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愛憎

 場の空気が凍る。静止する。


 おそらくは今最も感情が動いているべき人物が、

 あまりにもサラリと、無感情に、無感動に、冷徹に、

 吐き捨ててみせたからだろう。


 何度も言うように、トレッリはどこかでこの展開を察していた。

 だが、察していてもいざ目の当たりにすると驚きは隠せないし、


 予想できることと理解・共感できることは、イコールではない。


 彼より深く早くこの状況を導き出していたであろうシュトラッサーすら。

 目を丸くすると同時に


『恐れていた事態が発生してしまった』


 と瞳が揺れている。


「な、なぜ……?」

「なぜだと?」


 トレッリの問いとも()()()()とも付かない声を、ハインリヒが耳敏く拾う。

 向けられるのは鋭い視線と、



「なんだ、分からねぇのか?


 いいか。()()()は一度敵の手に渡っているんだ。

 そこでどんなふうに(ほだ)されたか分かったもんじゃねぇだろうが。


 あの女はオレが兄貴を殺したことを、根に持っているからな。

 それ自体はいい。当然だろうさ。


 だが、それが理由でオレを裏切っている可能性は大いにある。


 少なくともオレは、オレにまつろわねぇヤツを信用しない。

 これも当然だ。


 そんな相手がノコノコ帰ってきたのを受け入れる?


 バカも休み休み言え。

 いや、オレの前でバカが許されると思うなよ。

 特に


『スパイになりかねんヤツを平気で招き入れる』


 ようなバカはな。


 ただバカで無能なのも許しがたいが、それが


『利敵』

『味方の破滅』


 に繋がるなら生かしてもおけん。


 それくらい、ちったぁ考えたら分かるだろうが。ん?

 それとも奏上官ってのは


『他人が用意した書簡を持ってきて読み上げるだけ』


 の、自分で考えることも生み出すこともない、誰にでもできるカスみてぇな仕事だ。

 その結果、脳が虫以下にまで退化したってことか?

 草とカマキリの判別すらできないのか?」



「陛下。皇太后陛下を『あの女』などとお呼びになるのは」

「黙れシュト爺」


 長尺で早口な、罵詈雑言の雨霰(あめあられ)

 特に今回のように、砕けた、というか崩れ去った荒い言葉遣い。

 過剰なまでの、相手の否定。


『王ぶろうと矯正した口調が崩れ、品性なき素地が剥き出しになる』


 ようなときは、



(相当()()()()()らしい)



 トレッリもハインリヒ学の初歩が分かってきた。


 攻撃されたくない

 あるいはそんな意思のない、些細な言動にすら刺されてしまいそうなときは。


 積極的に自分が攻撃する側にまわるのだ。

 攻撃される側にならないために。


(そういえば、このまえの火計も、そもそもフリードリヒ殿下暗殺もそうだ)


 大体の惨事は、彼から攻撃して始まっている。


 であればもう、トレッリに何か言うことはない。

 理屈っぽいものを並べた激情の矛先が、これ以上自分に向いてはたまらない。

 ゼッケンドルフの二の舞になりたい人間などいないだろう。


 それに彼はあくまで奏上官。

 意見を言う立ち場ではない。

 ハインリヒの罵倒のように


『能力がない』


 以前に


『義務がない』。


 なのでここは、シュトラッサーの方が対応しなければならない。

 普段はハインリヒの


『ご意見無用』


 を理解して、あまり矢面に立たないよう立ち回る彼だが。

 これがあまりにも何も言わなさすぎると、それはそれで


『こうなることを予見できなかった無能』


 とキレられかねないのだ。


 ハインリヒの背後にいる彼は、刺激しないよう弧を描いて正面へ回り込む。


「しかし陛下。実母を見捨てる、ということになりますぞ」

「はぁ?」


 だがそれは即死を致命傷に(やわ)らげるようなもの。

 効果はあるが意味はない。


「むしろ見捨てられたのはオレの方だぞ。

 確かに母親に


『捕虜になるくらいなら自決しろ』


 とは言わんがな。


 だがそういうものだろう。

 そういうことだろう。

 そうしなかったということは。


 自身が敵の手に落ちるのが、どれだけオレにとって不利となるか。

 考えれば分かるはずだ。


 求めないことと必要がないことはイコールじゃねぇ」


「御意」


「だから今更だ。


 ……20年遅い」


 20年。

 シュトラッサーも言いたいことは分かる。

 彼の幼少期から傅役を務めてきたのだから。


 兄は長男というだけで王に内定し、尊重され、全てを手に入れてきた。

 対する自分は、次男に生まれただけで天と地ほどの扱いの差を受ける。


 王家として仕方ないことではあるが。

 それを10つにもならない子どもが、必ずしも聞き分けるとは限らず、


 ()()としている母の態度は、見捨てられたように映るだろう。

 実際王家の()()()()に流されて、彼の心を見殺したのだから。


 だが、やはり10つにもならない子どもなのだ。

 それだけで母を嫌いにはなりきれない。


 深い愛情を(いだ)き、相手にも求め、半端に満たされたり満たされなかったり。


 まるでカサブタができては剥がしできては剥がし。

 異様な硬質化をした皮膚のような傷が。


 化膿した、答えも解決法もない捻くれた愛憎がそこにある。


 だからむしろ前向きに切り捨てて、

 なお心に暗いモヤが掛かる。


 すぐに処刑することでお馴染みの男が、

 中途半端に敵へ突き返す。


 仕返しに見捨てなければ救われない心と、

 見捨てたことで傷を負う心がある。



 シュトラッサーは合理主義、ことなかれ主義の男である。

 そんな彼がなぜ、ハインリヒの無理筋な簒奪から暴政にまで付き合えるのか。


 思えば、幼いまま取り残された心の傷を、唯一知り、哀れむからかもしれない。

 ほんの少しだけ、彼の


『王室と国家に対する復讐』


 を、する権利があると思う気持ちも、あるのかもしれない。


 だから普段も、口出し少なく好きなようにさせているのかもしれない。


 よって今回も、彼はそれ以上何も言わなかった。

 もちろん


『「母を見捨てるような王では、民の心は離れますぞ」


 と言おうとしたが、そもそも着いてきている民の心などあるまい。

 最初から意味のない話であった。話すだけ無駄な労力だ』


 と思っている面もある。


 シュトラッサーは合理的な男なのである。

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