42- 報告書
【勝 清隆】
明治24年(1891年)十二月二十六日、(土)
重大な事実。僕が香織子よりも早く目を覚ましたことだ。それ自体、自分の記憶の片隅に書き留めておくべきほど稀有な出来事である。
時計は六時を回っていた。彼女はまだ眠っている。
顔の半分を枕に埋め、頬には髪の毛が一筋かかっている。昨晩の並外れた疲労から回復しきる前に起こしてしまうのを恐れ、その髪を払いのけたい衝動をぐっとこらえた。
音を立てずに階下へ降りる。自分で珈琲を淹れてみた――ひどく不器用な手つきで、香織子が毎朝なんなくやってのけるものに辛うじて似た代物を得るまで、二度もやり直す羽目になった。
のぞみが起き出してくるよりも早く、急ぎ出立する旨を記した書き置きを卓袱台に残し、市ヶ谷へと向かう。
内閣への報告期限は、今日なのだ。
登庁した第二局(情報局)は、軍の行政機関というより、恐慌状態に陥った蜂の巣であった。
ありとあらゆる平面に書類の山が築かれ、伝令たちが足早に行き交う。
大地は、単なる年末の事務処理というより、激戦を生き延びた兵士のような顔つきで机に突っ伏していた。僕の姿を認めても、ろくに顔を上げようともしない。
—「清くん。少しは寝たと言ってくれよ」
—「五時間だ」
—「奇跡だな!」
大地は周囲の書類の山を、ぞんざいな身振りで指し示す。
—「月曜までに全部片付けなきゃならない。進行中の案件、四半期報告、会計と兵站、おまけに大掃除の段取りまで。なんでも、埃まみれで新年を迎える情報局は縁起が悪い、とかいう理由らしいぞ」
—「口数が多すぎるぞ、大地。書類仕事に戻れ」
数歩離れたところでは、十部くんが機械的な早さで文書を分類している。だがその所作には、平素の彼には珍しいほどの緊張が張り詰めていた。
—「中佐殿。観菊会および加瀬の件の報告書は……書き上がりましたか」
—「まだだ」
—「正午までには提出していただかないと。川上 中将 閣下 が年末の行事で出立される前に、直接ご報告する時間がなくなります」
川上操六中将は、参謀次長にして薩摩閥の出身である(長州閥が牛耳る陸軍にあって異例のことだ)。しかし、中将が陸軍最高の頭脳であり、もっとも優秀な将校であることに疑いの余地はない。個人的には大いに敬服しているが、彼の前に立たされることだけは御免被りたかった。
しかし、選択の余地はない。第二局を束ねているのは彼なのだ。
第二局は三つの課に分かれている。第一課「保安(防諜)」、第二課「兵要地誌(諜報)」、そして僕が率いる第三課「軍事資源(またの名を、魔術・非論理的事象処理課)」である。
書類の束を抱えて部屋を横切ろうとした竜橋が、ふと足を止める。
—「中佐殿。中村と近藤についてですが、正確にはどう抗弁するおつもりで?」
—「寛大な処置を」
僕は答える。
—「あの二人が主犯格だとは微塵も匂わせない。あくまで末端の実行犯として扱う」
彼はそれ以上何も言わずに頷き、書庫へと歩み去る。
この朝、我々は皆、他人と完全に分かち合うことのできないそれぞれの重荷を背負っていたのだ。
—「その『真の主犯』が、何を口走るかわかったもんじゃないがな」
事情を知る大地が、皮肉っぽく呟いた。
自室にこもり、冷めかけた茶を傍らに、軍歴においてもっとも細心の注意を要する文書の作成に取り掛かる。
『報告書――いわゆる「横浜港および観菊会事件」の総括と結論』。
結果を要求する政府を満足させるだけの事実を記しつつ、僕が守ると誓ったもの――直江の安全、単なる道具に過ぎなかった二人の男への恩赦、そして何より、昨夜、道仁親王殿下から託されたあの恐るべき秘密――を危うくするようなことは、決して書いてはならない。あの秘密は、思い出すだけで息が詰まるほどの重みを持っていた。
書いては消し、また書き直す。
やがて、妥協点と呼べる文面が形を成した。
『没落シタル榎本家旧臣・加瀬周平ナル者、実験ノ目的ヲ以テ禁忌トサレタル「霊血」ノ術式ヲ行使セリ。
明治二十四年十一月十四日、異常ナル能力ヲ中村浩ナル者ニ付与シ、横浜ニ於ケル政府倉庫襲撃ヲ惹起セシム。
更ニ同十一月二十九日、動機未ダ判明セザルモ、観菊会ニ於テ総理大臣閣下ヲ公然侮辱セン事ヲ企図シ、第二ノ男・近藤一郎ヲ介シテ画策セリ。
該加瀬周平ハ十二月十五日、発見及ビ尋問ヲ経タル後、正体不明ノ狙撃手ニ依リ射殺サル。
現今ニ至ル迄、狙撃手ノ正体及ビ動機ハ不明ナルモ、敵対派閥ニ属スル者ト推測サルル処ナリ。』
文書を三度読み返す。
そのたびに、書かれていることよりも「書かれていないこと」の多さに、じわりと嫌な汗が滲み出した。
輸出された霊血の写本(公式には禁忌であるため)についての言及はない。
加瀬が単なる榎本の家臣ではなく、秦氏の家臣であったことも書かれていない。氏内部における勤皇派と革命派の分裂も、革命派が総理暗殺と加瀬の処刑を仕組んだことも、この氏と皇室との確執も、一切触れられていない。
そして何より、木下 尚江が、これまで見出された唯一の血族であることも、彼の存在自体も、完全に伏せられている。
語るべき事実よりも、隠蔽した沈黙によって構築された報告書であった。
午後二時丁度。川上 操六 中将 に呼び出される。
建物中の至る所で狂騒が渦巻く今日にあって、彼の執務室だけは暴力的なまでに整然としていた。
市ヶ谷の参謀本部中枢にあるその部屋は、葉巻の香りと権力の匂いが充満している。
重厚な桃花心木の机の向こうで、参謀次長は顔の筋肉ひとつ動かさずに報告書に目を通していた。沈黙を破るのは、西洋時計の冷徹な秒針の音だけだ。
直立不動で敬礼の姿勢を保ちながら、僕は彼の方越しにある架空の一点を見つめ続けている。
ぱさっ。
川上 中将 は、革張りの下敷きの上に書類を放り投げる。白手袋に包まれた両手を、顎の下で組んだ。
齢44。刃のように鋭く彫りの深い顔立ち。わずか数年で彼を参謀本部の真の頭脳へと押し上げた、氷のように冷徹な戦略的知性を、帝国陸軍の誰よりも体現している男だ。
—「勝中佐」
一時間前に提出されたばかりの僕の報告書から目を離さぬまま、彼が口を開く。
「掛けたまえ」
言われた通りに腰を下ろす。長年の軍務で培われた大理石の仮面を顔に貼り付け、軍服と同じくらい非の打ち所のない敬語で応じた。
—「興味深い報告書だな」
計算された遅さで書類を置き、彼がつぶやく。
「非常に興味深い。簡潔だ。一ヶ月以上も貴様の課を動員し、死者を出し、あまつさえ総理大臣の身の安全までが脅かされた事件にしては、あまりにも簡潔すぎる」
—「確たる証拠をもって立証された事実のみを報告するよう努めました、閣下」
—「確たる証拠をもって立証された事実、か」
体温を感じさせない笑みが、その唇をかすめる。
「教えてくれ、中佐。この『第二の男』近藤一郎が、何者かに操られた単なる実行犯ではなく、共犯者であると、一体どのようにして特定したのだ?」
—「証言の擦り合わせによります、閣下」
—「では、加瀬周平が属していた組織についてはどうだ? 貴様は『敵対する派閥』と書いているが、何の派閥かは一切明記していない。同一の家門内で、なぜ身内を深夜の軍港で、狙撃手顔負けの精度で処刑せねばならなかったのかもな」
完璧に自制していたはずの肩に、じわりと力が入るのを感じる。
「実によくできた作り話だ、勝中佐。見事に辻褄が合っている。だが、決定的に肉が足りん。この『敵対する派閥』には名前がない。そもそも、20年近く前の反乱の残党が、これほどの暗殺を企てる力をどうやって蓄えたというのだ? 横浜での貴様自身の捜査記録では、常軌を逸した霊力の行使が確認されているというのに」
—「当該組織に関する捜査は、現在も継続中であります、閣下」
川上が立ち上がる。
相手を待たせることに長けた男特有の緩慢な足取りで机を回り込み、僕の真正面、机の縁に腰を下ろした。参謀本部中にその名を轟かせる、外科医のような冷酷な眼差しでこちらを射抜く。
—「勝。貴様の何が一番興味深いか、わかるか?」
返答を求めているわけではないと悟り、僕は沈黙を守った。
「この建物の中で、私と知的に渡り合える数少ない将校の一人だということだ。にもかかわらず、この報告書は……」
彼が書類を指先で叩く。
「行間から、誰かを庇い立てしている匂いが立ち昇ってくる」
—「閣下のおっしゃる意味が分かりかねます」
—「ほう?」
彼がわずかに首を傾げる。獲物を追う価値があるかどうかを見定める捕食者の、ひどく居心地の悪い仕草だった。
「私の耳にはこう入ってきているぞ、勝中佐。ここ数週間で、貴様の様子が変わった、と。陸軍参謀本部でもっとも冷酷なまでに合理的だった将校が、家庭の事情にうつつを抜かしているとな。世界の果てから連れてきたという、あの婚約者だ。一部の社交界ではもっぱらの噂だぞ。彼女が貴様の生活を意のままに操り、あまつさえ、貴様が使用人のように彼女の買い物の荷物を持たされていた、ともな。要するに、女の尻に敷かれていると」
冷たい怒りが胃の底から這い上がってくるのを感じたが、今日一番の精神力を振り絞ってそれを押さえ込んだ。
—「私の私生活が、職務の質に影響を与えることは一切ございません、閣下」
—「本当にそうであればいいがな」
彼は再び席へと戻る。怒声すら伴わないその事務的な声色こそが、彼の脅しを一層底冷えのするものにしていた。
「もし仮にだ、勝殿。貴様がこの報告書から、故意に重要な情報を隠蔽していたと発覚した場合……それが婚約者を庇うためであれ、情報屋であれ、他の誰であれ……貴様の軍歴に及ぼす影響は、そうだな、甚大なものになるだろう」
深く椅子に沈み込む。それは、彼が僕の口を割らせるための迂回策を練り始めた合図だった。
—「聞くところによれば、貴様は私生活の調整に随分と時間を割いているそうだな。例の婚約者……かなり風変わりな女性らしいではないか」
—「閣下……」
—「しかもアフリカ人だという。帝都のサロンでも好奇の的になっているそうだ。将校の妻となる女が、弁当を届けるために参謀本部の中枢にまで上がり込んでくるなど、前代未聞だからな」
上官からの容赦ない皮肉に、僕の顔から血の気が引く。
—「その行動の重大さは承知しておりますし、いかなる処分も受ける覚悟はできております、閣下。ですが、彼女の協力が我々の任務において無視できない成果を挙げたのも、また事実であります」
—「そうだろうな。だが、彼女は所詮、女であり異邦人だ。防諜部が、その異邦人の反体制的な思想や、不測の情報漏洩について疑念を抱き始めれば、厄介なことになる。スパイの噂ひとつで、将校の軍歴がどれほど容易く破滅するか、貴様も知っているはずだ。そしてそれは、未来の妻も道連れにすることになる」
長い沈黙。
手持ちの札のうち、最後に残された一枚を切るべき時が来た。
—「その必要はございません、閣下。なぜなら本件には、私が開示を許されていない要素が含まれているからです。それは皇室の安寧に直結する事案であり、皇室からの直接のご要望でもあります。私の責任において伏せているのだということをご理解いただき、これ以上、私の与り知らぬ秘密を暴くよう強いられないことを、伏してお願い申し上げます」
自分の脈打つ心音でこめかみが痛むほど、長い沈黙が落ちた。
川上の鋭利な眼差しが、僕の表情から綻びを探り出そうと舐め回す。やがて、彼はゆっくりと背筋を伸ばした。それは敗北ではなく、新たな計算に基づく後退だった。
—「皇室、か」
僕にというより、自身に言い聞かせるようにつぶやく。
「なるほど、興味深い。……して、皇室のどなたからの命だ?」
—「……玉門宮殿下であります、閣下」
釘抜きで石を引っこ抜くように、ひねり出した一言だった。
川上の顔色が、あからさまに青ざめる。
沈黙。
平素から感情を表に出さない男の顔に、明確な動揺が走っていた。
彼がそれ以上追及してこないのは、己の軍歴を危険に晒す地雷原に踏み込むよりも、僕の切ったその手札を信じる方を選んだという証拠だ。
—「よかろう」
再び冷徹さを取り戻し、彼は告げる。
「今のところは、この件は非公式のままに留め置く。だが忘れるな。私は隠し事をされるのが嫌いだ。ましてや、どれほど有能であろうと、女の影響を受けて判断力を鈍らせる将校はもっと嫌いだぞ」
—「承知いたしました、閣下」
—「最後にもうひとつ」
彼は身を乗り出す。その目から一瞬だけいつもの冷徹さが消え、もっと個人的な苛立ちが露わになった。
「衆議院が解散されたぞ、勝。あの愚かな文官どもは、西洋 に 対抗 して生き残るためには強力な 軍隊 が必要だという 現実 を 理解 しようとせず、民主主義ごっこに興じて軍事予算の承認を拒みおった。おまけに 内閣 の 阿呆 どもは、真の 脅威が露国であるにもかかわらず、清国を討つべきかどうかでハゲタカのようにいがみ合っている! すべて、飾って自惚れるための『戦艦』とやらをねだる 海軍の 馬鹿 どもの入れ 知恵 だ。我々 陸軍 が 濃尾地震 の被災者救済に奔走し、連中が毎議会で妨害しようとする国家機関の威信を回復してやっているというのにな」
彼は再び姿勢を正し、仮面を被り直すように冷徹な顔に戻った。
—「天皇陛下が、内閣と議会に政務を委任されたのであります、閣下」
—「ああ、そうだな……」
部屋に短い静寂が降りる。
—「三つ言っておくぞ、勝。第一に、私は貴様の私事にかまっている暇も忍耐も持ち合わせていない。この報告書は、松方総理の元へ直接持っていけ。相手の地位にふさわしい敬意を払って安心させてやれ。彼が自分の承認している内容を半分も理解できない程度の知能しか持ち合わせていないことは、お互い承知の上だがな」
—「はっ」
—「そして勝」
退室しようと立ち上がった僕を、彼が最後に呼び止めた。
「第二に、貴様が抱え込んだ時限爆弾の処理は、貴様自身でやれ。今後一切、私の耳には入れさせん。もし爆発したとすれば、それはすべて貴様の責任であり、私には何ら関係のないことだ」
—「仰せの通りに。……して、三つ目は?」
—「ああ、それか……いつもの業務だ。弾薬の在庫計算を日に三度やり直し、兵站と補給線を確立し、地図を穴のあくほど見直せ。そして何より、予算と報告書を完璧に仕上げろ! 清国との戦争に備える予算をもぎ取るためには、非の打ち所のない成果を提示せねばならんのだ。あの哀れな胡桃の殻のようなフリゲート艦のために、海軍にすべてを掠め取られてたまるか!」
敬礼を済ませて退室する。
川上操六という男が、貸した信用を忘れる人間でもなければ、一度裏切った者を二度許す人間でもないことをよく知っていた。安堵を噛み締めることすら躊躇われるほど、僕の心臓は激しく波打っていた。
午後の残りの時間は、取るに足らない面会の連続だった。
松方総理の秘書官への報告書提出(彼はその重要性を微塵も理解していない様子だった)。そして総理本人との短い謁見。彼はろくな質問もせず、一定の間隔でただ頷くのみであり、川上が下した軽蔑的な評価が何ひとつ間違っていなかったことを証明してくれた。
疲労困憊して市ヶ谷に戻ったが、それでも、誓いをひとつも破ることなく、この事件における最大の難所を越えられたという、脆くも確かな安堵感があった。
第三課の大部屋へ戻ると、僕の机の上には弁当の入った籠が置かれていた。
そして香織子はといえば、片手に箒を笏のように掲げ、大地や十部くんをはじめとする半ダースほどの将校たちに向かって、猛烈な勢いで演説をぶっている最中だった。
—「いいえ、いいえ、いいえ!」
戦場に立つ将軍さながらの威厳である。
「入り口から奥に向かって掃いてはなりません! 今年の厄を外へ追い出すのですから、奥から戸口へ向かって掃くのです! それから、何よりも先に隅の蜘蛛の巣を払うこと! そうでなければ残りを綺麗にする意味がありませんわ!」
—「大掃除のために徴用されたようだな」
思わず、疲れた笑みがこぼれる。
—「香織子さん曰く、これを疎かにすると……」
大地は、とうの昔に抵抗を諦めた男の諦観した顔つきで箒を握りしめている。
「この事件で溜まった厄が、二十世紀までついて回るんだとさ!」
—「文句ばかり言っていると、本当にそうなりますわよ、吉田さま」
香織子が、微塵の冗談も交えずに言い放つ。
「私の故郷では、汚れた家は悪霊を温めると申します。この二ヶ月間で様々なことが起きたこの部署には、特別に念入りな清めが必要ですわ」
こちらを振り返った彼女の表情が、途端に柔らかくほころんだ。
—「いかがでしたか?」
—「難航したよ。だが、終わった」
—「では、Ḥamdullah(アッラーに賛美を)! さあ、召し上がってくださいな」
彼女は籠を指差す。
—「お腹に何か入れてから、残りの話を聞かせていただきますね」
言われるがままに弁当を広げる。
箒の音と、同僚たちの押し殺した笑い声に包まれながら、今日一日の疲労にもかかわらず、確かな温もりが胸に広がるのを感じていた。
ほんの数時間前まで、国家の最高機密という重圧を僕の双肩に一人で背負い込んでいた、まさにその場所で。
「川上殿にひどく絞られはしなかったろうな?」大地が尋ねた。
「それほどでもない」僕が答えると、全員が安堵の息を漏らした。「ただ、何かしくじれば僕らの首が飛ぶ、と言われただけだ」
大地は瞬時に身を硬くした。
「意地悪な閣下め!」
「川上? あの『オッペケペー節』のお方ですか?」香織子が無邪気に尋ねた。
全員が奇妙な面持ちで香織子を見つめ、次の瞬間、涙を流して爆笑した。特に大地がひどかったが、十部も竜橋も笑いを噛み殺すことができなかった。
僕にはその意図が理解できていなかった。香織子が言っているのが、あの有名な風刺歌『オッペケペー節』で庶民の英雄となり、内閣と陸軍の天敵となった劇団の役者、川上音二郎のことだとは思いもしなかったのだ。
「あぁ、香織子さん、僕らがどれほどそれを望んだかお分かりになりますまい!」大地が皮肉っぽく言った。「ですが運命は僕らに厳しく、同姓同名の男を上司として押し付けたのです。腹いせに架空の補給線を描かせて僕らの人生を台無しにしてくれる、あの恐ろしい参謀次長の方をね!」
「まあ……ならば運がなかったのですね。どうぞご自分の人生をお楽しみくださいな」香織子は締めくくった。「それと、箒にお戻りなさい」
「ぶう……奥様も意地悪だ!」
嫌々ながらも懸命に掃除に精を出す大地の顔を見て、僕はニヤリと笑みを漏らさずにはいられなかった。
「手伝いに来てくださって、本当にありがとうございました、香織子さん」十部が、どこか親愛の情を込めた男性的な口調で彼女に礼を言った。
「光栄ですわ。覚えた技術はすべて役に立ちます。男性にとっても……女性にとってもね」
香織子は、中性的な十部の立ち姿と顔立ちをじっと見つめた。十部は赤面し、口ごもり始める。
「な、何を……」
「札幌からでもお見通しですわよ、十部くん。私の弟に似たお体つきをしていらっしゃいますけれど、私の国では『牛を知るのは同類のみ』と申しますの。その滑らかな顎、眉間から眉骨の形、それに肘の曲がり具合といい……」
十部は何か言い返そうとしたが、ぐっと言葉を飲み込んだ。十部の『秘密』を知る者たちは大笑いし、事情を知らない者たちは困惑した顔で見合わせている。
「完全にバレてやんの」大地が僕に耳打ちした。
心の中で、僕香織子の鋭い洞察力がまたしても発揮されたことを秘かに誇らしく思っていた。
「さて、そういうことでしたら、あとは神の御手に委ねますわ」彼女は言った。
「もう帰るのか?」僕は尋ねた。「じきに日が暮れる。暗がりでの事故や辻斬りまがいの悪党も出る。夜の東京は危険だぞ……」
香織子は怖がる様子もなく、どこか小減味な笑みを浮かべた。
「チッ……Ya weddimahbul(この人は正気かしら)」
周囲の者たちはその言葉の意味も分からず、ただ苦笑いしている。
「お自分さまは、コンスタンティーヌからチュニジア、シナイ半島のあらゆる道を護衛もなしに徒歩で巡ってきたのですわよ。昼夜を問わずにね。それなのに『東京が危険』だなんて」
「本当のことだ。僕が付き添うまで待ちなさい」
「東京なんてへなちょこみたいなものですわ! 神に誓って、危険だなんて冗談じゃありません。野宿したってお自分さまには何も起こりませんわよ。それに、片付けなければならない用事もありますし」
「用事とは何だ?」僕は問う。
「貴方様には関係ありませんわ」
「お前の用事は僕の用事だ!」
「あら、では わたくしの衣服のことも?」
今度こそ、大地は爆笑して床に転がった。僕の顔は赤くなり、手で顔を覆った。
「いったいどこでそんな言葉を覚えてくるんだ……」
「どこでもありませんわ。では、ごきげんよう」
彼女は一礼して去っていった。
「お自分さま、だって!?」大地が繰り返し呟く。
「いちいち理由を聞くな」僕は彼をたしなめた。




