第22話 ふたりの朝
瞼の裏が明るくて、久世映司は目を覚ました。
板窓の隙間から、光が一本差し込んでいる。細い帯になった光は、ベッドの右側に落ちていた。昨夜、月明かりが薄く届いていたのと、同じ場所だ。夜のあいだに、そこへ差す明かりだけが入れ替わったらしい。
(……寝過ぎたな)
光の高さが、それを教えていた。異世界に来てから、影がこの角度になるまで眠っていた朝は一度もない。
(今、何時だ?)
時計を探して、この世界に時計などなかったことを思い出す。
寝起きの頭で考えることでもなかった。ただ、そんなどうでもいいことに付き合えるくらい、頭にも余裕があるのだろう。
やはり、ちゃんとしたベッドで寝るのはいい。
まず、背中が痛くなっていなかった。腰も、首も、どこも軋まない。一昨日の夜は壁に凭れたまま眠って、昨日の朝は起き上がる前から首が痛かった。今朝はそれがない。そのうえ、身体の芯まで妙に軽かった。眠りの底まで沈んで、そこからゆっくり浮かび上がってきたような朝だ。こんなに深く眠れたのは、こっちの世界へ来てから初めてだった。
その理由を考えかけたところで、映司は昨夜のことを思い出す。途端に、耳の裏が熱くなった。
(あれ……そういや、優菜は?)
寝返りを打つと、右側が空いていた。
隣が空だと分かってから、映司はそこへ手のひらを置いてみた。まだ、少しだけ温かい。出ていってから、そう経ってはいないようだ。
その温もりをひと呼吸ぶんだけ確かめて、起き上がる。
ベッドの縁で身を起こすと、足元の枠の上に、服が畳んで並べてあった。二人ぶんだ。
左が映司の制服ズボンとシャツで、その横に優菜の体操着が載っている。角はきっちり揃い、合わせ目は真っ直ぐで、袖は内側へ折り込んであった。裾の線まで、定規でも当てたみたいに通っている。この畳み方をする人間を、映司は一人しか知らない。
彼女が先に起きて、二人ぶんの服を畳んでから、部屋を出ていったようだ。
そこまで考えたところで、なぜ服が二人ぶんまとめて枠の上にあるのか、その理由にすぐに思い至る。
そう……昨夜、これらの服はベッドの下で散乱していたのだ。
お互いに初めてで、でもそれ以上に気持ちが昂っていて、脱いだり脱がしたりした服をどうするかなど、全く気にする余裕がなかった。
とりあえず、毛布をめくってみる。
当たり前なのだが、すっぽんぽんだった。
(……夢じゃ、なかったんだな)
毛布を戻して、天井を仰いだ。
部屋は暗かったけれど、暗さに慣れていたせいか、よく覚えている。
長年、おそらく両片思いをしていたらしい幼馴染同士が、お互いの想いに正直になって、互いを求め合った。
彼女のいい匂いも、柔らかな肌も、それから初めて繋がった時の幸福感も。全部、これでもかというくらい、一気に脳裏に蘇ってきた。
(俺……上手くできたのかな)
キスも、身体を重ね合わせることも、もちろん人生で初めてで。ただただ、本能の赴くままに彼女を求めてしまっていた。
もちろん、途中で彼女に都度確認は取っていたように思うが……何回、大丈夫かと様子を窺っただろうか。何回、好きだ、可愛い、と言っていただろうか。そして同じように、愛を返されただろうか。何だかそれらの睦言を冷静に思い出してしまうと、余計に恥ずかしくなってしまった。
耳どころか、顔中が熱い。恥ずかし過ぎて転がり回りたいくらいだ。
(ああ、もうッ。こうやって畳まれたら、余計恥ずかしくなるだろ)
照れ隠しの悪態は、続かなかった。
彼女が脱ぎ散らかしたものを見て見ぬふりできない性分なのは、昨日今日に始まった話ではない。破れたシャツの縫い直しでも、歯ブラシの洗い方でも、ずっとそうだった。
(でも……こういうとこが、優菜らしいんだよなぁ)
思わず頬が緩んだ。
そんな優菜と想いと身体を交えたことも相まって、胸が勝手に踊ってしまう。
枠の上から自分の服を取り、袖を通した。優菜が縫ってくれたシャツの、肩の縫い目に指が当たる。針目は昨日と同じで、細かく、揃っていた。変わらないものをひとつ確かめてから、ズボンを穿き、ボタンを上まで留めて、奥の部屋を出る。
映司が土間へ下りると、そこに優菜の姿はなかった。
かまどには、熾が残っている。昨夜灰をかぶせた時の形のままだった。誰も、新しく火を入れていない。
テーブルの上には鉢がひとつ。棚の中身も、昨日のままだ。
(あれ? 優菜は?)
戸口のほうを向くと、閂が上がっていた。
昨夜、優菜が確かに下ろしていた閂。その木が今は、受けから外されて、扉の脇に立てかけてあった。
この家の中のどこからも彼女の気配がしなくて、一気に胸がさっと冷たくなる。
そんな不安を押し殺して、映司は扉を押した。
「優菜?」
名前を呼びながら表へ出ると、朝の音がまとめて耳に流れ込んできた。
鳥の声。風の音。草の擦れる音。屋内の静けさに慣れていた耳には、それだけで十分に賑やかだった。
彼女は、井戸の前にいた。
制服姿で、こちらへ背を向け、手元を動かしている。呼び声は届いていたらしく、優菜が手を止めて振り返った。
「あっ、映司くん。おはよう」
嫣然として、彼女はそう言ってくれた。
笑った顔に、朝の光が当たっている。
片手に歯ブラシ、もう片手に麻の手拭いが一枚。顔を洗ったのだろう。前髪が濡れて、額に張りついていた。
(可愛い……)
何故だろうか。思わず、見惚れてしまった。
昨日までと同じ制服で、同じ丈で、容姿が変わったわけでもない。違うのは濡れた前髪くらいのものだ。
それなのに、目が離せなかった。
挨拶を返すのも忘れて、足まで止まっている。
(……変わったのは、俺のほうか)
これまで、彼女を幼馴染というフィルター越しに見ていた。そう、こういう風に見惚れないために。可愛いと思いながらも、そう思わないように幼馴染フィルターを無意識のうちにかけて、誤魔化していたのだ。
それが取れてしまえば、これだ。
これが昨夜、映司が『我慢できなくなる』と言った理由のひとつでもあった。
棒立ちの映司へ、優菜が小さく首を傾げる。
「なあに?」
「い、いや。何でも」
ごまかして、映司は井戸まで歩いた。
濡れた縁を回り込み、正面に立って向き合う。仕切り直すには、少しばかり照れくさい距離だった。
「……おはよう」
「おはよっ」
改めて、彼女が挨拶を返してくれた。
この四日で、朝の挨拶をまともに交わせたのは、これが初めてだった。一日目の朝は日本にいて、二日目の朝は夜通し揺られた荷台の上。昨日の朝も挨拶はしたのだが、あの時はお互い、どぎまぎして声が上ずっていたのだ。
たかが挨拶ひとつで、妙にくすぐったい。
向かい合ってみると、訊きそびれていたことが口を突いて出た。
「起こしてくれたらよかったのに」
「気持ちよさそうに寝てたから。起こすのも悪いなって」
優菜はそう答えてから歯ブラシをケースの中に直し、言葉を継ぎ足す。
「それに……ちょっと、恥ずかしかったし」
頬を染めて、顔を背ける。
「そ、そうか」
それ以上は、訊けなかった。
何が恥ずかしかったのかを訊いてしまえば、こちらも同じものを言葉にする羽目になる。恥ずかしいのは、お互い様なのだ。
沈黙が下りた。映司は足元の砂利を爪先で転がし、優菜は井戸の縁を指先でなぞっている。行き場をなくした言葉の置き場を、二人して探していた。
先に沈黙を埋めにきたのは、優菜のほうだった。
「よく眠れた?」
「……お陰様で」
「私も」
短い返事が往復して、また黙る。
この『お陰様で』と『私も』には、色々意味が込められている気がした。
異世界で、初めて居場所を得た安堵感。
長年、届かなかった想いが届いたという気持ち。
ふたりして、同じような意味を込めていたように感じる。
だからか、今度の沈黙は、さっきほど気詰まりではなかった。風が草を撫でる音と、鳥の声と、水路の水音が、二人ぶんの間を埋めてくれている。黙っていても、気まずくならない沈黙だった。
やがて、優菜がふっと息を漏らして、眉を下げた。
「ごめん。昨日のこと思い出すと、恥ずかしくなっちゃって。なんだか色々、言っちゃってた気がするし」
「そ、それはお互い様だろ」
「……そうだね」
言って、優菜は嬉しそうに微笑んだ。
「たくさん、『好き』って言ってくれてた」
案の定、映司が言っていた言葉をしっかりと覚えているようだった。
さっき思い返しただけできつかったのに、本人から言われたらもう、耐えられるものではない。
「やめてくれ。恥ずかしくて死にそうだ」
「あと、『可愛い』も」
「だから、やめろって」
抗議はしたものの、声に力が入らない。
全部、身に覚えがあり過ぎた。昨夜の自分が何をどれだけ口走ったか、思い返すほどに顔が熱くなっていく。
もちろん、優菜の声に、からかいの色はなかった。ただ嬉しくて、その嬉しさをひとつずつ噛み締めているような。そんな調子だった。
それが、余計に効いた。からかわれているなら言い返しようもあるが、喜ばれてしまっては、返す刀がない。
そして──。
「でも、嬉しかったよ?」
幸せそうに言って、優菜は映司の心臓にトドメを刺すのであった。
「──~~ッ」
言葉にならない声が出た。
言い返す弾は、一発も残っていない。完敗である。
黙って俯きかけた、その途中だった。優菜の喉の下のリボンが、目に入った。
結び目が、少しだけ傾いている。
優菜のリボンは、いつも喉の下で真横に整っていた。入学してから今日まで、傾いていたためしがない。教室でも、廊下でも、こっちの世界へ来てからも。あの結び目だけはずっと水平だった。それが今朝は、ほんの少しだけ、右へずれている。
考えるより先に、手が出ていた。
「……動くなよ」
「え? なにが──」
指先が、リボンの布に触れる。優菜の肩が、小さく跳ねた。
構わず、映司は結び目をつまんで真横へ寄せ、形を直してから手を離した。
「曲がってたから」
「……えへへ。ありがとう」
優菜がはにかみながら、自分のリボンに触れた。
動揺が残っていたのは、自分だけではなかったらしい。
その顔のまま、手の中の歯ブラシセットをこちらへ突き出してくる。
「はい、これ」
押し付けるように握らせて、それから、ぷいと顔を背けた。柄は、こちらへ向いていた。
「……ちゃんと、洗っておいたから」
「お、おう」
受け取ると、優菜がほっとした様子で笑った。
昨日はこの歯ブラシのやり取りだけで、二人そろって敬語になっていた。借ります、どうぞ、と。それが今朝は、三往復で済んでしまっている。
昨夜したことを思えば、歯ブラシくらいで照れる筋合いは、もうお互いにないはずである。それなのに、そこは今朝もしっかり気恥ずかしいのだから、おかしな話だった。
(……まあ、それもそうか)
順番なんて、あってないようなものだ。
きっと、日本にいれば違った。たとえ付き合っていたとしても、もっと順序を踏んでいたのではないだろうか。
学校生活を一緒に送って、デートをして、キスをして……昨日のような関係になるには、もっと時間が掛かっていたのだと思う。
でも、この異世界転移という現実が、そしてふたりの置かれた状況が、それらを全て、すっ飛ばしてしまった。
優菜は「ちゃんと洗ってね?」と悪戯っぽく言い残して、家のほうへ戻っていった。戸口をくぐる前に一度だけこちらを振り返り、小さく手を振ってから。
(いや……俺のカノジョ、可愛すぎだろ)
そんな可愛いカノジョと昨夜、あんなことやこんなことをしていたなど、到底信じられなかった。
また昨夜のことを思い返しそうになって、慌てて頭を振る。
もし彼女に思考を読まれたら、それだけで詰んでしまいそうだ。
照れ隠しに映司は井戸の水で歯を磨きながら、村を眺めた。
屋根の落ちた家。抜けた壁。根元から灰色に抜けた草。乾いた風が渡るたび、その灰色が波のように揺れる。二十年ぶんの塵と埃は、三日やそこらでどうにかなるものではなかった。お世辞にも、人の住む場所には見えない。
変わったのは、三つだけだ。
縁の濡れた井戸。細い煙の立ちはじめた一軒。その隣に建つ、煙突のある小屋。
直したのは、それで全部である。あとは、来た日のままの廃村だった。
口をゆすいでから、映司は今日の予定を頭の中で並べていく。
塩。包丁。食器。香草と薬草。歯ブラシ。自分の着替え。二台目のベッド。それから、畑。
どれも当てがあるわけではない。ただ、森へ行けば、いくつかは前へ進むはず。石と枝があれば食器と刃物の材料になるし、食える草が見つかれば、飯の幅も広がるはずだ。シャンプーの代わりになる香草も、探しておきたい。
(今日はまず、森だな)
磨き終えた歯ブラシを手拭いで拭って、映司は家のほうへ足を向けた。人の住む場所に見えない村の、煙の立つ一軒へ。戸口の向こうから、かまどの爆ぜる音と、小さな鼻歌が聞こえてくる。
この村には、二人しかいない。
そのことを、初めて心細いと思わなかった。




