第6話 価値のない荷物
馬車が坂を下りきると、道は平地へ出た。
石畳はとうに途切れている。両側には麦らしい畑が続き、その先は黒い林だった。振り返るたびに、王都の丘が低くなっていく。三度目に振り返った時には、屋根も城壁も夕闇へ沈んで、丘の輪郭と見分けがつかなかったくらいだ。
やがて、日が沈んだ。
空の色が抜けて、星が出てくる。並びに見覚えはなかった。北極星がどれなのか、映司には分からない。分かったところで、帰り道の役に立つわけでもないのだが。そもそも、異世界の天体が地球から見るものと同じ保証さえない。
しばらく進むと、荷を積んだ馬車が二台、向かいからやって来た。どちらも王都のほうへ上っていく。御者同士が片手を挙げて、やり取りはそれだけだった。すれ違いざま、向こうの御者台の男が荷台のほうを見た。制服姿の高校生──彼らからすれば、異国の変わった服だろう──が二人、板の欠けた荷台に座っている。男は口を開きかけて、映司が睨むと、口を噤んでそのまま前へ向き直った。
人はみな、王都のほうへ向かっていく。逆へ行くのは、この一台だけだった。
道の脇に、一度だけ集落の灯が見えた。屋根が七つか八つ、身を寄せるように固まっている。窓の明かりが左から右へ動いた。誰かが晩飯の支度でもしているのだろうか。
御者は手綱を動かさなかった。灯は後ろへ流れて、それきりになる。
(……止まらないのか)
馬の脚は速くない。速くないぶん、止める理由もあるだろうに。映司は荷台の縁から身を乗り出し、御者台の背へ声を投げた。
「あんた、夜通し走る気なのか?」
「泊まりの金は出てねえんだ。時間かけるだけ損なんだよ」
「なるほど……そりゃ災難だ」
映司が皮肉を言うと、「あんたら程じゃねえさ」と返されてしまった。
どうやら映司たちを捨てに行く仕事に、宿代は付いていないようだ。
王国は、この男へ一泊ぶんの値打ちも認めなかったらしい。運ぶ荷が荷なら、運び手の扱いもそれ相応、というわけだ。
(つくづく、徹底してるな)
御者はそれきり黙った。外套の背は、城を出た時から角度がひとつも変わっていない。
馬のたてがみは、伸びるにまかせて肩まで垂れていた。尾も同じだ。蹄の縁が欠けているのが、荷台からでも見て取れた。手入れをする人間が、しばらくついていないのだろう。
荷台が右へ傾いた。車輪が一回転するあいだに、必ず一度そうなる。優菜は縁を掴み、その周期に合わせて体を戻していた。城の門を出てから、ずっと同じことを続けている。
(この車輪、直せるんじゃないか?)
映司は荷台から手を伸ばし、指の先を車輪の縁へ触れさせた。
しかし、何も起きない。
輻の付け根に、木目に沿った割れが走っていた。輪の一箇所が内へ寄っていて、そこを通るたびに荷台が跳ねている。輻を二本抜き、湿らせた楔を噛ませてから締め直す──直し方は、見れば分かった。分かるだけで、頭のほうへは一文字も返ってこない。
(何でだ?)
ずっと触れているが、特に変化はない。車輪はまだ回ったまま。
そして、荷を運んでいる状態でもある。
(なるほど。壊れててもダメなケースがあるのか)
城の廊下で、折れていない燭台へ触れた時と同じだった。あの時は壊れていないからだと片付けたが、この車輪は歪んでいる。歪んだまま、それでも二人ぶんの荷を王都から運んできているのだ。
鑑定官の読み上げが、脳裏に蘇った。
『壊れた物、捨てられた物にのみ作用します』
壊れているだけでは足りないらしい。大切なのは、捨てられているかどうか。条件として重いのは、たぶんそちらのほうだ。
(ったく……面倒な力だな。これじゃハズレ呼ばわりされても文句言えないだろ)
映司は手を引いて、背を丸めた。
夜風が、裂けた背中の布から入ってくる。傷のほうは優菜が塞いだが、制服の裂け目はそのままだ。塞がった皮膚の上を、外の空気だけが行き来している。
優菜が、掴んでいた縁から手を離した。手のひらを膝の上で二度、握って開く。板の縁の形が、赤い線になって残っていた。
袖口のボタンが、片方だけ外れている。城を出る時には、両方とも留め直してあったはずだ。リボンの結び目も、喉の下から少しずれていた。
(『すぐ音を上げる』、ね)
海斗の見立てでは、優菜はとっくに音を上げている頃合いだろう。実際の優菜は、揺れる縁を掴んで、その周期に合わせて体を戻しながら、黙って座っている。
あいつは優菜の何を見ていたんだか。
映司は麻袋を引き寄せて、優菜との間へ置いた。板の欠けた場所を塞ぐくらいの嵩はある。
麻袋は、城を出てから一度も開かれていなかった。開ける時のことは、着いてから考えればいい。廃村がどういう状況かわからないのだから、今夜のうちに手をつけるのは得策ではない。
うつらうつらとしながら、優菜が訊いてきた。
「ごめん……ちょっとだけ、寝てもいい?」
「ああ。ゆっくり寝ていいぞ」
「うん。起きたら着いてるといいなぁ」
言って、優菜は自分の鞄を胸の前へ引き寄せ、紐へ指をかけた。それから、体を横へ倒す。倒しきる前に、肩が映司の腕へ当たって止まった。そのまま動かなくなる。
映司は腕の位置を変えなかった。変えれば、頭が落ちる。
馬の蹄が、土を規則正しく打っていた。数えはじめて、百を越えたところでやめる。
夜が深くなるにつれて、空気が乾いて冷たくなっていった。畑が途切れ、両側が草地に変わる。星の位置が、少しずつ右へ寄っていった。それだけが、時間の進んでいる証拠だ。
することがない。あるとすれば、考えることくらいだった。
二十年前。東の国境が破られた年と、これから行く村が捨てられた年が同じだ。宰相はどちらも同じ口で述べておきながら、繋げて説明はしなかった。繋がっていないのか、繋げたくないのか。今の映司には確かめようがない。
もうひとつ、噛み合わない数字があった。広間の隅で触れた燭台だ。折れたのは二十年前で、歪んだのは三百年前だと〈遺失査定〉は言った。折れる前から歪んでいた物が、二百八十年ぶん放っておかれている。
二十年前と、三百年前。この国は、数字の話になると急に口が重くなるらしい。
優菜が宰相と何を話したのかも、伏せられたままだ。
『んー。内緒』
あの誤魔化し方は、答えをはぐらかす時のものだった。昔からそうだ。答えたくない時、優菜は嘘をつかずに黙る。黙られたほうは、待つしかなくなってしまうのである。
映司はポケットへ手を入れ、金属片を取り出した。
バスのバンパーの割れ口から落ちたものだ。手のひらへ載る大きさで、割れ口の角がそのまま立っている。優菜が寝返りを打った拍子に当たれば、制服が裂けるかもしれない。
荷台の隅に、拳ほどの石が転がっていた。坂で使う車輪止めらしい。映司はそれを拾い上げ、金属片の角へ当てた。
金属片の角を石でこすっていると、〈遺失査定〉が勝手に発動して、頭へ文章が返ってくる。
『鋼。塗装あり。破損は本日。継ぎ足す素材は、同じ鋼が親指の先ほど』
そこまでは、直し方の話だった。最後の一行だけが違った。
『元は、走るための物。今は、役目を持たない』
映司は石で擦るのをやめる。
走るための物、と〈遺失査定〉は言った。手のひらに載るこの一枚が、それ自体で走るわけがない。〈遺失査定〉が指しているのは、これが千切れてきたほうの話だ。
中庭で縄を張られ、木札を下げられた鉄の塊。技術者が継ぎ目に指を這わせて、開け方が分からずに手を引いたもの。
映司たちを運んでいたもの……そう、観光バスだ。
(もしかして……あれ、直せるのか?)
考えたところで、試しようがなかった。バスは城の中庭にあって、映司はその城から追い出されたばかりだ。縄と木札の内側へ近寄れる立場ではない。
それでも、映司は金属片を握り直した。角は、こすったぶんだけ丸くなっている。
荷台が、また右へ傾いた。
*
空が白みはじめた頃、馬車が街道を外れた。
車輪が土を噛んで、荷台の揺れ方が変わる。優菜が目を開けた。
「……着いた?」
「まだだ。道を外れただけだ」
優菜は体を起こし、鞄を膝へ載せ直した。髪の片側に、映司の袖の折り目がついている。それを直そうともせずに、道の先へ顔を向けた。
轍は、途中から消えていた。道の形だけが残っていて、両側の草が荷台の縁へ届くほど伸びている。誰も刈っていない。誰も踏んでいない。
草の色が、根元から灰色に抜けていた。穂の先だけが白く、朝の光を受けても青くならない。
音も減っていた。鳥の声がせず、虫の音もない。聞こえるのは車輪と蹄と、荷台の板が軋む音だけだった。
優菜が、鼻から浅く息を吸って止める。吐くまでに、間があった。それから鞄の紐を握り直して、そのまま黙っていた。
映司は敢えて何も訊かなかった。訊いたところで、どうせ答えは着けば分かる。
馬が首を振った。歩幅が短くなり、二度、足を止めかける。御者が舌を鳴らして手綱を弾くと、また歩き出した。それを三度繰り返したところで、折れたのは御者のほうだった。
手綱が引かれ、馬車が止まる。
御者は御者台を降り、馬の口を取って馬車を回した。轅が半円を描いて、来た方向へ向く。それから荷台の後ろへ回ってきて、麻袋を土の上へ下ろした。優菜の鞄を、その隣へ置く。放り投げるような置き方ではなく、あくまで丁寧に。
映司は先に荷台を降り、優菜へ手を貸した。優菜はその手を掴み、板の隙間へ爪先を掛けてから土を踏む。
二人が降りきったのを見届けてから、御者は初めてこちらへ顔を向けた。
「ここから先は、俺は行かねえ」
優菜が鞄の紐を握ったまま、御者を見上げた。
「どうして?」
「魔力汚染が行き過ぎてる。こんなところ、人の住むところじゃねえよ」
御者は道の先へ顎を向けた。草の途切れた向こうに、灰色の起伏がある。そこから先は、穂まで色を失っていた。
御者は馬の首筋を二度叩いてから、御者台へ戻り、手綱を取った。それから一度だけ、荷台越しにこちらを見る。
「……悪く思うな。俺だって、死にたくねえんだ」
映司は軽く手を挙げた。御者は前へ向き直り、それきり振り返らなかった。
馬車が動き出す。歪んだ車輪が、右へ、右へと荷台を傾けながら遠ざかっていった。音が小さくなり、草の高さに隠れ、やがて聞こえなくなる。
あとには、ほとんど何も残らなかった。風はあるし、草も揺れている。それなのに、擦れる音はひどく薄かった。
優菜が鞄の紐を肩へかけ直した。それから、両手でスカートの前を払う。土がついたわけでもないのに、二度、同じ場所を払っていた。
(こんなわけわかんないとこに連れてこられたら、そりゃ緊張もするよな)
優菜が半歩、映司の側へ寄った。肩が触れる手前で止まる。
映司は麻袋を拾い上げ、口の紐を手首へ通した。それから、御者が顎で示したほうへ体を向ける。
夜が明けきる前の光の中に、村があった。
屋根は、たしかにいくつか残っていた。




