第17話 初めての食卓
映司の限界は、肉の焼ける匂いの前で、あっさりと撤回された。
かまどの上の鉄鍋が、じゅうじゅうと威勢のいい音を立てている。獣臭さより先に、焼けた脂の香ばしさが土間へ満ちていた。優菜が手拭いを鍋掴み代わりにして、鉄鍋ごとテーブルの真ん中へ運んでくる。
その途端、腹の虫が盛大に鳴いた。
「あ、お腹鳴った。今の、映司くんのお腹だよね?」
「……気のせいだろ」
「気のせいでお腹は鳴らないよー」
優菜が可笑しそうに笑って、向かいの椅子へ腰を下ろした。昨日の夜は、二人の腹が同時に鳴いたのだ。今夜は片方だけ負けた気分になる。
テーブルの上には、花模様の鉢がひとつ。それが、この家の食器の全戦力だった。
(あー……そういや三軒目のとこに、割れた甕の欠片があったっけな。直せば器になったかもしれないのに……あの家ごと、風呂にしちまったんだった)
自分の選んだ風呂が、めぐりめぐって今夜の器不足を生んでいた。世の中はうまくできているものだ。
「鉢はお前が使えって。俺は鍋から食うから」
「えー? それだと映司くんが行儀悪い人みたいじゃない?」
「行儀の話をするなら、もう俺は十分悪いからな」
「どうして?」
優菜がきょとんと首を傾げた。
本当に心当たりがないらしい。
「上裸で飯を食ってる」
「……あ。ほんとだ」
「今気づいたのかよ」
シャツは今、壁際の小さな卓の上で優菜の針を待っていた。肩の手拭い一枚で食卓に着く男を前に、この幼馴染は今の今まで気にも留めていなかったらしい。もう慣れたのだろうか。気にされないのはありがたいような、それはそれで複雑なような。微妙な気分だった。
いただきます、と声が揃った。異世界へ来て三日目にして、初めて言う余裕のできた言葉だった。
箸もフォークもないので、二人とも手づかみで食べることになる。行儀の悪さでは、実のところいい勝負だ……と思っていたのに。優菜は不揃いな長さの細い棒を二本、取り出した。
そして、それを箸代わりに器用に肉を挟む。
「ずりぃ……」
「映司くんがお風呂に入ってる時に見つけたの。いいでしょ? 今度映司くんのも探してあげるね」
優菜は得意げに言うと、先に肉の欠片を口へ運んだ。そして、動きを止める。
「…………」
釣られて齧った映司も、止まった。
「…………」
二人して、顔を見合わせる。
「……美味しい」
「ああ。美味いな」
焼いただけの肉が、これほど美味い理由は、たぶん半分が空腹で、もう半分が二日ぶんの疲れだ。それを差し引いても、噛むたびに脂の甘みが出てくる。魔狼、というのは存外いい飯だった。
ただ、食べ進めるうちに、気になってくるものもあった。味が、薄いのだ。
「美味しいけど、お塩がほしくなっちゃった」
「俺と同じこと思った」
「あと、やっぱり獣臭いね。胡椒とかあったら、もっと美味しくなるのに」
優菜が箸代わりの棒で鉢の上の欠片をつつきながら、鼻に皺を寄せた。言われてみれば、後半になるほど獣の匂いが舌に残る。塩でも胡椒でも、ひと振りできるものが欲しかった。
「塩ってどこで手に入るんだろうな」
「海とか岩塩じゃない?」
「この辺にあるとは思えないなあ」
「じゃあ、お塩も宿題だね」
優菜がこともなげに言った。宿題、という単語の軽さに、乾いた笑いが出る。
「宿題ばっかり増えるな、この生活」
美味い、の次に出てくる言葉が足りないものの名前になるあたり、人間というのは強欲である。
肉はまだ鍋に残っていた。五頭ぶんの在庫を思えば、量の心配は当分ない。だが、肉が続くと、口は別のものを欲しがりはじめる。優菜が欠片を呑み込んでから、遠い目をした。
「お肉もいいけど……お野菜が食べたいなぁ。サラダとか」
「言うな。俺まで食いたくなる」
シャキシャキしたキャベツやレタス。トマトの酸味。想像した途端、口の中が忙しくなった。
ないものを数えるほど、腹の底の欲は正直になる。
「畑、あったよね。あそこ、浄化したら使えるようにならないかな?」
「魔力使って浄化しても、種がないだろ」
「あっ、そっか」
「何が起こるかわからないし、できるだけ魔力は温存しといた方がいいよ。畑は、順番としては後回しかな」
水脈そのものを浄化した、あの光の柱。彼女はけろっとしていたが、魔力の消費量は相当だったはずだ。畑一面も清めるとなれば、どれほどの魔力を持っていかれるか読めない。そこまでやって、蒔く種がないのでは笑い話にもならなかった。
それに、いつまた魔物が出てくるかわからない。魔狼の力を得たとはいえ、もっと強い魔物が出てきたら、否応なしに優菜の力は必要だ。
「じゃあ、やっぱり森に行くしかないね。食べられる草とかあればいいんだけど」
「山菜みたいなのがあればなぁ」
「宿題、また増えたね」
「……宿題しかなくないか?」
一日の終わりに宿題が増えていく感覚は、修学旅行前の課題を思い出させた。あの頃と違うのは、提出先が自分たちだということだけだ。
と、そこで思い出した。宿題の中に、答えの出かかっているものが一つある。
「あ、そうそう。シャンプーとトリートメントの件だけどな。空になったボトルを査定したら、薬草と香草の名前が出てきた」
「ほんとに!? じゃあ、作れるの?」
「全く同じ物は無理っぽいけど、近いのは作れるらしい。石鹸に匂いがなかったのも、要するに香草が足りてないだけだった」
「やった……!」
優菜が鉢を持ったまま、椅子の上で小さく跳ねた。髪を切る話が出た夕方を思えば、この喜びようも当然ではある。
ただ、浮かれた話だけでは終わらないのが現実だった。
「でも、名前を聞いても俺がどの草か見分けられないからなあ。俺の査定スキルは、役目を終えた物にしか反応しないんだ。生えてる草に触っても、たぶん何もないと思う」
名前だけ知っていて、顔を知らない相手を森で探す。分の悪い捜し物だ。
腕を組んで唸っていると、向かいで優菜がぱっと顔を上げたた。
「……あっ。それなら、私の出番じゃない?」
「どういうこと?」
「ほら、あの魔石。魔力があるかもって、私、気づいたでしょ? 草でも、同じことができるかも。香りとかもいい匂いする草があったら、採っちゃって映司くんに査定してもらうえば使えるかわかるかも」
「……なるほどな。優菜が見つけて、俺が確かめる、か」
狩人の家の棚で、ただの石ころから魔石を掘り当てた実績がある。草の良し悪しも、あの鼻と勘なら拾えるかもしれない。
採ってしまえば草は『摘まれた物』だ。それなら、映司の査定スキルも反応する。
「うんっ。とりあえず、それで試してみよ?」
「じゃあ決まりだ。明日は森に行こう。食える草と香草と、ついでに石と枝を拾ってくる」
「石と枝?」
「食器と包丁の材料。あるといいなって話だけどな」
塩の当てだけは立たないが、それ以外の宿題は、森という一箇所にまとめて置いてあることになる。夕飯の途中で、明日の予定がひとつに束ねられた。
明日やることが決まっている。それだけのことが、今の二人にはやけに贅沢だった。
……何だか他にも宿題があった気がするが、まあ気のせいだろう。
これだけ既に宿題が多いのだ。これ以上増やす必要もない。




