第15話 異世界で、初お風呂
湯が沸くまで、映司の手は空いていた。
焚き口の火は優菜の〈聖火〉が面倒を見てくれているし、桶の水はただ待てば温まる。優菜は着替えを取りに家へ戻っている。ならばこの時間で、宿題を片付けておきたかった。タオルと、石鹸である。
まず、家から麻袋を持ってきて、中の非常食を棚へ移した。それから〈遺失庫〉を開いて、魔狼の脂の塊をひとつ取り出す。かまどから掬ってきた灰と並べると、頭の隅で記憶が繋がった。中学の理科だ。油と灰汁を合わせると、石鹸ができる。確か、そんな実験をやった。
半信半疑でいると、査定が魔剣の時と同じ返し方をした。
『進化先:石鹸』
理科の記憶は正しかったらしい。詠唱を口の中で転がすと、光の粒子が脂と灰を混ぜ合わせて、白っぽい塊が四つ、石畳の上に整列した。指で押すと硬さは十分。ただ、鼻を寄せても匂いがしない。無臭の石鹸である。贅沢を言える立場ではないが、少し味気なかった。
続けて、空にした麻袋へ手を置く。三日で音を上げると言われて投げ渡された、あの袋だ。中身を移した今、こいつの役目は終わっている。査定の最後の一行が、いつかの金属片と同じ形で来た。
『元は、運ぶための物。今は、役目を持たない』
なら、次の役目をやればいい。詠唱をもう一度転がすと、袋がほどけて織り直され、麻の手拭いが四枚に生まれ変わった。ごわごわだが、拭く仕事はできる布だ。捨てるつもりで寄越された袋が、風呂上がりの布になった。悪くない再就職である。
石鹸と手拭いを抱えて立ち上がったところで、着替えの束と小さなポーチを抱えた優菜が戻ってきた。映司は石鹸をひとつ差し出しながら、先回りして頭を下げておくことにした。
「石鹸はできたんだけど……悪い。トリートメントのほうは、無理だった」
「へっ? トリートメント?」
「さっき何か言いかけてただろ。あれ、そういう話じゃなかったのか?」
「さっき……? あっ! ち、ちがっ……そうじゃなくてッ」
石鹸を受け取った姿勢のまま、優菜の顔がみるみる赤くなっていく。予想していた反応と、明らかに違った。
「じゃあ何だったんだよ」
「そ、それは……」
「それは?」
「……もういいよ。その。そんな大したことじゃないし」
恥ずかしそうに、顔を背けられてしまった。意味がわからない。
ただ、これ以上つつくと藪から何が出るかもわからない。
映司は手拭いを二枚、石鹸の上へ重ねて持たせるに留めておいた。
やがて、樋の栓を締めた桶から、湯気が立ちはじめた。焚き口の火を落とし気味にして、手を浸してみる。ちょうどいい湯加減だ。廃村二日目にして、風呂まで沸かせてしまった。
「…………」
ところが、当の優菜が動かない。着替えと石鹸と手拭いを胸の前で抱えたまま、開けた戸口の前で立ち止まっている。湯気と彼女の間に、見えない線が一本引いてあるみたいだった。
どうした、と訊くより先に、優菜が口を開いた。
「あの、さっき言いかけたことなんだけど」
「ん?」
「……ひとりでお風呂入るの、怖くて」
「ああ、なるほど」
そこでようやく、映司にも合点がいった。
広場の向こうには、ついさっきまで魔物がいたのだ。風呂に入れば裸になるし、さらき密室。頭を洗えば、目も塞がる。怖くて当然だった。ただそれを口にするのが、着替えまで抱えた段になっても恥ずかしかったらしい。トリートメントよりよほど大したことだと思うのだが。この幼馴染の基準は、時々わからない。
「ここにいるよ。閂も付けるか?」
「ううん。映司くんがいてくれるなら……大丈夫」
優菜は小さく頷いて、今度こそ戸口をくぐった。扉が閉まる。
映司は筵に包んだ魔剣を膝へ載せて、扉に背を向ける形で腰を下ろした。広場と山側の両方が見える位置だ。見張りの体裁は、これで取れている。
(まあ……どうせやることもないしな。ぼーっとしとこ)
そう思って、目を瞑る。
了承した時点では、簡単な仕事のつもりだった。
しかし──。
扉の向こうで、衣擦れの音がした。
布が肌を滑る音というのは、扉一枚を挟むと、どうしてこうも音量が上がるのか。
今、この扉一枚先で、優菜は霰もない姿に……。
(って、何を考えてるんだ、俺は!)
映司は姿勢を正して、空を見上げた。日の落ちきる手前の空に、気の早い星が出はじめている。
一つ、二つ、三つ。
無心で、それらを数え始める。
桶の湯を汲む音がして、それが肩から落ちる音に変わった。かかり湯だ。
四つ、五つ。
水音が跳ねるたび、数がわからなくなる。
六つ。いや、五つまで数えたっけか。
石鹸を泡立てる音。髪をすすぐ長い水音。数え直しだ。
一つ、二つ。
数える癖が、今日ほど役に立った日はなかった。変な想像に思考が走るのを、既の所で抑えられている。
やがて、湯がざぶりと大きく溢れる音がした。優菜が湯船に浸かったのだろう。
長い息が、扉越しにかすかに聞こえた。
「映司くん、ちゃんといる?」
「いるよ」
「……覗いちゃやだよ?」
「覗くか! 俺を何だと思ってるんだよ」
湯が小さく揺れる気配がした。笑ったらしい。
「ふふっ……。でも、小さい頃に一緒に入ったよね。覚えてる?」
「あー。そういやあったな」
小学校に上がる前だ。公園の水たまりで二人して泥だらけになって帰り、母親同士の判断で、まとめて風呂場へ放り込まれた。覚えているのは、泥を落とされながら二人でまだ笑っていたことと、その後の説教が長かったことくらいである。すると──。
「……えっち」
何故か、咎めるような言葉が扉の向こうから聞こえてきた。
「え!? これで俺が責められるの!?」
「だって、覚えてるんでしょ?」
「いやいや、殆ど覚えてねーよ!」
こちらの回想を読んだかのような一言だった。理不尽にも程がある。
「やっぱり、少しは覚えてるんだ? 私の裸とか」
「揚げ足取りかよ! そういう意味じゃねーからッ。入ったことは覚えてるって意味で、その内容まではさすがに覚えてねーよ」
しどろもどろで否定した。
仮にそれを覚えていたとしても、今と昔では全てが違うだろうに。
仮にこちらが見ていたとしても、映司のものも彼女に見られているわけで。オアイコである。
「そうだよね。ごめんごめん」
可笑しそうな笑い声が、湯の音に混ざって届いた。いつもと同じく、からかっているだけらしい。
膝の上の剣の重さも忘れて、肩の力が抜けはじめていた。
湯の音だけが、扉越しに続いている。それが、ふっと途切れて──。
「……また、一緒に入ってみる? 昔みたいに」
優菜の遠慮がちな問いだけが、聞こえてきた。
幼馴染の唐突な発言に、思考が止まる。
イッショニ? ハイル? ドコニ? オフロニ?
そこで単語が繋がって、ようやく意味を解する。
「はい!? 一緒に入るって、風呂に!?」
声が裏返った。
返事をしなければ、と思うのに、続きが出てこない。頭の中が白くなって、せっかく数えた星の数まで飛んだ。一緒に風呂に。誰と。誰が。何のために。
数秒の空白を、扉の向こうが先に埋めた。
「う、うそうそ! じょ、冗談だから。本気にしないで」
「そ、そっか。そうだよな。悪い、汲み取れなかった」
そこで、思わず安堵の息を吐く。安心したような、残念なような……少し、複雑な気持ちだ。
そこで幼馴染が、ぽつりと漏らした。
「……ううん。こっちこそごめん。ちょっとからかってみただけ」
からかったにしては、声が小さすぎた。
半分くらいは本気だったんじゃないか? そんな考えが頭をもたげて、慌てて押し込める。
今回は、確かめる勇気がないという話ではなかった。確かめたら最後、この扉を開けたくなる。それが怖かった。
映司は深呼吸をひとつして、星の数え直しに戻る。
沈黙が、長くなった。
湯の音が止まって、次に聞こえた声は、さっきまでと調子が違っていた。
「……映司くん」
「ん?」
「ごめんね……?」
唐突な謝罪だった。からかいの続きかと思ったが、声の温度がそれを否定している。
「何が」
「私、さっき……何もできなかったから」
さっき、という言葉にすぐに思い至る。魔狼戦の話だ。映司はすぐに返した。
「そんなことはないだろ」
「そんなことあるよ。結界もすぐに出せたのは一回だけだったし、攻撃も全然効いてなかったし……映司くんが戦ってくれてるのに、見てることしかできなくて」
優菜の言葉は、そこで一度途切れた。湯の面を指先で弄ぶような、小さな水音だけが続く。
「百年ぶりの聖女とか言われてたくせに……最低だよ」
声が震えて、湯が小さく鳴った。両手で顔を覆ったのかもしれない。
慰めの言葉を探して、やめた。この幼馴染は、上滑りした慰めなら黙って笑って呑み込んでしまう。必要なのは慰めではなく、事実だ。
映司は夜空から視線を下ろして、指を折りはじめた。
「いや、十分過ぎるくらいやってくれてただろ」
「そんなことない……!」
「あるよ。その結界スキルがなかったら、俺あそこで死んでたからな?」
扉の向こうは、静かなままだった。反論が来ないのを確かめて、続ける。
「それに、気弾で怯ませてくれたお陰で、最初の一匹目をやれたんだ。そいつをやれたからこそ、俺もスキルでパワーアップできた。その後も傷を治してくれて、肉も浄化して食えるようにしてくれて……その風呂の湯だって、優菜が浄化した水を、優菜が魔法で点けた火で沸かしてる」
折った指は、とっくに片手を超えていた。
一拍置いて、映司は駄目押しを足す。
「何もできてない奴にしては、やってることが多すぎないか?」
「…………」
それから、また沈黙。
返事までに、間があった。
「そういうこと言うの……ずるいと思う」
声が一度だけ涙で湿って、それを誤魔化すように、ぱしゃりと湯を叩く音が響いた。それきり、洟を啜るような音は続かない。堪えたようだ。
「でも……次はもっとちゃんとできるように頑張るね。足手まといになりたくないし……私だって、映司くんのこと、守りたいから」
「ああ……頼りにしてるよ」
俺が守ってやる、とは言えなかった。言えるだけの中身が、今日の自分にはまだない。結界に助けられ、気弾に助けられ、治してもらって、ようやく何とかなったのだ。
自分ひとりなら、もうとっくに死んでいる。
(俺だって……剛田や海斗みたいに戦える職だったらお前を守れるのにって、何回も思ったよ)
この世界で優菜の隣に立ち続けていいのか。本当は、あいつらの側にいた方が彼女は安全なんじゃないのか。今日の戦いで、その問いは前より重くなっている。
答えは出ないまま、口にも出さなかった。不安がっている彼女に、言っていいことではない。
「もう上がるね。付き合ってくれて、ありがとう」
「……ああ」
扉の向こうで、湯が一度、大きく鳴った。




