第19話 幼馴染の爆弾提案
閂を下ろした扉の前で、映司と優菜は並んだまま、奥の部屋の戸口を見つめていた。
開けっ放しの戸口の向こうに、ベッドがある。かまどの火の灯りが届くのはその輪郭までだが、輪郭だけで十分だった。一台。誰がどう見ても、一台である。
昨夜、これと同じ状況で、二人は結論を出さないまま壁際へ座り込んで眠ることを選んだ。そして今夜、また同じ状況を目の前に、突っ立っていた。この一日で生活は随分と前へ進んだはずなのに、この一点だけが昨日から何も変わっていない。
「その前に、シャツ縫っちゃうね」
この微妙な空気を変えるためか、先に動いたのは優菜だった。壁際の小さな卓へ寄って、畳んであった映司のシャツと、鞄の中からソーイングセットを取り出す。
「ちょっとだけ待ってて。すぐ終わるから」
言うなり、かまどの火に一番近い椅子へ腰を下ろして、針を通しはじめた。肩口の裂け目を指で合わせて、端から縫っていく。
映司はもう一脚の椅子を引いて、向かいへ座った。だが、座ったからといって、話題が変わるわけでも問題が解決するわけでもない。結局、話す内容は昨夜とほぼ同じだ。
「ベッドは優菜が使ってくれ。俺は──」
「だめ」
「まだ何も言ってないんだけど」
「どうせ『俺は床でいい』でしょ?」
針は止めずに、目だけこちらへ上げてくる。
「……そうだけど」
「ほらー」
どこか呆れたような顔で、優菜は針を進めた。台詞を言い終える前に負けるとは、思っていなかった。
昨夜もこの配置で同じ話をしていた気がする。違うのは、二人ともこの話の結末を一度見ていることだけだ。
言い終わる前に返事が来るし、返す側も理由まで先回りされている。二往復目で音を上げかけたのは、映司のほうだった。
「じゃあどうすんだよ。今日も二人並んで壁に寄りかかって寝るのか? ベッドがあんのに」
「うーん……それも、そうなんだけど」
優菜は糸を引きながら、返事を濁した。濁したまま、針は進んでいる。
解決策は、映司の側にあった。正確には、答えの半分だが。
映司は言った。
「二台目、作るからさ。確か、廃材余ってる家があっただろ? 今からそこで材料探してベッドをもう一台作れば──」
「だめ」
優菜は映司が言い終わらないうちに否定した。
「外、真っ暗なんだよ? またあの狼みたいなのが出たら、どうするの?」
手元の針が止まった。今度は目だけでなく、顔を上げてこちらをじっと見ている。
それはそうだ。閂の外は月明かりだけで、夜目の利かない人間が自由に探し物をできる状況ではない。それに、もし魔物と遭遇したとて、まともに戦えないだろう。夕方戦った時よりも遥かに苦戦するだろうし、むしろこの暗闇の中をあの速度で動かれたら、対処できる気がしなかった。
それに、正直なところ、外へ出る以前の問題もある。
「まあ……ほんとのこと言うとさ。実は、俺も今日はもう限界なんだよな。気力も体力も魔力も。正直、今からベッドを作れるかっていうと、怪しい」
さっきは強がってみせたが、正直に観念する。これが本音だった。
魔剣を作り、家を一軒丸ごと浴室小屋に作り替え、そこから六匹の魔物との戦闘と、新たなスキルを使用。寝たから大丈夫、と調子に乗ってスキルを使いまくったが、実際それらが積み重なって、体の重さになって背中に張りついている。素材集めに歩き回るどころか、詠唱の一行が最後まで持つかも怪しかった。
優菜は眉を顰めて「だと思った」と溜め息を吐いた。
「だから、絶対にだめ。今日はもう休も?」
「……わかった」
優菜の「絶対に」には、断固たる決意を感じた。これを押し切るのは相当に難しそうだ。それに、押し切ってベッドを作ろうとしたところで、自分の間抜けな死体が転がっていそうな気もする。
(そうなると、二台目は明日の朝いちで作ることになるけど……)
廃材は六軒目に十分あるし、魔剣のおかげで代償も軽い。石一つ井戸に足すよりは手間だが、家一軒を風呂にしたのと比べれば、寝台一台くらいは朝飯前だ。それで、明日から先は片が付く。
問題は、今夜だ。明日作ると決めたところで、今夜のベッドが二台になるわけではない。
「できた」
優菜が糸を切って、シャツを広げた。
裂け目は二箇所とも、縫い目の細い線に変わっている。血の色は水洗いで薄まりきらず、肩口に淡い染みとして残っていた。
「これで大丈夫だと思う。……染みは、ごめんね。落としきれなくて」
「十分だ。助かる」
受け取って、袖を通す。二度縫われたシャツは、また少し縮んだような気がした。この三日で、裂けては縫われ、汚れては洗われ、一枚の布にしては働きすぎている。
それでも、肩に手拭い一枚で夜を迎えるより、よほど人間らしい格好だった。着るものが一枚戻っただけで、背筋の伸び方まで変わるのだから、服というのは大したものだ。
ボタンを留め終えると、優菜がソーイングセットを鞄の中へ戻して、こちらへ向き直った。表情が、少しあらたまっている。
「あのね……床で寝るのは、やっぱりよくないと思う」
「どうして」
「起きたらお尻、凄く痛かった。首も痛いし、肩も凝っちゃったし。その前が荷馬車だったっていうのもあるかもしれないけど、実は今日、ずっと身体中痛くて……」
言いながら、優菜は片方の肩を小さく回した。今朝、村を歩きながら何度もそうしていたのを、そういえば見た気がする。納屋で桶を覗き込んだ時も、狩人の家の棚を漁っていた時も、合間合間に手が肩へ行っていた。気づいていながら、理由まで訊かなかったのは映司の落ち度だ。
映司は小さく溜め息を吐いた。
「……お前もか」
「うん。映司くんもでしょ?」
「まあ、な……」
昨夜の意地の代償は、この体がしっかりと覚えていた。
今朝、映司も首と腰が固まっていて、立ち上がるまでに二度も体勢を変えなければならなかった。固い壁に凭れたまま眠るのは、夜行バスで寝るよりも遥かに苦痛だ。昨夜は疲れきっていたから落ちるように眠れただけで、あれを毎晩やれと言われたら、結構きつい。
優菜はそれきり、口を挟まなかった。テーブルの向かいで両手を膝に置いて、何かを思案するように俯く。
映司の頭は、勝手に先を計算しはじめていた。
(つか、まあ……今日は乗り越えたけど、明日またモンスターが出ないとも限らないよな)
この村には、いま水がある。井戸にも、水路にも、清まった水で満ちていた。獣にとっても魔物にとっても、それは同じ意味を持つはずで、匂いを辿って寄ってくる客がいない保証は、どこにもなかった。
望まぬ来訪者が来たとき、前に立つのは映司だ。
(でも……もしその時、寝不足で判断が遅れたら? 反応が遅れたら? それで死ぬのは、あまりにバカバカしいだろ……)
今日の魔狼だって、〈遺失装纏〉が目覚めてくれたから何とかなっただけだ。ただ運がよかっただけなのである。
ただ、運だけでこれからを乗り切ろうとするのも、あまりに浅慮。魔剣も装纏も、動かない体では鉄と肉の塊でしかない。土壇場で足がもつれて終わるのは、間抜け以外の何者でもなかった。
(いや、俺が間抜けで済む話じゃないな。俺が死んだら……優菜はどうする。こんな場所に、優菜をひとりで残せるか? それこそ無理だろ)
曲りなりにも、弱いなりにも、彼女を守ると言った。そう言った以上、寝るのも仕事のうちである。そう考えるのが、たぶん正しいはずだ。正しいのだが──。
ちらりと、向かいへ目をやった。
優菜は何も言わず、かまどの火をぼんやりと眺めたまま、アンニュイな表情を浮かべていた。
(ただ、そう結論付けたところでベッドが一個しかないのは変わらないんだよなぁ……)
自分で並べた理屈が、自分の逃げ道を一つずつ塞いでいった。床は駄目、二台目は明日、寝ないとダメ、でも寝台は一台。数えるまでもなく、詰んでいる。
沈黙が、続いた。
かまどの熾がひとつ爆ぜて、天井の梁に薄い影が跳ねる。
(どうする? どうすればいい?)
腕を組んで、唸る。合理で押していけば、たいていの問題はどこかで割り切れるものだ。しかし、今回だけは割り切れずに余りが出てしまっていた。
「…………」
「…………」
優菜はかまどからちらりと奥の部屋を見やった。
それから何かを言おうとして、また口を噤む。膝の上で自身の指先を弄び、また俯いた。何かを言い出そうか悩んでいるように見えなくもない。
そんなまま数分が経って──遂に、優菜が沈黙を破った。
「映司くん」
「ん?」とこちらが顔を上げると。
幼馴染が、とんでもないことを言った。
「……一緒に寝よ?」
声は小さい。迷った末に出た言葉。
いや、恐る恐るといった様子で、何とか絞り出したみたいな声だった。
しかし、それでも言い直さない。
「お前、一緒にって……」
熾がまた、小さく爆ぜた。それが返事の代わりになるほど、映司は何も言えなくなっていた。
今日はこれで何度目だろうか?
歯ブラシ、昔みたいに一緒に入る、同じ匂い、そして一緒に寝る。
この幼馴染は、今日一日で何度こちらを殺しにくるのか。魔狼のほうが遥かに優しく見えてきた。
ニュアンスとしては、『また、一緒に入ってみる? 昔みたいに』と近い。
だが、それとは明確に異なることが、ひとつだけあった。
彼女の声に、笑いや誤魔化しの成分が混ざっていないのだ。
お風呂の時は、こうして映司が困るとすぐに冗談だと言ってくれたけれど、今回はそうやって撤回する気配がない。
どうにか、常識の側から言葉を拾い上げた。
「俺たち、男と女なんだぞ? さすがにそれは──」
「でも、そうしないとこの話、終わらないよ?」
優菜は映司の言葉を遮って言った。
声は震えていたが、撤回する様子はない。
どうやら、本気のようだ。
「……それは、そうだけど」
言って、優菜から目を逸らす。
ぐうの音も出なかった。
そう。この話を終わらせる唯一の選択肢が、まさしくそれだ。
頭のどこかでは、それがちらついていたのも事実。
昨日、床で一緒に寝たのだから、と。
でも、床で一緒に寝るのと、男女がベッドで同衾するのでは、意味が変わってくるのではないだろうか。
ベッドで男女が一緒に寝ることの意義を、高校生になって知らないわけがない。如何にこういうことに無頓着そうな優菜でも、さすがに知っているはずだ。
優菜の表情が、それを物語っていた。
「映司くん……」
優菜が、おそるおそるといった様子でこちらを見上げた。
顔は、熾の色を差し引いても真っ赤だ。声の震えも治まっていない。
今にも涙が零れ落ちそうなくらい、その瞳は潤んでいて。いつもの冗談なら、きっとここで笑って、うそうそと手を振るはずなのに。
それらが出てくる様子は、全くなくて。目尻に溜まった涙が落ちないように、瞬きさえ堪えているようだった。
「映司くんは……嫌?」
「え?」
何かを誤魔化すように、訊き返す。
何が嫌かどうかなど、わかっていた。
でも、それを自分から言う勇気がなくて。
彼女に、言わせてしまった。
「私と一緒に、寝たくない……?」
今にも泣きそうな声で、優菜はそう訊いてきた。
その眼差しは真剣で、冗談の欠片もなくて。
物心つく前から彼女のことは見ていたはずだけど、彼女のこんな顔を、初めて見た。
冗談でもからかいでもないことが、わかってしまう。だからこそ、もう映司も、嘘を吐けなかった。
「……そんなことは、もちろんないけど」
少しの沈黙のうち、答えた。
そう。それが本音。
だから、バスで隣に来た時も、一緒についてくると言った時も、床で一緒に寝ると言われた時も。
一度も、彼女を拒まなかった。
「私も」
短く、優菜が返した。
それきり、また沈黙が戻ってくる。熾の音だけが、土間に小さく続いていた。
その中で、映司は自分の理屈をもう一度並べ直そうとして、やめた。
並べたところで、答えは変わらない。変えたくもない、というのが正直なところだった。
「じゃあ……一緒に、寝るか?」
「……うん」
その短いやり取りの後に、また静けさが落ちた。
優菜が椅子から立ち上がる。頬はまだ赤いままで、けれど涙は落ちなかった。落ちる代わりに、目尻が少しだけ緩んでいた気がする。それを安堵と呼んでいいものかどうか、映司にはわからなかった。
映司も立って、熾の前をゆっくり横切る。
奥の部屋の戸口が、二人の前にあった。昨夜、結論を出せずに背を向けた戸口。
今夜は結論を出して──二人ともそこへ向かって歩いていた。




