第16話 髪と、匂いと
しばらくの衣擦れの後、扉が開いた。
湯気と一緒に出てきた優菜は、学校の体操着姿だった。上はジャージ、下はハーフパンツ。修学旅行中の夜間着として指定されたものだ。濡れた髪をタオル代わりの手拭いで肩に流して、頬が上気している。血と埃を落とした顔は、この二日で一番つやつやしていた。目のやり場に困って、映司は空の星へ視線を逃がす。
優菜はにこっと笑って、手元のポーチを映司に手渡した。
「はい、これ。シャンプーとトリートメント。よかったら使って」
「いや、俺は石鹸でいいから、お前が使えよ。残り、少ないんだろ?」
「私、髪長いから……もうその量じゃ足りないの」
差し出されたポーチごと受け取ると、中の小さなボトルは二本とも、振るまでもなく軽かった。映司の髪ならともかく、腰まである髪には、確かに心許ない量だ。
優菜は自分の濡れた髪をひと房つまんで、困ったように笑った。
「こんな状況だし、もう髪も切っちゃった方がいいのかな……」
「──ダメだ」
考えるより先に、口が出ていた。
「え?」と優菜が顔を上げる。
彼女の目を見据えて、映司は続けた。
「切らなくていい」
映司が物心ついた時にはもう、優菜の髪型はこれだった。毎朝手入れをして、雨の日は膨らむと怒って、プールの後は乾かすのに三十分かけていた。こだわりに鈍い映司でも、それくらいは知っている。
そのこだわりを、自分についてきたせいで捨てさせる……それだけは、許せなかったのだ。
「でも……石鹸だとバサバサになっちゃうし」
「このトリートメントとシャンプー、使い切った後なら、もしかしたら俺のスキルで材質とかわかるかもしれないから。それがわかれば、似たようなの作れるかも。完全に同じのは無理かもしれないけど……何とかするから」
保証など、どこにもない。根拠は、〈遺失査定〉の癖ひとつだけだ。中身が残っているうちのボトルはまだ役目の途中で、〈遺失査定〉はおそらくろくに喋らないだろう。しかし、空になれば、話が変わってくる。もしかしたら、が起こる可能性もあった。
映司の言葉に、優菜がくすっと小さく笑った。
「出た。映司くんの『何とかする』」
「保証はないけどな」
「うん……でも、嬉しい」
言葉通り、優菜は嬉しそうに目を細めて、ポーチを映司の手へ押し戻した。それから、こちらの肩口へ目を留める。
「あ、それとシャツ。お風呂のあいだに洗って縫っておくから。貸して?」
「……ああ、頼む」
ボタンを外して脱ぐと、肩口と腕の裂け目が改めて目に入る。
血と泥の染みたシャツを、優菜は嫌な顔ひとつせず受け取って、丁寧に畳んだ。昨日は映司の上裸を見て顔を赤くしていたくせに、もう慣れたのか、あまり気にしていないらしい。
優菜が何かを思い出したように、ふと顔を上げた。
「……映司くん、今でもロングの方が好きなんだ?」
「え!? 何故にそんな話に!?」
今でも、という言い方に引っ掛かる。
確かにロングの方が好きだが、どうして彼女が知っているのだろうか?
優菜は悪戯っぽい顔で、映司の疑問に答えた。
「だって小さい頃、ショートとロングどっちがいい? って訊いたら、『長い方』って言ってたし」
「覚えてねえ……」
記憶を漁っても、そんな質問に答えた覚えはなかった。
ただ、言いそうではある。当時から優菜の髪は長かったし、実際に長い方が似合っていると思っていたから。
(ん? 待てよ? もしかして……優菜が髪を伸ばしてるのって……!?)
はっとして顔を上げると、優菜も「あっ」と自分の口を押さえた。
目が合った。合ったまま、どちらも動けない。
「え、えっと。私、家の方で夕飯の支度してくるね? 私が小屋の前にいたら、落ち着かないだろうしッ」
優菜は畳んだシャツと着替えの束を抱え直すと、そそくさと、ほとんど小走りで家のほうへ行ってしまった。
手拭いの端が肩から落ちかけているのにも、気づいていない。
その背中を見送って、映司は誰もいない広場へ呟いた。
「……マジ?」
答える者は、湯気しかいなかった。
(い、いや、まあ。早とちりはよくないな。話半分に聞いておこう)
何とか気を取り直して、映司は小屋へ入った。
ひとりぶんの広さに、湯気が満ちている。かかり湯をして、まず石鹸で体を洗った。匂いはないが、汚れはちゃんと落ちる。
血と泥と、二日ぶんの汗が石の床を流れていった。爪を掠めた肩には、傷痕ひとつ残っていない。
縫い目のない皮膚を撫でて、扉の向こうの主治医に、心の中で頭を下げた。
それから、宣言どおりの仕事に取りかかる。シャンプーを最後の一滴まで頭で使い切り、トリートメントも指で掬いきった。髪を洗う工程にここまで真剣になったのは、人生で初めてである。
空になったボトルを二本、桶の縁へ並べて指を当てた。
すると、中身のあるうちは素っ気なかった〈遺失査定〉が、途端に饒舌になる。成分の見立てがひとしきり流れて、最後の一行が来た。
『完全な再現は不可。ただし、この地の薬草と香草にて、近似品の作製は可能』
空になった容器が、中身のあった時より多くを喋った。
しかも、薬草名と香草名まで出てくる。
「……使い切ったら喋るのかよ。難儀な性格してんな、このスキル」
役目を終えた物にしか、〈遺失査定〉は口を開かないらしい。石鹸に香りがなかった理由も、これで片が付いた。要は香草が足りないのだ。
ボトルを拭いてからポーチに仕舞い、湯舟に入った。
湯に肩まで沈むと、今日一日の重さがそこでようやく体に届いた。家を風呂にして、魔物六匹と殺し合って、脚を作り替えられて、扉越しに人生最大級の爆弾を落とされた。二日目にしては、盛りだくさんが過ぎる。
「薬草と香草、か。明日は山にでも行ってみるか……いや、まずは畑の方から何とかするか? 肉もそんなに多いわけじゃないからなぁ」
言ってから、また保証のない仕事を増やしたことに気づいた。今日中の風呂、髪のことも何とかする、次は薬草。安請け合いの前科が着々と積み上がっている。
まあ、今日中という約束は守れたのだ。次も何とかなるだろう。そう信じるしかなかった。
のぼせる前に湯から上がって、手拭いで体を拭いた。制服ズボンを穿いて、肩に手拭いをかける。上は裸。シャツはいま、優菜の手の中だ。
(……俺の着替えも、早いところ何とかしないとなぁ)
宿題をもうひとつ積んで、映司は家へ向かった。
戸口をくぐると、かまどの火が土間をオレンジに染めていた。優菜がかまどの前にしゃがんで、鉄鍋の上で肉と格闘している。塊が大きいせいで、苦戦しているようだ。刃物らしい刃物がないから、手で千切れる大きさまで削ぐのに苦労したらしく、鍋の縁には不揃いな欠片が並んでいた。包丁も、明日からの宿題リスト行きである。
トリートメントの目星がついたことを話そうと、映司は口を開きかけたその時。彼女がこちらを振り返った。
「あっ、映司くん。お風呂、どうだった?」
「ああ。最高だったよ。やっぱ日本人に風呂は必須だよなぁ」
優菜の声は、いつもの調子に戻っていた。
扉越しの湿った声も、逃げ出した小走りも、ひとまず仕舞われたらしい。安心して、映司も土間へ上がった。
そこで、ふいに優菜が肉の削ぎ作業をやめて、立ち上がる。そのまま、すっとこちらへ寄ってきた。
どうしたのかと思えば、映司の耳元へ鼻を寄せて、くんくん、と匂いを嗅ぐ。そして──。
「……私たち、今同じ匂いしてるね?」
恥ずかしそうに、でもどこか悪戯っぽくそう耳元で囁いて。
こちらの返す言葉は、全滅した。
同じシャンプーで、同じ湯である。当たり前だ。当たり前なのだが、当たり前を言葉にされると破壊力が違う。
魔狼六匹より、この一言のほうがよっぽど効いた。廃村生活二日目、最大の被害である。
「えへへ。ご飯もうすぐできるから、待っててね」
はにかんで言って、優菜は何事もなかったようにかまどの前へ戻っていった。鼻歌まで聞こえる。
(お前……絶対わざとだろ)
壁際に腰を下ろして、映司は天井の梁を見上げた。
薬草の話も食料の話も、後でいい。
今日はもう、色々と限界だった。




