第26話 小川でバーベキュー!と思いきや?
ふたりは沢沿いを下った。
場所探しだ。焼くにも食うにも、座りが悪くては始まらない。木漏れ日の落ち方、腰を下ろせる石の平らさ、水までの近さ。ひとつ見つけては二人で見比べ、もう少し先、とまた歩く。
最初の候補は日が当たりすぎていて、二つ目は座れる石がどれも斜めだった。三つ目は悪くなかったものの、優菜が「もうちょっとだけ」と言うので、さらに下る。ずいぶん贅沢な吟味だ。
三日前は、飲める水があるかどうかで必死だった。それが、今日は景色で場所を選んでいる。
やがて、沢が緩く曲がるところへ出た。浅瀬に日が当たり、岸の石は広く平らで、頭上では鳥が、姿も見せずに鳴き交わしている。対岸は藪で、その手前に苔をかぶった背の高い岩がひとつ、丸く盛り上がっていた。水音は細く、風はゆるい。
「ここ、いいんじゃない? 座れるし、小さいけど、川もあるし」
「日陰もあるしな」
決まりだった。
優菜が皿と箸を並べられる平らな石を選んで拭き、映司は枯れ枝を拾い集めて岸に組んだ。燃えやすいよう細い枝を下に、太いのを上に。組み上がった山の周りへ、風よけの石を置く。支度が整うと、優菜が火の前へしゃがんで両手をかざした。
「聖なる火よ、この薪に火を灯せ──〈聖火〉」
短い詠唱ひとつで、枯れ枝の芯に火が入る。ぱち、と最初の爆ぜる音がした。
鍋は村のかまどに置いてきたので、焼くのは石の上だ。映司は浅瀬から平たい石をもう一枚引き上げ、水気を拭って火の上へ渡した。それから〈遺失庫〉を開き、魔狼の肉と、今日摘んだ草を岸へ並べていく。
しかし──肉の塊を手に、包丁を構えたところで、優菜の手が止まった。
「あっ……まな板」
ぽつり、と優菜が声を漏らす。
「あー。忘れてたな」
映司は頬を引き攣らせた。
刃はあるが、載せる板がない。石の上で直に切れば刃が欠けるし、かといって手の上で切らせるわけにもいかないだろう。
昨日までは、要らなかった道具だ。切る物も、切る刃もなかったのだから。包丁ができて初めて、その下に敷く一枚が足りないと分かる。
「ちょっと待ってろ」
言って、沢の縁を数歩戻った。
さっき枝を探した時、白く乾いた流木が転がっていたのを覚えている。水に洗われ、皮も剥がれ、上を向いて乾いた流木。どこかの岸辺で枝の役目をとうに終え、ここまで流れ着いたのだ。
抱えて戻り、岸の平らな場所へ置くと、査定が頭へ流れ込んできた。進化先に、まな板。詠唱を口の中で転がすと、白い光が短く立ち、厚みの揃った板が一枚残る。切り口の年輪まで、拭いたように綺麗だった。
「ドヤァ。割といい出来だろ?」
「え、もう作ったの!?」
「ふっふっふっ。これは楽なほうだ」
胸を張ってみせると、優菜が目を丸くして板を受け取る。
包丁を作ったら、まな板が足りないと分かった。まな板を作ったら、次は何が足りないと分かるのだろう?
宿題は減るのではなく、形を変えて増えていくらしい。ただ、嫌な気はしなかった。全部、優菜との生活の向上に繋がっているからだ。
そこから先は、優菜の仕切りだった。
「映司くん、そっちのお肉、もうちょっと薄く切れる?」
「これくらいか?」
「わ、上手。厚さ揃ってる」
「厚さ揃えるのは、まあ、得意分野だ」
祖父の工房で、寸法どおりに削る作業なら山ほどやった。線を引いて、線のとおりに刃を通す。それだけの話だ。まな板の上で肉へ刃を引けば、同じ厚さの薄切りが並んでいく。我ながら、悪くない手つきだった。切るのは、上手いのだ。
分からないのは、その先である。どの草を、どれだけ、いつ入れるのか。皿の上の正解が、映司にはまるきり見えなかった。
「これ、どんくらい入れんの?」
「んー、ひとつまみ。……ううん、もうちょっと」
優菜の指先が、宙で摘まむ形を作ってみせる。その形から量を読み取れというのは、なかなかの無茶だった。
「その『もうちょっと』が分かんないんだけどな」
「えー? 分かるよ」
「分かんないんだって」
言い合っているうちに、優菜が笑って、映司の手から刻んだ草を取り上げた。慣れた手つきで、薄切りの肉へ揉み込んでいく。ひとつまみの謎は、結局、実演で片がついた。
「さっき採ったシャンプーのハーブ、匂い消しに使えるんじゃないかな?」
「そっちに使うのか」
洗うために探した草が、食うほうで働きはじめた。用途が、ひとつ増えた。
役割は、自然に分かれていった。映司が切って、洗って、渡す。優菜が量を決めて、火加減をみる。葉の厚い水気の多い草は洗って生のまま。辛みの立つ草は細かく刻んで薬味へ。香りの草は肉に揉み込んで、焼き石の上へ載せる。
じゅ、と脂の鳴る音がして、煙が立った。獣の臭みが、香草に押されて薄くなっていく。焼ける匂いは正直で、映司の腹が催促の音を立てた。火の爆ぜる音に紛れたはずだが、優菜の肩が小さく揺れたので、たぶん聞こえている。
ひっくり返す頃合いも、火から下ろす頃合いも、映司には見当がつかなかった。訊くたび、優菜が「まだ」「そろそろ」と短く返してくる。刃物と板は作れても、この「そろそろ」だけは、どうやっても作れそうにない。
三日前は、この手の仕事を全部一人で背負うつもりでいた。今は、道具を作って渡すほうに回っている。それが、悪くない。
肉が焼けた。
皿に盛ると、ちゃんと飯っぽくなっていた。
焼いた肉と、洗った生の草。刻んだ薬味。皿が二枚あるから、取り合いにもならない。平らな石を挟んで向かい合わせに座り、二人揃って手を合わせた。
「「いただきます」」
声が重なった。
箸を取って、まず草からいく。噛むと水気が弾け、青い匂いが鼻へ抜けた。あとから、少し苦い。
「……あ、美味しい」
優菜が感嘆の声を漏らした。
映司が同意する。
「うん。草が美味い。草を美味いって言う日が来るとは思わなかったけど」
「草じゃなくて、野菜だよ?」
すかさず、反論されてしまった。
「いや、草だろこれは」
「そうなんだけど、草だと思うと悲しくなるから、野菜ってことにしよ?」
そんなやり取りを交わしながら、即席サラダを胃に入れていく。
四日ぶりの、生の緑だ。美味いというより、足りていなかったものが身体へ入ってくるという感覚。腹よりも先に、身体のどこかが喜んでいた。二口目に薬味の草を載せてみると、辛みが立って、口の中がしゃんとする。
次に、肉だ。昨日の夕飯は、後半になるほど獣の匂いが舌に残って、しまいには二人して水で流し込んだ。今日は、噛んでも匂いが追いかけてこない。代わりに、香草の香りが立っていた。
「肉も、匂い消えてるな。香草すげえな」
「でしょ? ……でも」
「だな」
箸が、二本とも止まっていた。優菜も映司も、口の中で同じものを探している顔をしている。
美味い。それは間違いなかった。ただ、味の真ん中に、あるべきものの席がひとつ空いたままなのだ。
「……あとひと振り、なんだよな」
塩。たったひと振りの塩気が、どうやっても出せなかった。
あとは、無い物ねだりの大会だった。
塩ときたら、次は醤油だ。肉に醤油、を口にした途端、二人同時に呻いた。味噌汁、で優菜が胸を押さえ、マヨネーズ、で映司の箸が止まる。名前をひとつ出すたび、記憶の中の食卓が襲いかかってきた。
「ドレッシングとか、あったらもう完璧だと思わない?」
「完璧だな。ドレッシングって、あんな偉かったんだな」
スーパーの棚に、何十本も並んでいた。青いのも、白く濁ったのも、油の層が分かれたのも。ひとつ何百円で、棚の前で迷う客はいても、ありがたがる客はいなかった。誰も、特別な物だとは思っていなかった。あの列の一本が、今この岸にあったら。
「私よく買ってたの、青じそのやつ。あと胡麻の」
「俺は……なんだっけ。あの、緑のキャップの」
「緑……? それ、キャップ緑じゃないと思うけど」
「緑だろ。たぶん」
優菜が指を折って、心当たりを数えはじめた。自炊をしていた側は、棚の記憶の解像度が違う。映司のほうは、祖父任せの買い物と出来合いで生きてきた口なので、名前がひとつも出てこなかった。
「……あ、わかったかも。アレじゃない? イタリア人のおじさんが名前の由来の」
「なんでそんな豆知識まで知ってるんだよ。俺が知らないっての」
悔しいが、たぶん当たっている。言われてみれば、細長い瓶の形まで思い出せた。
冷蔵庫のドアポケットに、いつも一本挿さっていたやつだ。振ってから使え、と祖父に言われていたのに、毎度振り忘れて上澄みだけかけていた。
あの棚の前を、何百回と素通りしてきた。一本の値打ちを、今日ほど分かった日はない。あれを一本、今ここに置けたら。
食いたい、とは思った。でも不思議と……帰りたい、とは思わない。
それだけ確かめて、映司は残りの肉を口へ運んだ。
「いつか、作れないかな。ドレッシング」
優菜が言った。
帰ったら買おう、ではない。いつか、作れないかな、だ。
帰りたいと思わなかったのは、優菜も同じだったらしい。
「……作るか。いつか」
口に出してみると、存外、悪くない響きだった。
油と、酢に当たるものと、香草。順番に揃えれば、できない話でもない気がする。味噌と醤油は豆からで、そうなると畑が要って、畑には土の浄化が必要だ。一本の瓶の後ろに、宿題が数珠つなぎでぶら下がっていた。
塩、醤油、味噌、ドレッシング。宿題リストの下のほうに、当てのない行が並んでいく。今朝は塩ひとつが重かったのに、増えるのが、なぜだか楽しかった。
並べているあいだ、優菜はずっと指を折っていて、折る指が足りなくなって二周目に入っている。
皿が空になると、二人で沢へ下りて洗った。
水は冷たく、脂は指でこすれば落ちる。洗い上がった皿と鉢を優菜が重ねて持ち、映司は火に砂をかけて埋めた。細い煙が一本立って、消える。
「帰りに、もうちょっとお草採ってこ? 乾かしたら保つかもしれないし」
「そうだな。庫に入れとけば腐らないけど、まあ、多いに越したことは……」
そこで、音がひとつ抜けた。
鳥が鳴いていない。さっきまで、あれだけうるさかったのに。風が止んだわけでもないのに、頭上の葉まで妙に静かだった。
残っているのは、細い水音だけだ。
「……優菜」
「ん?」
「動くな」
言いながら、映司は優菜の前へ、ゆっくり身体を入れた。彼女の手から洗いたての皿が滑って、浅瀬で、こと、と鳴る。
対岸の岩が、動いた。
いや……岩だと思っていたそれは、岩ではなかった。何かの背中だったのだ。苔は、その背に生えていた。
丸かった塊がほどけて、太い前肢が藪を割り、持ち上がった首から上が、木の枝の高さまで来る。
「おいおい、冗談だろ」
それは、とても大きな熊だった。映司の知っている熊の、三倍はある。
昨日の魔狼六頭が、急に可愛く思えた。
岩だと思っていたものが、こちらを見ていた。
「映司くん……」
優菜が、不安そうに映司の袖を摘まんだ。
引くわけにはいかない。
「大丈夫だ。サポート、頼むぞ」
映司は魔剣を抜いて──構えた。




