第23話 〈聖域〉展開
歯ブラシセットを手に、映司は戸口をくぐった。
かまどの火が、土間を橙色に染めている。その前に優菜がしゃがんで、鍋の様子を見ていた。鼻歌は、映司が敷居をまたいだところで止まった。
「歯ブラシ、サンキュ。綺麗に洗っといたぞ」
「ん、ありがと」
優菜が立ち上がって、歯ブラシセットを受け取る。ポーチへ仕舞うその手元まで、一歩ぶんの距離。
そこで、またふわりと香った。
石鹸ともトリートメントとも違う、甘いほうの匂い。昨夜、腕の中で嗅いだのと同じものだ。あの時は、それどころではなくて訊けなかったが……今なら、訊ける。
ポーチの口を留めた優菜は、かまどの前へ戻ってしゃがみ直した。その背中へ、映司は声を掛ける。
「なあ、優菜」
「ん?」
「昨日の夜も思ったけど、何でお前だけいい匂いしてんの?」
優菜が目を丸くして、火の前から振り返った。
「え?」
「だって、俺からその匂いしないし」
根拠なら、揃っている。昨日は同じ湯に浸かって、同じ石鹸で身体を洗った。あの石鹸は、鼻を寄せても匂いがしない。シャンプーとトリートメントは、二人で最後の一滴まで使い切った。条件は端から端まで同じはずなのに、この匂いだけは彼女からしかしないのだ。
「ああ……」
思い当たった様子で、優菜は立ち上がった。壁際の鞄を引き寄せ、中から取り出したものをこちらへ差し出してみせる。
手のひらに載っていたのは、ロールタイプのデオドラントだった。
それで、昨夜のことに合点がいく。ベッドへ入る前、優菜は「ちょっと先、行ってて」と言って土間へ戻り、鞄をがさごそやっていた。正体は、これだったらしい。
「私、これ塗ってたから」
「デオドラントか」
「うん。だって……せっかく一緒に寝るのに、いい匂いしてなかったら、やだし」
言いながら、優菜の目が下を向く。頬に、火の色ではない赤が差していた。
その言い方のせいで、昨夜のあれこれが頭を掠めて、映司の心臓がひとつ大きく跳ねる。
ただ、香っているのは今だ。昨夜のぶんが残っているにしては、鮮やかすぎる気がした。首を捻っていると、優菜が小さく付け足す。
「実は……今朝も、つけてたりして」
消え入りそうな声だった。
理由は、訊かないでおく。訊けば、彼女はさっきと同じ答えを、もっと恥ずかしい思いをしながら繰り返すことになるからだ。
「一昨日も寝る前、こっそりつけてたんだよ? 一昨日は、お風呂入れてなかったから、っていう理由の方が強かったけど」
「そうなのか……気付かなかった」
「気付かなくていいよ」
困ったように笑って、優菜はデオドラントを鞄へ戻した。
一昨日といえば、壁に凭れて並んで眠った、あの夜である。まだ付き合ってもいない、告白のこの字もなかった夜だ。それでも彼女は、映司の隣で眠る前に、こっそりこれを塗っていた。その隣で、映司は気づかないままマヌケにも眠っていたのである。我ながら、色々と見逃しているというか、なんというか。きっと、日本にいた時からこういうことを繰り返していたのだろう。情けない話だ。
鞄の口を閉じてから、優菜がかまどのほうへ向き直った。
「朝ごはん、どうしよっか」
かまどには火が入っていて、鍋が湯気を上げはじめている。焼くなら、〈遺失庫〉の魔狼肉しかない。選択肢は、最初からひとつだった。
「……朝からあの脂っこい肉は、ちょっとな」
「だよね。私も、今それ言おうと思ってた」
魔狼の肉は、ちょっと朝食向きではない。
最初は美味いが、後半になるほど獣の匂いが舌に残って、最後は二人して水で流し込んだ。あれを朝一番の胃に入れる度胸は、どちらにもなかった。
一昨日は水も飲めなかった男が、脂がしつこいという理由で飯を抜こうとしている。贅沢な話だった。
「じゃあ、朝ごはんは抜きにする?」
「そうだな。その代わり、すぐ森の方に行こう。寝坊した分、取り返さないと」
とはいえ、せっかく沸きかけた湯まで無駄にするのも微妙だ。優菜が白湯を鉢に注いで、二人で回し飲みした。胃に落ちる熱で、空腹が少しだけ黙る。残りは水袋へ詰めて、かまどの火には映司が灰をかぶせた。
「でも、森ってどこにあるの?」
「えーっと……」
訊かれて、映司は記憶を漁った。この村の周りをまともに歩いたのは、来た日の朝だけだ。
……いや、ひとつある。荷馬車の道だ。
「確か、降ろされた場所の少し手前で、道の脇にずっと木が続いてただろ。あのへんまだ草が青かったし、汚染もされてないと思う」
「あ、思い出した。じゃあ、そこまで戻る感じかな」
降ろされた場所は、村から目視できる距離だ。その少し手前なら、歩いて二、三十分というところだろう。見た覚えがある、以上の確かさはないものの、当てとしては十分だった。
別のところにもあるかもしれないが、地図も何も無いのに彷徨い歩くのは、得策ではない。
優菜が訊いた。
「ね、森で石とか枝とか拾えたら、包丁とかお皿ってすぐ作れる?」
「ああ。作れると思うよ」
「じゃあ、食べられそうな草とか採れたらそこで朝ごはんにしない? お肉あるし」
「朝昼兼用か。いいなそれ」
こういう生活側の算段は、優菜のほうが一枚早い。香草の話を最初に持ち出したのも彼女だった。塩を除けば、宿題の半分が、森の一箇所へ束ねられていく。
支度は、すぐに済んだ。
映司は〝風牙魔剣〟を背へ回し、水袋を腰へ提げる。優菜は鞄を肩に掛けた。持ち物は、それで全部である。
表へ出て、映司は扉を閉めた。
閉めた手が、そこで止まる。
この家には、鍵がないのだ。
閂は、内側からしか下ろせない。外へ出て閉めてしまえば、この扉は押せば開くただの板だった。
(……まあ、仕方ないか)
こんな廃村まで来る人間がいるとも思えないし、盗られて困るものも、鉄鍋と毛布くらいである。
ただ、不用心であることには変わりないし、鍵を開けたまま出掛けるというのも、ちょっと心理的に嫌なものがあった。
頭の中の宿題リストに、鍵、と一行書き足す。今朝並べたばかりのリストが、家を出て十歩で増えた。
歩き出そうとした背中へ、ふと声が掛かる。
「映司くん」
「ん?」
振り返ると、優菜が数歩後ろで立ち止まって、手のひらをじっと見つめていた。
「ちょっと、試したいことがあるんだけど……いい?」
頷くと、優菜は映司の横を抜けて前へ出た。井戸と家との中間、村の広場にあたる場所で足を止める。鞄を掛けたまま、両手を胸の前で重ねた。
息を吸う音が、ひとつ。
「この地を清め、護れ──〈聖域〉」
詠唱と同時に、優菜の足元から光が放たれた。
昨日の〈聖壁〉とは、動きが違う。あれは彼女の前に一枚立つ盾だった。これは、地面を這って外へ広がっていく。
白い光は輪になって、井戸の石組みを越えた。家の土台を越え、風呂小屋を越える。屋根の落ちた廃屋を順になぞり、灰色に抜けた草の上を走って、畑だった一角を呑み、村の入口の門柱を過ぎたあたりでようやく止まった。
それから、光は上へ立ち上がっていく。
村の輪郭のまま、薄い膜になって空へ伸びた。膜の縁は頭上で寄り合って、ドームの形に閉じていく。見上げた首が、そのまま戻らなかった。
(な……なんかわかんないけど、すげえ)
何が起きているのかは、わからなかった。〈遺失査定〉は役目を終えた物にしか口を開かないから、人のスキルには一行の説明も付かないのだ。わからないまま、ただ、凄かった。
映司が三日かけて直した井戸を、家を、風呂小屋を、彼女の光は一息で通り過ぎていった。
頂点で閉じきると、光はふっと消える。
あとには、いつもどおりの村だった。空の色も、灰色に抜けた草も、廃屋の傾きも、さっきと何ひとつ変わっていない。目を凝らしても、膜のあった高さには薄雲が流れているだけだった。
「よかった。ちゃんとできたみたい」
優菜がふう、と息をついて、こちらを振り返った。
「これは?」
「う~ん……なんて言うんだろう? 結界っていうのかな?」
結界。言葉の意味は分かる。分からないのは、規模のほうだ。村ひとつを、まとめて囲ったのだ。
「これ、どういう原理なんだ?」
「私が入っていいよ、って思った人しか、中に入れなくしたの。だから、映司くんは平気。でも、それ以外の人は……たぶん、見えない壁にぶつかって、進めなくなるんじゃないかな?」
あっさりと、とんでもないことを言われている気がした。
留守も、夜も、これで閉まる。ついさっき、鍵ひとつを仕方ないと諦めた男の目の前で、村がまるごと施錠されたのだ。間抜けを通り越して、笑うしかなかった。
「だって、留守中に誰かに入られたら嫌でしょ? それに……また昨日みたいにモンスターが出たらって思うと、夜も不安だし」
優菜が、眉を顰めて言った。
もっともな話だ。昨日の魔狼は六頭。次があるとすれば、留守の間か、寝ている間だ。なんなら、寝込みを襲われるのが一番怖い。その二つが、たった今ふさがれた。
「凄いな。いきなりできるようになったのか?」
「うん。さっき歯を磨いてたら、なんかできるかも~って」
そういった感覚には、映司にも身に覚えがある。〈遺失回収〉も〈超越再構築〉も、必要になったところで急に手の中へ現れた。彼女の〈聖火〉も、かまどを前にして目覚めている。この世界のスキルは、そういうものらしい。
そして優菜は、もう一段だけ言い添えた。
「たぶん……ここが私にとって大切な場所になったからだと思う。誰にも荒らされたくないなって……そう、思ったから」
大切な場所。
その先を、優菜は言わなかった。誰にとっての、誰との場所なのか。訊けば答えてくれそうな気もしたが、映司も訊かなかった。
ついさっき、同じ井戸の前で、歯を磨きながら、同じことを考えたばかりである。しかも彼女がここを守ろうと思い立ったのも、同じ井戸の前で、同じように歯を磨いている時だったという。さすが幼馴染。似ているところも、結構あるようだ。
返事は、出てこなかった。代わりの咳払いだけが、妙に大きく響いた。
咳払いの余韻が消えないうちに、優菜が言いにくそうに口を開く。
「でも……ちょっと、デメリットもあって」
「どんな?」
「使ってみてわかったんだけど、これ、魔力の消費量が多いの。〈聖域〉を張ってる限り、ずっと魔力を使うっていうか」
「永続的なやつか……」
映司の〈遺失装纏〉と同じ永続でも、支払い方が逆だった。あちらは魔狼一頭ぶんを最初に払えば、それで終わりである。〈聖域〉は、払い続けなければならないようだ。
「なるほど。それだとちょっと、考えものだな。どれくらい保つ?」
「うーん、どうだろう? 半日は保つと思うけど」
半日か。
今日の予定を、頭の中で並べ直す。森まで片道二、三十分。向こうでの拾い物と、朝昼兼用の飯。帰り道。全部足しても、半日には収まる。ただ、帰ってから夜のぶんを張り直すなら、そのぶんの魔力も要るのだ。彼女の魔力量が並外れているのは知っているが、限りがないわけでもないだろう。
「それなら、使うのは一旦外出中か、寝る時だけにしとこう。きつくなったら、いつでもやめていいから」
「うん。わかった」
頷いて、優菜が鞄を肩へかけ直した。革の帯が、ひとつ跳ねる。
二人で、門柱のほうへ足を向けた。
数歩行ったところで、映司は一度だけ村を振り返る。井戸も、家も、風呂小屋も、傾いた廃屋も、元のままそこにあった。膜の名残は、どこにもない。それでも、あの光が村の形のまま閉じたのを、確かめたばかりだ。
変わって見えないだけで、この村はもう、開けっ放しではないのだ。
鍵のなかった家を背に、二人は村の入り口へと歩き出した。




