第18話 一本しかない歯ブラシ
鍋の肉を平らげて、ごちそうさまも声が揃った。片付けは、鉢と鍋、それから優菜の箸代わりの棒は、水袋の水でゆすいで終わりである。映司は脂で手がベタベタだったので、ついでに石鹸で手も洗った。洗い物が少ないのだけは、この暮らしの利点だ。水袋の中身は空っぽになってしまったが、水なら外にいくらでもある。これも、この場所の利点だろう。
優菜がポーチから細長い物を取り出した。歯ブラシと、小さな歯磨き粉のチューブだ。しおりの持ち物リストは、ここでも仕事をしていたらしい。
「あ、歯磨きしなきゃ。……えっと、外だよね。お水」
「だな」
空っぽの水袋をちらりと見て、映司は壁に立てかけた筵包みの魔剣を掴んだ。
戸口へ向かった優菜の足が、扉の前で一度止まる。視線の先は、夕方に灰色の草が割れた方角だった。
何も言わずに、優菜を追い越して先に敷居をまたいだ。
「映司くんも来てくれるの?」
「いや、まあ……夜空を見るついで、かな」
「……剣を持って?」
「剣を持って」
我ながら、苦しい言い訳だ。背中越しに、優菜が小さく笑った。
「……ありがと」
「何がだよ」
「んー。内緒っ」
理由を言わずに済ませたつもりだったが、この幼馴染には大抵そういうところだけ通じてしまう。
外は、よく晴れた夜だった。月が半分より少し太って、井戸端の石畳をぼんやり照らしている。夜気は素肌に涼しかったが、湯上がりと夕飯の火照りには、むしろちょうどよかった。
井戸端に着くと、優菜は縁から水を掬って、歯を磨きはじめた。しゃこしゃこという生活の音と、水路を走る水の音だけが、夜の広場に並んでいる。
映司はその横で、魔剣を杖のように立てて、山側へ体を向けた。遠吠えの主はもう殲滅したのか、今夜は聞こえない。星は夕方より数を増していた。
そういえば、昨日は歯磨きの話にもならなかった。疲れ切っていて、それどころではなかったのだろう。食後の歯磨きの習慣をぱっと思い出すあたり、優菜も少し余裕が出てきたのかもしれない。
磨きながら、優菜の視線がちらりとこちらへ流れた。正確には、映司の手元へ。歯ブラシを持っていない、手ぶらの右手へ。
(俺も歯を磨きたいけど……鞄の中だからなぁ)
歯ブラシも歯磨き粉も、王宮に置き去りにされた鞄と一緒である。どちらのお部屋の分でしょう、と訊いてきたあの侍従は、今頃あの鞄をどうしているのだろうか。まだ残っているなら、いつか回収しに戻りたいものだ。
歯ブラシも宿題行きだな、と頭の隅のリストへ書き加えていると、優菜が口をゆすぎ終えた。
それから、歯ブラシを井戸の水で洗いはじめる。
その洗い方が、やけに丁寧だった。毛先を指で開いて、水を通して、また閉じて。几帳面なやつだ、と映司は思った。歯ブラシの手入れにここまで時間をかける人間を、初めて見た。
洗い終えてからも、優菜はすぐには動かなかった。歯ブラシを一度手の中で持ち替えて、柄のほうをこちらへ向ける。目は、水路のほうを向いたままだった。
「これ……よかったら。私の使った後で、嫌かもだけど」
「はい!?」
あまりの予想外過ぎる幼馴染の提案に、声が裏返った。
差し出された歯ブラシと優菜の横顔を、何度も見比べる。見比べたところで、事態は変わらなかった。
「い、いや……俺じゃなくてさ。お前は、嫌じゃないのか?」
長めの間が空いた。井戸と水路の水音だけが、二人の間を流れていく。
「映司くんだったら……いいよ? それに、虫歯になっちゃうし」
そこで、また映司は固まってしまった。
いいよ、って、何が? 歯ブラシの共用? でも、それって間接キスになるのでは?
そんな色々な思考が巡るも、彼女がいいと言っているならば、断る理由もない。
「じゃあ、えっと。お借りします」
「ど、どうぞ」
受け取ると同時に、優菜がちらりとこちらを見た。目が合う前に、視線はまた水路へ戻っていく。
何故か二人とも敬語になっていた。歯ブラシ一本で、日本語がおかしくなるとは思いもしなかった。
実際、虫歯になったら、この世界に歯医者はいないので──聖女ならば治せるのかもしれないが──困るのも事実。それ以前に、口が臭くなって優菜に嫌がられたら、もっと困る。理屈をこねているうちに、手はもう歯磨き粉のチューブまで受け取っていた。
毛先に歯磨き粉を載せる段になって、指が少し震えた。ついさっきまで彼女の口に入っていた物を、これから自分の口へ入れるのだ。
(ええい、ままよ!)
水をかけた勢いのまま、磨きはじめる。
磨きはじめて、すぐに気づいた。優菜が、じっとこちらを見ている。
井戸の縁に腰かけて、両手を膝に置いて、完全に観察の姿勢だった。目線が、映司の口元から動かない。歯の磨き方を採点でもされているのだろうか。
奥歯、前歯、磨く順番まで意識してしまう。歯磨きでこれほど緊張したのは、人生で初めてだった。
ゆすぎ終えると、優菜が身を乗り出した。
「どう……?」
「どうって……よく、磨けました」
「そういう意味じゃ、ないんだけどなぁ」
優菜はどこか呆れた様子で言った。
「へ? じゃあ、どういう意味で……?」
「なんでもないよ。気にしないで」
眉を下げて笑って、肩をすくめる。それから、映司の手の中のチューブへ目を落とした。
「歯磨き粉とかも作れるのかな?」
「どうだろう? なくなってみないと何ともだな。トリートメントとシャンプーも、ボトルがなくなってからようやく反応したし」
「映司くんのスキル、なんだか面白いね」
「なくならないと反応しないでやんの。不便なスキルだよ、全く」
便利の塊のような顔をして、肝心なところで出し惜しみをする。持ち主としては文句のひとつも言いたくなるが、その不便を埋める相棒が優菜だ。これのお陰でこの生活も成り立っているので、文句は控えめにしておこう。
借りた歯ブラシを井戸の水で洗って、返した。
「助かったよ。ありがとう」
「……ど、どういたしまして」
受け取る優菜の返事が、一拍だけ詰まっていた。
そして、指のほうは、心なしか早かった。月明かりでもわかるくらい、耳が赤い。夜気で冷えたのだろうか。それにしては、湯上がりの火照りが残る夜だった。
深く考える前に、優菜はもうポーチへ歯ブラシを仕舞って、家のほうへ歩き出している。映司は魔剣を担ぎ直して、その半歩後ろへついた。
家へ戻ると、かまどの火を熾だけ残して落とした。土間の灯りが、ひとまわり小さくなる。異世界の夜には、スマホもPCもテレビもないので、とにかくやることがなかった。あとはもう、寝るだけである。
「そろそろ寝よっか。明日、遠出するんだもんね」
「ああ」
優菜が戸口の扉を閉めて、閂を下ろした。木の落ちる音が、今夜も頼もしく響く。
響いたところで、二人同時に固まった。
(……忘れてた)
ベッドを作っていない。奥にあるのは、まだ一台きりだ。さっき隅っこに押しやったはずの宿題が、ひょっこりと顔を出していた。
「あっ……」
「……言うな。俺も今、思い出した」
風呂を作り、魔物を倒し、明日の予定まで決めた男が、二日続けて同じ問題の前で止まっていた。




