の一部が常に別の場所――誰にも見えない場所――に留まり続けているかのようだった。


—「人混みから逃れておいでですか、殿下」


—「目を休めておるのだ。この種の夜会は、昔よりも早く余を疲れさせる」


殿下はすぐには振り返らずに、低く荘厳な声でお答えになる。

敬意を払った距離を保ちながら近づき、しばらくの間、並んで庭園を眺める。

その沈黙は決して不快なものではない。

礼儀から言葉をひねり出し、空隙を埋める必要がない程度には、殿下との付き合いは長かった。


—「思い悩んでいる様子だな、清隆。いつも以上に」


ついに口を開かれた殿下が、こちらを向く。

その唇には、ひどく疲れたような微笑みが浮かんでいた。


—「複雑な事案を抱えておりまして」


—「お前が抱える事案は常にそうであろう。……余に話したいのか、それとも、お前が何か特定の事柄について遠回しに聞き出そうとしていることに、余が気づかぬふりをしてほしいのか?」


思わず苦笑が漏れる。

道仁親王殿下は昔から、こちらが望むよりもずっと容易く腹の内を見透かしてこられるのだ。


—「殿下は、古い血筋に精通しておられますね。何代にもわたり、公式の記録には決して姿を現さぬまま、皇室の傍らにあり続けるような一族についてです」


慎重に言葉を選ぶ。

道仁殿下の表情に、何かが変化した。微かな、ほとんど気づかないほどの緊張。

しかし、決して完全に切ることのできない諜報武官としての観察眼は、意図せずともそれを捉えてしまう。


—「なぜ、そのようなことを尋ねる」


—「職業上の好奇心にすぎません」


—「諜報の任に就く者にしては、嘘が下手だな」


殿下のお言葉に、本当の責める響きはない。むしろ古傷が痛むような、徒労感ばかりが滲んでいた。

誰とも分かち合うことのできない重荷を背負う男の疲労である。


—「お前のいうような一族は、確かに存在する。中には玉座にあまりに近すぎるがゆえに、どこまでが皇室でどこからが彼らなのか、境界すら判然とせぬ者たちもおる」


—「そして殿下は、一介の親王が知るべき以上のことをご存知なのですか?」


ふっ、と殿下は短く喜びのない笑い声を漏らし、無造作を装って胸に手を当てられた。

だが、それが本物の痛みを隠しきれていないことは明白だった。自身の認識の甘さを思い知らされる。


—「余が一介の親王に見えるか、清隆」


—「いいえ、殿下。殿下は、陛下のただ一人の弟君であらせられます」


親王殿下は、いっそう自嘲気味に笑われる。


—「余は皇族なのだ、清隆。決して口にしてはならぬ事柄を知っておる。それは共有すべき情報としてではなく、沈黙の中で背負うべき重荷として教え込まれたからに他ならぬ」


ふいに、射すくめるほどの鋭い視線がこちらを貫いた。


—「この件を、これ以上深く掘り下げるな。余のためでも、お前自身のためでもない。ましてや、あの娘のためには絶対にな」


—「あの娘、ですか」


—「お前の婚約者のことだ」


道仁殿下は目を逸らし、再び庭園の暗がりへと視線を戻される。


—「なぜあんなことを口走ったのか……今の言葉は忘れてくれ」


長い沈黙が落ちた。

今起こったことを冷徹に分析しようとあらゆる理性を総動員したにもかかわらず、胸の奥底で脈打つ新たな不安を鎮めることができない。


—「宮さま」


—「これ以上は何も言わんぞ、清隆」


殿下の声には、滅多に聞いたことのない断固たる響きがあった。


—「お前を信用しておらぬからではない。ある種の真実というものは、一度口にしてしまえば、二度と取り消すことができぬからだ。そして、その真実が正確にはどのようなものであれ、お前がそれを背負う覚悟ができているとは思えぬ。……とはいえ、一つだけ言っておこう」


—「それは何でしょうか、殿下」


おいでおいで、と親王殿下がそばへ寄るよう手招きされる。


—「歴代天皇の『霊血(れいけつ)』を知っておるか」


—「はい、殿下。神託の力のことですね」


—「実のところ、お前が探っている者たち……つまり支那(しな)の初代皇帝・秦(しん)の始皇帝(しこうてい)の末裔たちのおかげで、強大な術を持たなかった天照大御神の末裔たる大和(やまと)の大王(おおきみ)たちは、その力を授かり、天皇となり、神々との契約を通して日本に『霊血』をもたらしたのだ」


—「歴史と伝説の境界は、いとも容易く曖昧になるものですね」


—「いずれにせよ、彼らと玉座とは、ご維新以来、水面下で対立を続けておる。そして……決して誰にも言ってはならぬが、それ以来、我が兄である天皇陛下は……神託の力を失われてしまったのだ」


宮さまがその場を立ち去られる中、凍りついたように立ち尽くすほかなかった。

神託の力とは、神権によって菊花の玉座に就くことを正当化する、霊血の証である。

それがなければ天皇の正統性は失われる。

そして、もしその賜物が他の誰かに顕現したのだとすれば、その者は即座に皇太子として立てられねばならない。


これは国家機密だ。

頭の中で、この捜査の規模が「ありふれた事件」から「国家の命運を握る事件」へと一気に跳ね上がる。

懸かっているものが途方もなく大きすぎた。

そしてこの情報は、誰にも明かすわけにはいかない。たとえ香織子であっても。


間もなくして、殿下が随員たちの元へと合流すべく歩み去られるのを見送る。

その後ろ姿には、決して離れることのない、あの疲れ切ったような優雅さが漂っていた。

窓際に一人残された頭の中では、「あの娘のためには」という先ほどの言葉が渦巻き、夜会が終わるまでその不安を拭い去ることはできなかった。


懐中時計に目を落とすと、約束の一時間半が経過している。


香織子を見つけたのは、まさに別れたのと同じ場所だった。

彼女はまだ逸子さまや捨松さまと一緒に、今の僕には到底理解する気力も湧かないような冗談を言って笑い合っている。

近づく姿を見て彼女は立ち上がったが、こちらを間近でまじまじと観察するにつれ、その笑顔は次第に消え失せていった。


—「ひどい顔をしておいでですね。ここに着いたときよりもさらに悪くなっていますわ」


単刀直入に言い放つ。


—「ありがたいな」


—「褒めたわけではございませんよ。親王殿下と何があったのですか?」


—「大したことではない」


僕は嘘をついた。

僕たちの間に生まれたこの初めての「本当の嘘」の重みが、間違えて飲み込んだ石のように胸の奥に居座るのを感じている。


彼女はしばらくこちらを見つめ、普段なら疲れ切った婚約者ではなく、もっと狡猾な敵に向けるような疑念の目で目を細めた。

だが、それ以上追及してくることはない。

夜遅い時間への配慮だったのか、あるいは、これ以上分析したくないという直感だったのか。

おそらく、この沈黙だけは他のものとは違い、暴くよりも尊重すべきものだと悟ってくれたのだろう。


—「今回は、何時間寝ていないのですか?」


代わりにそう尋ねてくる。素早く計算した。


—「およそ四十八時間だ」


—「だんなさま……」


—「分かっている」


答えたものの、あくびをもらしたのは僕ではなく彼女のほうだった。

ふぁあ、と両腕をぐーっと伸ばしながら、獅子のような大あくびをし、口を大きく開けて奥歯まで見せている。


—「ああもう、一刻も早く自分のお布団に倒れ込めるなら、何だって差し出しますよ!」


外套(がいとう)を探しているところへ、母である民子が近づいてきた。

その顔には今夜初めて、一切の計算を含まない純粋な心配の色が浮かんでいる。


—「吉祥寺まで帰るには時間が遅すぎますよ。今夜はここに泊まっていきなさい。客室の準備はできています、いつものことですからね」


—「お心遣いはありがたいのですが、母上」


—「提案しているわけではありませんよ、清隆」


母がぴしゃりと言う。


—「それでも」


香織子が、必要なときにだけ見せる毅然とした礼儀正しさで応じた。


—「ご辞退申し上げますわ、民子さま。のぞみが待っておりますし、私たちが帰らないとなれば、あと一時間馬車(ばしゃ)に揺られているのを知るよりもずっと心配いたしますから」


民子はさらに抗議しそうな様子を見せたが、香織子の語気にある種の――容易には反論を許さぬ静かな決意――を感じ取り、それ以上主張するのを諦めたようだった。


—「好きになさい」


ついに母が折れる。その溜息には、おそらく彼女自身が認めたくないほどの愛情が滲み出ていた。


—「気をつけて帰りなさい。それから清隆――たまには眠るのですよ。お前が衰弱していくのを案じているのは、婚約者だけではないのだから」


—「ご心配には及びませんわ。お正月にはまた伺いますから」


香織子の言葉に、ぎくりと顔を引き攣らせる。


—「僕は遠慮しておく」


—「だんなさまもご一緒に」


香織子が有無を言わさず返す。


数分後、辻馬車(つじばしゃ)に乗り込みながら悟った。

あれは母がここ数年でこちらに向けた、もっとも直接的な愛情表現に近いものであったのだと。


帰りの道中は、疲れ切った沈黙に包まれた。

結局、香織子は許可を求めることすらなく、こちらの肩にこてん、と頭をもたせかけてくる。

数週間前であれば、決してしなかったであろう行動だ。


—「いつか教えてくださいね」


半ば眠りに落ちかけながら、彼女は呟く。


—「親王殿下が、あなたに何を仰ったのか」


—「いつかな」


短く答えた声は、自分が望んでいた以上に、重い意味を帯びてしまっていた。


彼女は何も答えず、すでに眠りの底へと引き込まれている。

残りの道中ずっと目を開けたまま、これまで一人で背負ったことのないほどの重みを持つ国家機密の重圧が、両肩にのしかかるのを感じていた。

最後までお読みいただきありがとうございます!もし少しでも「面白い」「続きが気になる」と思っていただけましたら、下部から評価(⭐)やブックマーク、ご感想をいただけますと執筆の大きな励みになります!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。