第11話 異世界で、ふたりきりの夜
湯を沸かすにも、器を洗うにも、水が要る。
夕方前、映司と優菜は水袋二つと直した鉢を提げて、井戸まで戻った。日は西の稜線へ向かって下りはじめている。水路の音は、昼と同じ調子で続いていた。
井戸の水は、縁のすぐ下まで来ている。手を伸ばせば届く高さだ。水袋の口を沈めると、袋の重くなっていく手応えが素直で、少し面白かった。
隣で袋を押さえながら、優菜が口を開いた。
「映司くん、覚えてる?」
「ん? 何が?」
「昔、壊れた玩具とか何でも直してくれてたよね」
「……そうだったか?」
唐突な昔話に、首を傾げる。
いつの話だろうか。
優菜は柔らかな笑みを浮かべて、「そうだよ」と頷く。
「私が泣いてたら、お祖父さんの工房から勝手に工具持ってきて」
「あー……あったな」
それでようやく思い出した。あの後、勝手に持ち出した件で、祖父ちゃんにこっぴどく絞られたのだ。工具は使う前に、置き場と持ち主に断りを入れろ、と。直した玩具を見せても、拳骨は撤回されなかった。あれは今でも納得していない。
水袋の口を縛っていると、優菜がしみじみといった様子で言った。
「私からすれば、映司くんは昔からヒーローだったなぁ」
「大げさだろ」
「大げさじゃないよー。だって、今日も井戸と家直しちゃったし」
「水を飲めるようにしたのは、優菜だろ。それに、井戸も家もスキルの力だ。俺の力じゃねー」
二つ目の水袋を引き上げながら、映司は言った。スキルはこの世界で貰ったもので、玩具を直していた頃の手とは別物だ。混ぜて褒められても、据わりが悪い。
優菜は縛り終えた水袋を胸に抱えて、こちらを覗き込んだ。
「そういうところも、昔から変わらないね」
何がおかしいのか、彼女は水袋を抱えたまま嬉しそうに目を細める。
「何で笑うんだよ」
「笑ってないよ?」
「笑ってる」
「んー……じゃあ、内緒っ」
人差し指を唇に当てて、悪戯っぽくそう言った。
幼馴染得意の『内緒』が出てきた時は、大体その後もずっとはぐらかされてしまう。それは過去のやり取りからも明白だった。
家へ戻る頃には、日が稜線へ触れていた。
焚きつけは、骨だけになった二軒目の足元にいくらでも落ちている。腕にひと抱えぶん拾って、かまどへ組んだ。
組み終えたところで、手が止まった。
(……で、火は?)
ライターもマッチも持っていない。あるのはポケットの金属片と、そこらの石ころくらいだ。
無論、優菜も同じだろう。
工房の記憶を漁った。乾いた板に溝を掘り、棒を立てて、掌で揉む。確か、そういう火の起こし方があったはずだ。
ただ、井戸と家で搾りきった今日の残りで、日が暮れるまでに火が出る気はしなかった。
かまどの前で薪と睨み合っていると、隣から優菜が覗き込んできた。
「映司くん、もしかして火?」
「ああ。道具がない。悪いけど、ちょっと時間かかるかも」
「私、火なら点けれるよ? たぶん」
「へ?」
言うや否や、優菜はかまどの前へ膝を折り、焚き口へ手のひらを向けた。
「この薪に火を灯せ……〈聖火〉」
指先に小さな白い炎が点って、ほぐした麻紐の先へ滑り落ちた。火は木っ端を順に舐めて、焚き口の奥へ育っていく。摩擦も火花も要らなかった。所要、およそ三秒である。
(……俺の原始生活の覚悟、返してくれない?)
さすがにちょっとチートが過ぎるのではないだろうか、〝聖女〟という職業は。
鑑定官が読み上げた聖女のスキルは四つだけだったが、それで全部というわけでもないらしい。
「あ、よかった。ちゃんと点いたみたい」
優菜はほっとした様子で、柔らかな笑みを浮かべた。
どうやら、必ず出せるという自信があったわけでもなさそうだ。
「凄いな。〝聖女〟はそんなこともできるのか」
「うん。なんか今、かまどを見てたらできるような気がして」
「なるほどな」
そういえば、映司の〈遺失回収〉や〈遺失査定〉も鑑定官から読み上げられた能力ではなかった。その職業ならではの能力やスキルを、知らないうちに身に付けていくのかもしれない。そして、それが使える場面に出くわせば、いきなり目覚めるという感じなのだろうか。どんなものがいつ目覚めるのかわからないあたり、少し不便ではある。
火が育つと、土間の色が変わった。壁も床も、灯された側からオレンジに染まっていく。鍋に水を張って、かまどへ載せた。
晩飯は、干し肉を炙って、黒パンを火の近くで温めただけだ。それでも、昨夜の荷台で想像していた食事とは、口の中の景色が違った。塩気が湯気を連れてくる。パンは外側だけ少し戻って、中は固かった。日本でこんなに固いパンを食べたことがない。
白湯は鉢がひとつしかないので、回し飲みになった。優菜は縁の同じ場所を器用に避けて飲んでいた。
……避けているのか、狙っているのかは、聞かないでおく。
その時だった。
外で、遠く獣の声がした。長く尾を引いて、別の声が重なる。
「モンスターとか、出るのかな……?」
優菜が、どこか怯えた様子で言った。
「どうなんだろうな。わからん」
映司は立って、扉の閂を下ろした。木の落ちる音が、思ったより頼もしく響く。
魔王討伐だの何だのと言っているから、きっと魔物的なものは出るのだろう。ただ、ここにくるまでの間、そういったものに出くわしたことはなかった。
(ま、そのあたりの調査も明日だな)
どちらにせよ、夜になった村を今外から眺めたとて、家々は闇に沈んで見分けもつかないだろう。窓から漏れる灯りは、この廃村でひとつだけだ。それも、カーテンや雨戸的なものを作れば遮れる。
映司は椅子に腰を下ろすと、テーブルを挟んだ正面に座る優菜と目が合った。
「……不思議だよね。昨日まで修学旅行だったのに」
「不便だよな。悪い」
「ううん。逆だよ。私、今凄く落ち着いてる」
どこかすっきりとした様子で、優菜は言った。
こんな廃村でどうして落ち着くんだ、とツッコミを入れそうになって、既の所で留める。
その気持ちなら、映司もわからなくもなかったからだ。
置かれている状況としては、最悪だった。
金も食料もなく、知識もないのに異世界の廃村に放り出された。
それなのに、気負いというか、絶望感が全くない。どちらかというと、あっちの世界にいた時よりリラックスできている節さえある。
少なくとも……修学旅行の貸切バスの中よりは、今の方が居心地がよかった。
かまどの火が爆ぜて、火の粉がひとつ上がる。
彼女は火のほうを向いたまま、続けた。
「意外に思うかもしれないけど……私、こっちの世界のこと、嫌いじゃないよ?」
本当に意外な言葉が出てきた。
思わず、問い返す。
「何で?」
「うーん……なんていうのかな。自由な感じがする」
「自由か。まあ、言われてみればそうかもな」
学校では、色々な視線やしがらみがあった。そのせいで、人前では優菜とあんまり話せなくなっていた。
中学くらいから周囲に視線が気になって徐々に距離を空けてしまって、でも彼女の方からいつも何かしら気に掛けて歩み寄ってくれて。優菜との関係が続いているのは、彼女のお節介さに他ならない。
そんなことを考えていると──。
「それに……映司くんとも、ずっと一緒にいられるし」
「へ?」
なんだか、とんでもないことを言われた気がした。
「あっ……な、なんでもない! なんでもないよ!」
優菜が両手をぶんぶんと振って否定した。頬のあたりが、火の色を差し引いても紅くなっている。
(今、俺とずっと一緒にいられるとか、言わなかったか?)
そう聞こえた気がするのだが、確認するのが怖くて一旦聞き流した。
確認してしまったら、どう接すればいいのかわからなくなる。
「ま、まあ。その自由の代償がこの廃村だしな。どっちがいいかは考えものだ」
「ええ? もう廃村じゃないよ。だって、映司くんがお家直してくれたし」
「まだ廃村だろ。どっからどう見ても」
直したのは一軒だけで、村はまだ五軒ぶん壊れている。
優菜は頬を膨らませかけて、それから思い直したように笑った。反論は、来なかった。
片付けと呼べる作業は、鉢を拭いて棚へ戻すだけで終わった。その途中で、優菜が奥の部屋を覗きに行き、戻ってくる。両手を後ろで組んでいた。
「……あの、映司くん」
「どうした?」
「ベッド、ひとつしかないみたい」
「ああ。優菜が使えよ。俺はここで寝るから」
当然の配分のつもりだった。奥に二台目の残骸が転がっているわけでもない。作るなら、明日、材料集めからだ。
優菜は首を横に振った。
「だめ」
「いや、だめって言われても。もう今日はスキルも使えそうにないんだよ。直すのは明日だ」
「そうじゃなくて。ここで寝るのがだめなの」
「は? 何で?」
問い返すと、優菜はテーブルへ半歩寄って、両手をきゅっと握った。
「だってこの家、映司くんが作ったんだよ?」
「まあ、そうなるのか」
「それなのに、映司くんが床で寝るだなんて……私、やだよ」
「そうは言ってもなぁ」
理屈になっているような、なっていないような。
ただ、こういう時の優菜が引かないことは、昨日の広間で全員が学んだはずだ。学んでいなかったのは、勇者くらいである。
「じゃあ、私もこっちで寝る」
言うなり、優菜は奥へ引っ込んだ。戻ってきた時には、寝台から引き剥がしたらしい毛布を一枚だけ抱えている。そのまま、映司の隣に腰を下ろした。ふたりして、壁際に並んで座る形になっている。肩と肩の間が拳ひとつも空いていなかった。
「……おい」
「どうせなら、ここでお話しよ? 話してるうちに、眠くなるよ」
毛布が二人の膝へ広げられた。配分は七対三で、多いほうが映司の側だった。映司は黙って、三のほうへ寄せ直す。寄せた端から、また戻された。
諦めて、壁へ背を預けた。かまどの残り火が、天井の梁へ薄い影を揺らしている。今朝まで穴の開いていた屋根。その下で灯りを眺めていられるのだから、我ながら大した一日だった。
話は、とりとめもなく続いた。長靴を左右逆に履いてきた日の話。夏の工房でのバイトの話。モンスターっぽいものの遠吠えは時々聞こえたが、遠いからか、あまり気にならなかった。
優菜の相槌の間隔が、少しずつ伸びていく。映司の瞼も重くなってきた。
考えてみれば、昨夜は荷台で一睡もしていない。寝たのは優菜だけで、こちらは金属片を削ったり、数字の勘定をしたりして朝を迎えたのだ。その足で井戸を直し、家を一軒建て直した。むしろ、今まで起きていたほうがおかしい。
ふいに、こてんと肩に重さがひとつ増えた。
それを確かめようと思った時には、映司の意識も途切れていた──。




