第20話 暗がりの答え合わせ
寝る前に、映司はかまどの熾へ灰をかぶせた。
赤い点がひとつずつ消えて、土間から色がなくなる。残ったのは、窓の板の隙間から差し込む月明かりだけだった。それも床に細い線を引く程度で、壁も梁も、輪郭ごと闇に溶けている。
二人で奥の部屋へ向かった。互いの足音以外、聞こえるものがない。
戸口をくぐったところで、優菜が「あっ」と声を上げて足を止めた。
「どうした?」
「……ちょっと先、行ってて」
言い残して、優菜は居間のほうへ引き返していった。
暗がりの中、鞄を漁る音だけが届いてくる。蓋を開けるような、小さく硬い音。何かを肌に滑らせるような音が続いた。その蓋を閉じる音がしたかと思えば、髪を梳くような細い音が二度、三度聞こえてくる。無論、その音の正体は、映司にはわからなかった。
突っ立って待つのも間が持たない。映司は毛布を持ち上げ、ベッドの左側へ身体を滑り込ませた。それだけの動作で、心臓が勝手に速くなっているのが自分でもわかる。ベッドに入るという、ただそれだけのことなのに、だ。
それから間もなくして、優菜が戻ってきた。戸口を抜ける足音が、さっきより小さい。
「ごめん、お待たせ」
声もやけに小さかった。月明かりの筋の外にいるので、顔は見えない。でも、見えなくても、顔を伏せているのはわかった。声の出どころが、ほんの少しだけ低い。
何をしていたのかは、わからなかった。訊けるような雰囲気でもなかったし、訊いたところで『内緒』と返ってくるのが目に見えている。
ベッドの脇まで来た優菜が、そこで止まった。先に入ってしまった手前、今さらな確認が口をついて出る。
「あっ。俺こっち側入っちゃったけど、ベッド、どっちで寝るのが好きとかある?」
「う、ううん。大丈夫。こっちでいいよ」
こういう時に、どうでもいい確認をしてしまう自分の間の悪さが嫌になる。
毛布がめくられて、寝台が右側から沈んだ。二人ぶんの重さで、板がひとつ鳴る。もともと一人用の寝台である。優菜も背を向けて横になったようだ。互いの背中が、僅かに触れ合っていた。
一人用の寝台に二人が横になると、どうしても身体が当たってしまう。触れないようにするほうが、無理だった。
シャツ越しに、体操着の布の感触がある。その向こうの、彼女の体温まで。
現実から逃避するように、目をぎゅっと瞑った。今日は魔物と戦い、風呂を作り、それから明日の予定も立てた。疲れていないはずがない。眠れるはずだ。そう思うのに、眠気がいっこうに来なかった。
背中越しに、彼女の息遣いを感じていた。これだけ近いと、呼吸の間隔までわかってしまう。吸って、吐いて、少し間が空いて、また吸って。時々身じろぎをすると、そのたびに毛布が擦れる。その音を数えている自分に気づいて、やめた。
外では風が家の角を回っていて、その下に水路の音が細く続いていた。時計のない生活では、どれくらい経ったのか見当もつかない。長かった気もするし、まだ数分しか経っていない気もした。
寝るのも仕事のうちだ。そう結論を出したはずなのに、その当人が壁を眺めながら、目を開けている。寝るのも仕事なのは間違っていないのだが、実行に移す条件が、このベッドには揃っていなかった。
もぞり、と背中で優菜が動いた。
「映司くん、もう寝た……?」
遠慮がちに、彼女が訊いた。
それは、起きていることを祈っているような、寝ていることを願っているような、どちらとも取れるような声音だった。
いや、もしかすると、そのどちらも含んでいたのかもしれない。
狸寝入りすることも一瞬考えたが、正直に答えることにした。
「いや、起きてる」
「私も」
「だろうな」
そうでなければ、話し掛けられるはずがない。
少し間があって、優菜が思い出話をするような調子で言った。
「昔も、こうやって一緒に寝たことあるよね」
「そういえば、そうだったな」
言われて思い出した。
小学校に上がってすぐぐらいの夏休みだ。確か、優菜の家で布団を並べて寝たことがある。遊び疲れて帰るのが面倒になったとか、ゲームか何かにふたりで熱中していたとか、そんなくだらない理由だった。
その日のことを思い出そうとして、別の記憶が先に浮かんで、頬が勝手に熱を持つ。そうだ。そういえば、あの夜。今にして思えば、大事件が起きたのだ。
「お泊りした時、だけど」
優菜の声が、そこで一度止まった。
言葉を選んでいるというより、選んだ言葉を出すかどうかを躊躇っているかのようだ。そして、意を決したように。
「何したか、覚えてる……?」
おずおずと、そう切り出してくる。
「……今、思い出した」
答えながら、鼓動が上がるのがわかる。
背中の向こうで、ふっと息が漏れた。笑ったらしい。どこか恥ずかしそうな笑い方だった。
「あれ、私のファーストキス」
「…………」
言葉が出なかった。
そう。あの晩、こんなふうに布団を並べて寝ていて、映司がそろそろ寝落ちしそうになった時のこと。隣の布団から、優菜がいきなりこんなことを言い出したのである。
『男の子と女の子が仲が良くなるとすることって、何か知ってる?』
当時の映司は眠かったこともあって、雑に「知らない」と答えた。すると──。
『こうするんだって』
その言葉と一緒に身を乗り出してきたかと思えば、唇にそっと何かが重ねられる感触。
なにかと思って目を開ければ、優菜の唇が触れていた。
そこで、眠気が一気に吹っ飛んだことまで思い出した。あの時の、恥ずかしそうにはにかんだ幼い顔まで、くっきりと。
無論、そういうことをしたのは、それっきりだ。翌朝起きたら優菜がいつも通りだったので、映司も普通に接して、そのうち以前と変わらない関係に戻っていた。
「映司くんのファーストキスは?」
どこかからうような口調で、彼女は訊いてきた。
「……それに決まってんだろ」
「だよね」
ぶすっとして答えると、懐かしそうに優菜がくすっと笑った。笑いの余韻が、背中を伝ってこちらへ届く。
「あの頃の私、ませてたなぁ。見てたドラマの影響だと思うけど」
幼き日の突飛な行動は、当時のテレビドラマによる影響だったらしい。
全く、その教育によくないのは何のドラマだ。できれば、放送局に苦情の電話でも一本くれてやりたいくらいだ。幼い子供たちの初めてのキスが、そこで消費されてしまったのだから。
(……不思議なもんだな)
十年以上、一度も話題に出さなかったことを、二人とも覚えているだなんて。それに、そんな衝撃的か体験をこれまで忘れていたことにも驚きを隠せなかった。
優菜は、もしかしてずっと覚えていたのだろうか。中学も高校も、何気ない顔で映司と話しながら、ずっと。
そんなことを考えていると、また沈黙が戻ってしまった。だが、今度の沈黙は……さっきまでの眠れない沈黙とは、質が異なっている。
それを破ったのも、優菜だった。
「あれから……映司くんは、誰かとキスした?」
「は!?」
想定外の質問だった。
「し、してねーよ。する相手もいないし」
相手がいない、という事実は多少の情けなさを伴うが、事実は事実である。映司は優菜と違って、異性人気が高いわけではないのだ。しかし──。
「よかった」
安堵したように、優菜は呟いた。
(え?)
よかった、とはどういう意味だ。言葉の意味を考える前に、その答えはすぐにやって来た。
「……私もだよ?」
背中で、もぞりと優菜が動く気配がした。毛布が擦れて、寝台の板が小さく鳴る。寝返りを打ったのだろう。
息の位置が、さっきより近い。さっきまで背中に当たっていた体温が、今は肩甲骨のあたりに、正面から向いていた。
心拍数が、上がっていく。空気の質が、明らかにこれまでと違っていた。異世界に来てから彼女との空気感や距離感は少し変わっていたが、これまでのどれとも異なっている。
優菜が、映司の背中に向かって語りかけてきた。
「あの自由行動もね」
「自由行動?」
「あ、修学旅行の」
「ああ、それか」
異世界に飛ばされる直前にバスで話していた、班分けの話だ。
確か、映司が適当に班分けの名前を書いて、誰がいるか知らないと言ったら、自分の班で一緒に回ろうと優菜が提案してくれたのである。
「ほんとは……映司くんとふたりで回る予定だったの」
「え!?」
予想外の言葉が振ってきた。
優菜たちの班に入れてくれる、という話ではなかったのか。
「班の子たちにはこっそり別の場所に行ってもらって、私たちふたりだけ置き去りにされるっていう……そういう、口裏も合わせてて」
「……マジかよ」
「マジマジっ」
優菜は少しおどけて答えた。
まさか、そこまで仕組まれた上で声をかけられていたなど、露ほどにも思っていなかった。
そこで、バスの中でのことを思い出す。何か優菜のスマホにメッセージが来て、彼女はそれを慌てて伏せたのだ。細かい文面までは見ていないが、何かが進むといい、頑張れ、というような一行だった気がする。あれは、そういうことだったのか。
(いや、待て……)
だとしたら、ここに来る前から、優菜の気持ちはある方向を向いていたことになる。
その可能性に行き着きながらも、映司は何も言葉を返せなかった。彼女は声を落とし、続けた。
「私、結構焦ってたから」
「……何に?」
また心臓が速くなっているのを自覚しながら、何とか言葉を返した。
「久実子ちゃんのことで」
「久実子ちゃん? って、佐伯さんか」
思ってもいない名前が出てきて、困惑する。
久実子ちゃんとは、バスで写真の順番を回すと言いに来た女子、佐伯久実子のことだろう。〝治癒術師〟の職を与えられた彼女だ。少なくとも、他にその名前に思い当たる人を、映司は知らなかった。ただ、あの子と優菜が焦ることの関係がわからない。
映司は素直に訊いた。
「何であの子のことで優菜が焦るんだよ?」
すると、優菜は少しばかり躊躇うように黙り込んで。
そして、こう答えたのだった。
「だって、久実子ちゃん……映司くんのこと、好きみたいだったから」
「へ!?」
これまた、寝耳に水の話だ。
久実子が自分のことを好きだった? これまで想像もしたことがないシチュエーションだ。
「全然、そんな気配なかったけど……?」
「映司くんが気付いてないだけだよ。最近、よく話し掛けられてたでしょ?」
「……言われてみれば」
思い返してみると、夏休み前からよく話し掛けられていた。
夏休みを挟んですっかり忘れていたが、優菜と同じくらい、彼女も映司に構っていたように思う。よくよく考えれば、あのバスの時だって、写真を回すだのとわざわざ言いに来なくても済む話だ。
そう言われると、色々納得がいくかもしれない。
「マジかぁ……」
想定外過ぎて、意図せずさっきと同じような感想が漏れてしまう。
しかし、今回は自分のことではないからか、優菜もおどけなかった。
「うん。そういうのって、見てればわかるから」
女子、すごい。というか怖い。
感心しかけて、ひとつ引っかかった。好かれていたにしては、辻褄の合わない場面がある。あの半円の椅子の部屋。海斗による多数決だ。
「いや、でもさ。その割にあいつ、俺の追放に反対してなかったぞ?」
そう。久実子は迷う素振りを見せていたものの、結局反対に手を上げたのは、優菜だけだった。ならば、映司に好意を持っていた説は崩れるのではないだろうか。
それに対して、優菜は明確な答えを持っていた。
「それは……友達を置いていけなかったから、じゃないかな」
「友達?」
「怪我してた子たち、いたでしょ? 久実子ちゃん、あの子達と仲良かったから」
「ああ、そうだったのか」
優菜が城を出る前に治療に戻った生徒が、四人いた。
〝治癒術師〟という職も相まって、彼女たちの傍にいたかったのかもしれない。
「それに……こんな世界だし。堂島くんに反対するの、怖かったんだと思う」
「そうか。まあ、普通そうだよな」
わけのわからない世界に飛ばされて、いきなり職業を与えられて、魔王を倒せと言われた混乱の極みの中。そこで、クラスの中心人物から追放されようとしている弱者の味方をする人間など、いるはずがない。優菜がぶっ飛んでいるだけで、自分が生き残ることを考えれば、久実子の判断が正解だ。というか、大体の人間はそうする。だからこそ、映司もクラスの他の面子を責められなかった。
だが、そこで改めて考える。久実子が映司に好意を持っていたとして、それで優菜が焦っていたのだとすると。話の向きは、ますますひとつの方向へ定まってしまう。
その答えに触れるのが怖くて、映司はまた黙り込んだ。
沈黙が続く。長い。壁の向こうでは、風がまだ家の角を回り、水路の音も細いままだ。背中の向こうの呼吸だけが、さっきより浅くなっていた。
そして──思い切ったように、優菜は言った。
「ねえ、映司くん……こっち、向いてほしい」
懇願するような、その言葉。なのに、普段の幼馴染からは想像もつかない色気と甘さを含んでいた。
逆らえるはずもなく、映司は寝返りを打つ。毛布が引かれて、板が軋んだ。
窓の月明かりが、寝台の右側にだけ薄く届いていた。暗がりでもわかるくらい、優菜の顔が赤い。でも、その瞳には、覚悟を決めた色が宿っていて。
そんな彼女に見入っていたら──。
ふわり、と。
トリートメントの香りが、映司の鼻腔を擽った。
(えっ……?)
優菜が身体を寄せて、両腕を背中へ回してきた。そのまま、映司の胸へ顔を押し付けてくる。
今日、彼女と同じ湯に浸かって、同じ石鹸と同じシャンプーとトリートメントを使って身体を洗った。同じ匂いをしているはずなのに、彼女のほうから香ってくると、全く別の匂いに思えてくる。
いや。ひとつだけ、映司にないものが混じっている。石鹸でもトリートメントでもない、甘い香りが。
映司の胸に顔を押し付けたまま。優菜は、こう続けた。
「映司くん……大好き」




