女性を待たせるとは
少しだけ時間を遡る。
運動部の方なら分かるかもしれない。
文化系でも試合やコンクール、研究発表会があるタイプの人なら同じだろう。
いや、人類のほとんどは入試や仕事のプレゼンなどで経験するだろう。
病院の予防接種……
は、刺される瞬間がやはり痛いか。
『出掛ける予定を組むと、その日が近付くにつれて憂鬱になる(当日は普通に楽しむ)』
という人の談を聞いたこともある。
何が言いたいかというと、要は
『案外始まってしまえば集中しているうちに終わる』
ということ。
よくフューガ・フォン・ミュラーが
『部下の気を保たせるのに苦労するぜ』
みたいなことを言っている。
ああいうことである。
つまり逆に言えば、大概のイベントは
『待っている時間が一番しんどい』
ということであり、
「アンヌ=マリーさま。いったい、いつまでこうしていれば」
「静かに」
それはヴァリア=フルール王国軍にとっても同じことであった。
自陣に守備隊を残し、総勢は2万強。
それだけの軍勢が、春の山、木々のあいだに潜んでいる。
「相手がどこまで歩哨を出してくるとも分かりません。
吐息の一音にも心しなさい」
「しかし」
「お菓子も案山子もありません。
気取られれば一巻の終わり。
身は焼かれ、舞い上がった土に埋もれ。
火葬と土葬の合わせ技です」
とは言うが。
そのどこまでが安全で、どこからが火薬の海とも分からぬ山に潜伏しているのだ。
吐息がやや大きいのも、低いとはいえ登山をした、だけが理由ではないだろう。
尾根伝いの先、こちらよりやや低い山頂にある敵陣はまだ見えない。
さすがにこんなところまで地雷原になってはいるまいが。
だとしても『気が気でいろ』なんて言う方が、人の心がない。
かく言うアンヌ=マリー自身も。
持ち運び用の簡易な椅子に腰掛け、葡萄酒を飲む姿。
はたから見れば余裕の塊、鎧をバスローブに変えれば完璧にすら見える。
が、結局。
戦場で、常にはないことをしているのは
『平常ではないから』
に他ならない。
「静かになさることです。
相手に聞かれてはならない。
また、こちらは僅かの変化も聞き逃してはならない」
言行不一致、多弁になっているのもそういうことだろう。
しかし。
焦っていても座っていても、平等に時は流れ
待てば海路の日和もあるものである。
「! アンヌ=マリーさま!」
「しっ」
訪れた変化は
風に乗って聞こえる、微かな銃声。
「これは」
「まだ散発的です。小競り合いが始まったところでしょう」
人間とは本質的に待つのが嫌いな生き物なのだろう。
釣り好きすら、魚が掛からない時間はイライラしている人がいたりする。
同じく逸る騎士たちを抑えるアンヌ=マリー。
やはり常ではなくとも、冷静さを欠いてはいないらしい。
将器があると言えよう。
少なくともクレマン・フォン・ツィマーよりは。
ジリジリと、自分たちで火薬に引火しそうなほど焦がれて待っていると。
だんだん銃声が増えていく。
軍隊同士が上げる、鬨の声が聞こえてくる。
悲鳴も混じる。
銃声とはちょっと感じの違う爆発音がする。
と、刻一刻状況が動いていく。
目には見えないが耳で、それ以上に騎士たちは肌で感じる。
鎧に包まれた肌でも、戦場の空気だけは素通りして突き刺さる。
散々アンヌ=マリーに話し掛けていた騎士団長の男も黙る。
場の全員が、唾を飲み込むことすら躊躇っている。
そんな空気の中、
スッとアンヌ=マリーが立ち上がる。
「音が、近くなった」
そう、『近くなった』。
『大きくなった』というのと、具体的な差を説明できる者はいないかもしれない。
だが、やはりこれも騎士たちの肌感覚だろうか。
音が大きくなったのではなく、発生源が近くになっている。
最初の銃声は白十字軍がブルーメ・ガトーに上陸したゆえのものだろう。
ということは、より近い位置で銃声を発するのは。
アンヌ=マリーがゆっくり歩き出す。
と思えば駆け足、どんどん加速していく。
指揮はいらない。
他の騎士たちもどんどん続いていく。
馬には乗らない。
靴も鎧の合わせではなく、アイヌかイヌイットが履いていそうな革の長靴。
音を消して近付くため、
蹄鉄などが火花を産んで、撒かれた火薬に引火させないためである。
だが消音に関しては正直、あまり意味をなしていないだろう。
早く、速く、より速く。
このチャンスを逃さないために、敵陣目指して一気に駆け抜ける騎士団。
靴以外の鎧がガシャガシャ音を立て、珍走団よりやかましい。
陽動成れり!
となれば、1分1秒でも早くノエブリンガーを制圧すること。
白十字軍への挟撃をやめさせること。
陽動の任務を終了させること。
これが味方の命を救うことに繋がる。
あるいは、同胞でもない連中のために走るのは気に入らない者もいるかもしれない。
しかし出撃まえ、アンヌ=マリーはこう語った。
『たとえヴァリア=フルール、白十字と、括る言葉が違うにしても。
彼らが我々とともに勝利すべく戦っていることに変わりはない。
ゆえに、彼らを救うこと即ち明日の自らの命を救うことです』
『何より、
最近フューガ・フォン・ミュラーばかりカッコ付けすぎだとは思いませんか?』
これを聞いて黙っていられる騎士はいない。
なんなら彼らは今日このときの潜伏だけでなく、
ハインリヒ征伐始まって以来、ずっと焦れていたのだ。
走って走って走って、気が付けば場所は急勾配な坂の上。
初戦にて白十字軍が敗走した場所である。
つまり眼下には神聖鉄血帝国軍の陣が見えるのだが、
明らかに人員がブルーメ・ガトーの方面に寄り、こちらに無警戒な背中を向け、
大砲まで持って行っているが、味方の陣地ゆえに撃てないで放置している。
もはやアンヌ=マリーたちに見えているのは『勝利』だった。
いかに高潔で、精神の統制が取れていて、慈愛深き聖女であろうと。
この状況はさすがに、やや恍惚とした笑みになるらしい。
危険とは分かっていても、彼女の体からゆらりと火が漏れる。
舌舐めずりするような、ねっとりとした動き。
今までとは別の意味で常にない、艶をたたえた唇が動く。
「さぁ皆さん、やってしまいましょうか。
『ヤグルマギクの旗』のもとに」




