第27話 巌熊との戦い
映司が魔剣の柄を握り直すと、〈遺失査定〉が勝手に走った。
『巌熊。膂力:剛腕、頑健。素材として回収可能』
『老齢個体。この一帯の主』
頼んでもないのに、それらが勝手に頭に文字として流れ込んでくる。
(巌熊、って……まんまじゃねえか)
張り詰めた頭の隅に、間の抜けた突っ込みがひとつ浮かんで、消えた。
岩だと思っていたものへ、世界のほうが岩の字をつけてきたのだ。
老齢個体で、この一帯の主。つまり、あそこで丸くなって昼寝をしていられるくらい、この森に敵がいない側の生き物ということになる。二行の査定が、そのまま格の説明になっていた。
(逃げられるか……?)
数秒だけ考えて、捨てた。
自分ひとりなら魔狼の脚で振り切れるかもしれないが、優菜が無理だ。彼女を抱きかかえながら、森の主相手にその森から抜けきるのも難しいだろう。
背後は沢、左右は藪。開けているのは、こちらの岸だけだ。走れば、そこを追われる。
つまり、やるしかない。
「優菜。下がってろ」
「……うん」
袖を摘まんでいた指が離れ、優菜が岸の上手へ数歩下がった。重ねた皿の脇、埋めた火の跡の近くだ。
巌熊が、動いた。
図体に反して、速い。太い前肢が浅瀬を叩き、飛沫を上げて、三倍の質量がまっすぐ渡ってきた。一歩ごとに、水を踏む音が腹へ響く。あの重さに正面から付き合う気は、端からなかった。
岸へ上がりきられる前に、自分から踏み込む。上がり際は、どんな獣でも姿勢が低くなるものだ。
狙いは、前肢の付け根。魔狼の骨ごと断った刃なら、届くはずだ。
しかし──刃が、止まった。
「……かってぇッ!」
思わず、ぼやく。
毛、その下の脂。さらに下の、分厚い皮。三層が刃を挟んで殺していた。骨まで全然届いていない。入ったのは、皮一枚ぶんだけだった。
返しの前肢が、横から来る。魔狼の脚で、跳び退いた。この脚がなければ、今の一撃で即死だっただろう。
空を切った前肢が、岸の石を叩く。石が割れて、破片と飛沫がまとめて散った。
二撃目。今度は、退く先を塞ぐ角度だった。
「聖なる盾よ、我らを守れ──〈聖壁〉!」
優菜の声とともに、白い膜が映司の前へ立つ。魔狼の突進を弾き返した、あの盾だ。
前肢が、膜へ落ちる。
しかし──。
パリンッ!
膜が、真ん中から割れた。
魔狼を弾いた盾が、今回は持たなかった。殺しきれなかった衝撃に持っていかれ、映司の身体は岸の石の上を転がる。
脇腹をやられた。シャツが裂けて、遅れて熱が来る。肋にひびくらいは、入ったかもしれない。
「聖なる光よ、我らが敵を撃ち貫け──〈気弾〉」
優菜の追撃が、転がった映司と巌熊のあいだへ割り込む。光の弾が、巌熊の頬で弾けた。
しかし、巌熊は瞬きひとつしない。歩みが、半歩も鈍らなかった。
「嘘……効いて、ない?」
「効いてないな」
「どうするの……?」
「さあな。やりながら考えるしかないさ」
脇腹を押さえて立ち上がりながら、わざと軽口で返した。彼女の声が、揺れていたからだ。
自分の魔法が通らない相手は、優菜にとってこれが初めてだった。動揺は、そのまま戦闘に現れかねない。
映司は距離を取った。魔狼の脚で下がるぶんには、向こうの突進より速い。追ってくる巨体と、数歩ぶんの猶予。その数秒で、次の戦略を考える。
優菜の魔法も効いていないし、剣も致命傷には至らなかった。正面から突破は無理だ。
昨日のことが、頭をよぎる。あの魔狼戦は、土壇場でスキルが目覚めてくれたから拾えた勝ちだった。だが、今回はそういったものは期待できそうにない。
それでも、何とかこの場を乗り切らねばならなかった。
(新しい手なんて、そうそう都合よく浮かんでこねえよな!)
スキルは、降ってこない。あるもので、どうにかするしかなかった。
あるものと持っているものを、頭の中に並べていく。
魔剣、魔狼の脚、庫、回収、優菜の魔法。並べてみれば、手札はもう机の上に全部出ていた。足りないのは、並べ方のほうだ。
そこで、映司の目が下がった。
巌熊ではなく、足元へ。壊れているところ、緩んでいるところ、外れているところ。そういったものを、必死で探す。
浅瀬には、半ば水に沈んだ倒木があった。岸に打ち上がった流木と崩れた岸の石、枯れ枝も散らばっている。それらは全部、役目を終えた物だ。つまり全部、映司が触れる資格のある物である。
(こいつは使えるかもな)
誘い込む場所と踏ませる物、消す間合い。頭の中で、順番が三つ、かちりと嵌まった。
「優菜。合図したら、あいつの顔にありったけの火をぶち込んでくれ」
「顔?」
「ああ。まず、目を潰す」
「うん……わかった」
短い問いがひとつ挟まって、それで通じた。
細かい段取りを説明している時間は、どのみちない。
「おら、ついてきやがれ熊のオッサン!」
映司はわざと足音を立てて、浅瀬へ引いた。
石を蹴り、水を鳴らし、逃げ腰の背中を見せてやる。
巌熊が、挑発に乗った。唸りとともに向きを変え、水へ突っ込んでくる。飛沫が、壁になって立った。
水の中では、あの図体もわずかに鈍る。踏むたびに水底の石が鳴って、足の運びがひと呼吸ずつ遅れるのだ。一方、こちらは魔狼の脚のまま、浅瀬を斜めに横切っていく。水は膝下。それでも、速さは落ちなかった。
岸へ上がる一歩手前で、足を止める。
振り返って、息の上がった顔まで見せてやった。追い詰めた、と思わせるための演技だ。
巌熊が追ってきた。岸へ届く途中、半ば水に沈んだ倒木へ、体重ごと前肢が乗る。
(よし!)
──〈遺失回収〉。
倒木が、音もなく消えた。光もなく、唸りもしない。だから巌熊には、足の下で起きたことが分からなかったはずだ。体重を預けた支えだけが、この世から失せたのだから。
前肢が、水を掻いた。巨体が行き場をなくして、そのまま前へ崩れる。水柱が立ち、伸びた首が、水面の近くまで下がった。
「優菜、今だ!」
映司の叫びに、優菜が力強く頷いた。
「聖なる炎よ、敵を滅せ──〈聖火球〉!」
岸から、火球が飛んだ。
〈聖火〉ではなかった。火が弾の形に固まって、まっすぐ飛んでいく。危機が迫ったところで、彼女のスキルもまた一段化けたらしい。
火球は下がった顔面へ吸い込まれ、目のあたりで爆ぜた。
巌熊が咆え、頭を振る。前肢が水底の石を掻いて、滑っていた。
「……上出来だ」
映司はにやりと笑い、一気に踏み込んだ。
狙いは、首の付け根。刃を挟まれたあの数合で、毛が薄く、脂の乗らない場所は、もう分かっている。
そこへ、魔剣を叩き込んだ。
風が刃を押す。毛を割り、脂を裂き、皮を抜けて、刃はその奥まで届いた。
沈黙。
まず、水音だけが戻ってきた。
巨体が浅瀬へ沈み込むのを最後まで確かめる前に、膝が落ちる。息が続かなかった。脇腹の痛みが、遅れてまとめて押し寄せてくる。
浅い水の中で膝をついたまま、しばらく息だけを整えた。
「映司くん!」
水を蹴って、優菜が駆け寄ってきた。
「大丈夫!? 傷、見せて!」
「か、掠り傷だって」
「いいから!」
答えを待たずに、裂けたシャツの裾をめくり上げられた。
脇腹には、石で擦った痣と、滲んだ血。呼吸のたび、内側で鈍く軋んでいた。
優菜の顔から、表情がすとんと抜けた。それから、一気に不機嫌へ傾く。
「……映司くんの嘘吐き。これのどこが掠り傷なの?」
「アハアハ……ば、バレた? 実は、結構痛かったりして」
「今度嘘吐いたら、もう治してあげないから」
「ごめんなさい」
即答で謝ると、優菜は呆れた息をひとつ吐いて、両手を傷へかざしてくれた。
「この者の傷を癒せ……〈治癒〉」
温かい光が染みて、軋みが引いていく。塞がるまで、ひと息だった。
立ち上がって、浅瀬の亡骸へ向き直る。近づくと、査定が二度目に流れ込んできた。
『装纏可能。前肢および肩を要する』
魔狼の時は一匹丸ごと持っていかれたが、この図体なら前肢と肩だけで足りるらしい。
要る量が同じでも、残る量が桁違いになる、ということだ。
亡骸へ手をかざして、詠唱する。
「失われし命よ。その力を、この身へ宿せ──〈遺失装纏〉」
光が亡骸の前肢と肩を包んで解けて、映司の中へ流れ込んでくる。引いた後には、その部位だけが綺麗に消えていた。
新たな力が、映司の中に流れ込んでくる。
魔狼の時は、跳ぶ力と蹴る力だった。今度は、腕と背中、それから腹。押す力と支える力と、耐える力が身体の芯へ順に積まれていく感覚が広がった。立っているだけで、地面の踏み心地が違う。足の裏から頭まで、一本の柱が通ったようだった。
試しに、浅瀬に沈んだ亡骸の胴へ手を掛けてみる。さっきまで押しても揺れもしなかった質量が、片手で岸へ寄った。ついでに岸の岩へ指を掛ければ、それだけで動いた。拾い直した魔剣にいたっては、羽毛ほどの重さしかない。
「おお……これは凄いな。かっる」
持ち上がる、というより、重さの側が遠慮してくる感じだ。妙な手応えだった。
「でも、岳人あたりの〝聖騎士〟なら、こんなの素手でやるんだろうな」
映司は優菜に向かって肩を竦めてみせた。
「映司くん……それは」
「ん?」
「ううん。何でもない」
優菜が何かを言い掛けて、くすっと笑った。何だか、どこか呆れたような笑みを浮かべている。
「おい、何だよ」
「なんでもないってば」
結局、彼女の真意は、わからなかった。
その言及は諦め、残りを〈遺失回収〉で庫へ落としていく。肉、毛皮、爪、牙、脂。魔狼五頭ぶんの隣に、桁の違う塊が積み上がった。
破れたシャツは、昼に写した替えと着替える。五枚作っておいて、早くも正解だった。
袖を通しながら、ふと引っかかる。
「熊の肉って、確かそのまま食うとやばいんじゃなかったっけ?」
「うん。しっかり火を通さないと危ないって言うよね。臭みを取るために何日も煮込まないといけないって聞いたことがあるけど……」
「魔狼と同じでいけるのか、これ」
試しに庫から一部を出すと、岸に肉の山ができた。魔狼一頭とは、嵩の桁が違う。
優菜が、その山の前で腕まくりをした。
「とりあえず……やってみるね」
優菜が山の前へ立って、両手をかざした。息をひとつ吸って、吐く。
かざした指先が、肉の端から端までをゆっくりなぞるように動いた。掛ける範囲を、先に測っているらしい。
「穢れし物の全てを清めよ──〈浄化〉」
白い光が、山の手前半分を洗う。
だが、今回はひと息では終わらなかった。魔狼一頭ぶんなら一度で済むところを、区切って、掛け直して、また区切る。
二度目の途中で優菜の詠唱がわずかに掠れ、それでも声を立て直して、三度目。ようやく、査定の返しが『食用可』へ変わった。
「……いけるもんだな」
「うん。でも、結構疲れちゃった」
額の汗を手の甲で拭って、優菜が息を吐く。疲れた、と言いながら、その息はまだ少し余裕がありそうだ。
ただ、これも〈聖域〉の維持に魔力を費やしていないからこそできた芸当だろう。もし、〈聖域〉を維持していたら、先ほどの新しい攻撃スキルも使えなかっただろうし、この〈浄化〉も成功していなかったように思う。我ながら、あの結界の要石は大発明だった。
ともあれ、今夜から飯が変わる。魔狼五頭ぶんの隣に、巌熊一頭。庫の中身だけなら、当分は食うに困らない。
「これなら畑の土も──」
「あれは、もっと大きいから……まだ無理かなぁ」
言いかけた先を、優菜がやんわりと折った。肉の山と畑一枚では、規模がまた一段違うらしい。自分の魔力の残りがどれだけあるか、彼女はちゃんと把握しているのだ。
宿題リストには、塩と、畑。残った二つは、どちらも今日の探索では届きそうにない。
*
帰り道は、採集をしながら歩いた。
優菜が摘み、映司が読む。行きに覚えた顔ぶれを、庫が満ちるまで足していく。浅瀬へ落ちたままだった皿も、忘れずに拾い上げてあった。
帰りは、やけに森がうるさい。
鳥が戻っていた。行きと同じ……いや、行きよりも、賑やかなくらいだ。
木立を抜けて、街道へ出る。日はまだ高いが、傾きはじめてはいた。緑がだんだんと色を失い、根元から灰色に抜けた草が戻ってくる。汚染の内側へ、帰ってきたのだ。行きには寂しかったはずの灰色が、今は帰り道の目印となっていた。
道の先に、門柱が近づいてくる。二本の石の上に、梁が一本。今朝、二人で渡した石だ。
映司と優菜は、並んで門をくぐった。
朝は、内から外へ。今度は、外から中へ。結界を抜けたはずなのに、肌には風ひとつ引っかからない。
通れるのは、ふたりだけだった。




