第8話 初めての帰り道は、思ったより長い
翌日。
放課後。
俺は昇降口で、ある人物を待っていた。
白石凛花。
学校のマドンナであり、現在の俺の偽装上の彼女である。
そして、昨日の話し合いで一緒に帰る約束を取り付けてきた人物でもある。
約束の時間から、まだ二分しか経っていない。
別に急かすつもりはない。
ただ、待ち合わせという行為そのものに、妙な気恥ずかしさがあった。
普段なら、帰りたいときに帰る。
誰かと予定を合わせることも、そう多くはない。
それが今は、昇降口で誰かを待っている。
しかも相手は、昨日までまともに話したこともなかった女子だ。
人生というのは、たまに説明書を読ませてほしくなる。
「お待たせ、神谷くん」
声がした。
顔を上げると、凛花がこちらへ歩いてきていた。
「いや、今来たところだよ」
「そう。よかった」
彼女は小さく笑った。
その表情は、教室で見るものと変わらない。
穏やかで、感じがよくて、誰に見られても問題のない笑顔。
実際、すれ違った女子生徒が凛花に声をかけた。
「白石さん、もう帰るの?」
「うん。今日はちょっと予定があって。また明日ね」
「そっか。じゃあ、またね!」
「うん。またね」
凛花は自然に手を振る。
相手も笑顔で去っていった。
その一連のやり取りに、特に不自然なところはなかった。
誰に対しても感じがいい。
相手の話を聞いて、自然に笑って、必要なら気遣いの言葉を添える。
そのどれもが、彼女にとっては当たり前なのかもしれない。
「じゃあ、行きましょうか」
「ああ」
俺たちは並んで昇降口を出た。
校門を出て、少し歩く。
学校から離れ、人通りもまばらになったところで、凛花が口を開いた。
「……蓮くん」
「ん?」
「今日は、よろしくね」
「こちらこそ」
「…………」
「…………」
会話が終わった。
早い。
まだ歩き始めて三分も経っていない。
俺は隣を歩く凛花に視線を向けた。
彼女は前を向いている。
表情は落ち着いているが、どこか様子がおかしい。
俺との距離が、妙に一定なのだ。
近すぎず、遠すぎず。
まるで、見えない線でも引かれているかのようだった。
「……凛花」
「何?」
「昨日のメモ、覚えてる?」
「当然よ」
「他人の前では近すぎず遠すぎない距離を保つ、だったか」
「ええ」
「ここ、誰も見てないけど」
「……そうね」
凛花は少しだけ俺から離れていた位置を戻した。
「二人きりのときは、そこまで気にしなくていいだろ」
「分かっているわ」
「本当に?」
「……分かっているわよ」
そう言いながら、彼女はまだ少し距離を測っているように見えた。
どうやら、メモに書いたことを忠実に守ろうとするあまり、状況に応じた使い分けが難しくなっているらしい。
真面目なのはいいことだ。
ただ、恋愛に関してまでマニュアルどおりに進めようとするのは、少し考えものかもしれない。
「それで、どこまで一緒に帰る?」
「どこまでって?」
「お互いの帰る方向が同じかどうかも分からないし」
「そうね。私は駅のほうに向かうけど」
「俺も駅を使うから、途中までは同じだな」
「じゃあ、駅まで一緒に行きましょう」
「そうだな」
目的地が決まった。
これで、とりあえず歩く理由はできた。
ただ、目的地が決まったからといって、会話まで自然に生まれるわけではない。
「…………」
「…………」
また沈黙が訪れた。
昨日、凛花がメモに書いていたことを思い出す。
――会話が途切れても、無理に話題を探さない。
確かに、そういう項目があったな。
俺は隣を見た。
凛花は前を向いたまま、少しだけ口元に力を入れている。
もしかして、今まさに実践しているのだろうか。
「凛花」
「何?」
「今、メモに書いてあったことを思い出してる?」
「……どうして?」
「いや、沈黙を恐れないってやつ」
「覚えていたの?」
「そりゃな。あれだけ真剣に説明されたら忘れないだろ」
「そう。なら、ちょうどよかったわ」
「何が?」
「今は、沈黙を恐れない練習中なの」
「練習だったのかよ」
「ええ」
「普通に話してもいいんだぞ」
「でも、無理に話題を探す必要はないのでしょう?」
「そうだけど、話したいことがあるなら話せばいいだろ」
「……それもそうね」
凛花は少し考え込んだ。
そして、改めてこちらを向く。
「蓮くんは、普段、放課後は何をしているの?」
「家に帰ってる」
「それは分かるわ」
「じゃあ、質問としては不十分だな」
「そうね。ごめんなさい」
俺は少し考えた。
「家では漫画を読んだり、小説を読んだりしてることが多いな。たまにアニメも見る」
「本が好きなのね」
「まあ、そうだな。二次元関連が中心だけど」
「そう」
凛花は小さく頷いた。
「今も、そういう作品を読んでいるのね」
「今も?」
「あ……同じクラスだし、図書室や休み時間に本を読んでいるところを見かけたことがあるから」
「なるほどな」
確かに、俺は休み時間に本を読んでいることもある。
特別隠している趣味でもないし、クラスメイトに知られていても不思議ではない。
「意外だった?」
「少しだけ。もっと外で遊ぶのが好きそうに見えたから」
「人は見かけによらないってことだな」
「そうね」
凛花は小さく笑った。
今度は、さっきより自然な笑顔だった。
「好きな作品とかあるの?」
「いろいろあるよ。漫画も小説も、ジャンルはあまり選ばない」
「恋愛ものも?」
「読むな」
「へえ」
「何だ、その反応は」
「いえ。ちょっと意外だっただけ」
「恋愛ものを読むのに、何か資格が必要か?」
「そういう意味じゃないわ」
凛花は少し楽しそうに笑った。
こういう話なら、普通にできるらしい。
もっとも、好きな作品について語り始めると長くなるので、ほどほどにしておく。
相手は凛花だ。
まだ、そこまで気を許せる関係ではない。
「凛花は?」
「私?」
「放課後、何してるんだ?」
「委員会の仕事をしたり、友達と話したり。あとは家に帰ってから勉強することが多いかしら」
「真面目だな」
「普通よ」
「普通の基準が高そうだ」
「そんなことないわ」
凛花は少しだけ首を傾げた。
「蓮くんは、私のことをどういう人だと思っていたの?」
「学校のマドンナ」
「……それだけ?」
「成績優秀、運動もできる、教師からの信頼も厚い。あと、告白された回数が多そう」
「最後のは余計よ」
「事実だろ」
「回数まで把握しているわけじゃないわ」
「そうなのか?」
「そうよ」
凛花は少しだけ不満そうに頬を膨らませた。
その表情を見て、意外に思う。
普段の彼女なら、こんな反応はしない。
学校で見せる顔とは、少し違う。
「……何?」
「いや。そういう顔もするんだなと思って」
「どういう意味?」
「もっと落ち着いているイメージだったから」
「私だって、普通に不満くらいあるわ」
「それはそうだな」
「そうよ」
凛花は前を向いた。
それから、少し間を置いて尋ねる。
「……私と一緒に帰るの、嫌だった?」
「急にどうした」
「昨日から、ずっと付き合わせているから」
「それはお互い様だろ」
「でも、あなたはあまり乗り気じゃなさそうだったから」
彼女の声は、さっきまでより少し小さかった。
俺は返事を考えた。
別に、嫌というわけではない。
ただ、彼女のことを信頼しているわけでもない。
脅迫されたことも、まだ納得できていない。
その二つは、分けて考える必要がある。
「嫌だったら、約束しないよ」
「……そう」
「ただ、まだお前を信用しているわけじゃない。それは分かってるだろ?」
「ええ」
「だから、今日一緒に帰ったからって、何かが変わったわけじゃない」
「分かっているわ」
凛花は、それ以上何も言わなかった。
少しだけ寂しそうに見えたのは、俺の気のせいかもしれない。
いや、気のせいであってほしい。
変に気を遣うのも違うだろう。
俺たちは、まだ始まったばかりなのだから。
そのときだった。
「あれ?」
後ろから、明るい声がした。
「白石さん?」
俺たちは足を止めた。
振り返ると、少し離れたところに女子生徒が立っていた。
栗色の髪を肩より少し下まで伸ばした、柔らかい目元の女子だった。きちんと着こなした制服に、親しみやすい笑顔。派手さはないのに、自然と目を引く雰囲気がある。
……見覚えがある。
少し前、廊下で女子たちと話していた子だ。
確か、友人から「玲香」と呼ばれていた。
「やっぱり白石さんだ。こんにちは」
「こんにちは、玲香さん」
凛花も彼女に気づいたようだった。
「神谷くんも一緒なんだね」
「ああ。どうも」
俺が軽く会釈すると、玲香はにこりと笑って返した。
「こんにちは。この前、廊下ですれ違ったとき、会釈してくれたよね?」
「そうだな。あのときの」
「うん。覚えててくれてよかった」
玲香はそう言って、凛花と俺を交互に見た。
それから、少しだけ目を丸くする。
「二人で帰ってるんだ。なんだか新鮮だね」
「そう?」
「うん。白石さんと神谷くんが一緒にいるところ、あまり見たことなかったから」
「そうね。こうして一緒に帰るのは、今日が初めてだもの」
凛花は落ち着いた声で答えた。
「へえ。じゃあ、最近仲よくなった感じ?」
「まあ、そんなところかな」
俺が答えると、凛花も小さく頷いた。
「ええ。前から顔は知っていたけれど、ちゃんと話すようになったのは最近ね」
「そっか」
玲香は納得したように頷いた。
「白石さんって、放課後もよく誰かに頼まれ事をしてるイメージがあるから。こうして誰かと帰る約束をしてるのって、ちょっと珍しいかも」
「そんなことないわよ」
「そう? この前も、先生に呼ばれて何か手伝ってなかった?」
「あれは、たまたまよ」
「ふふ。白石さんって、頼まれると断れないところあるよね」
「別に、そんなことは……」
「あると思うけどな」
玲香は柔らかく笑った。
凛花も否定しきれないのか、少し困ったように笑い返す。
二人のやり取りを見ていると、特別親しいわけではなくても、何度か話したことがある相手なのだと分かった。
「でも、今日は神谷くんとの予定を優先したんだね」
「……そういう言い方をしないで」
「あ、ごめん。からかうつもりじゃなかったよ」
玲香はすぐに笑顔を添えた。
「でも、なんだかいいね。付き合い始めたばかりって感じがする」
「そうかしら」
「うん。これから二人でいろいろ知っていくんだろうなって」
その言葉に、凛花はほんの少しだけ反応に迷ったようだった。
「……そうね」
短い返事だった。
玲香はその様子を見て、少しだけ目を細める。
けれど、すぐに別の話題へ移った。
「そういえば、神谷くんって普段は何してるの?」
「俺?」
「うん。白石さんと付き合う前から、どんな人なのかなって少し気になってたんだ」
「それはまた、どうして?」
「だって、白石さんが選んだ相手だもの。どんな人なのかなって思うでしょう?」
なるほど。
そういうものなのか。
「普通だよ。漫画を読んだり、家でのんびりしたり」
「へえ。漫画読むんだ」
「意外か?」
「ううん。なんとなく、もっと外に出て遊ぶタイプなのかなって思ってた」
「今日はそれをよく言われるな」
「そうなの?」
「さっき白石さんにも言われた」
「あはは。そうなんだ」
玲香は楽しそうに笑った。
それから、凛花のほうを見る。
「白石さんは、神谷くんのそういうところも知ってたの?」
「少しはね。でも、付き合い始めてから知ったことも多いわ」
「そっか。じゃあ、これから知っていくことがいっぱいあるね」
「……そうね」
凛花が答える。
今度は、さっきより少し自然だった。
玲香は俺たちの顔を順番に見て、それ以上は深く聞かなかった。
「あ、ごめんね。つい話し込んじゃった」
「いや、別に」
「二人の帰り道を邪魔しちゃ悪いし、私はこの辺で」
「うん。また学校でね」
「またね、白石さん。神谷くんも」
「ああ。また」
玲香は軽く手を振った。
そのとき、彼女の視線が一瞬だけ凛花の表情に向いた。
何かを確かめるような、ほんの短い視線だった。
けれど、すぐにいつもの笑顔に戻ると、俺にも軽く手を振って歩き出した。
彼女はそのまま、俺たちとは別の方向へ歩いていった。
姿が見えなくなってから、俺は小さく息を吐いた。
「……感じのいい子だったな」
「そうね。玲香さんは、誰とでも話しやすい人よ」
「知り合いなのか?」
「同じ学年だし、学校行事なんかで顔を合わせることもあるわ。話したことも何度かあるけれど、特別親しいわけではないわね」
「なるほど」
俺はさっきの会話を思い返した。
こちらが話しやすいように、自然と話題を選んでいる。
質問されているという意識すら薄いまま、気づけば会話が続いている。
ああいうのを、人付き合いがうまいというのだろう。
「……蓮くん」
「ん?」
「さっき、玲香さんにいろいろ聞かれていたでしょう。困らなかった?」
「趣味とか、普段何をしてるかとか?」
「ええ」
「別に。普通の質問だったしな」
「そう」
「むしろ、話しやすかったよ。こっちが答えやすいように聞いてくれるというか」
「そうね。玲香さんは、そういうところが上手なの」
「凛花もそう思うのか」
「ええ。誰と話していても、相手が嫌な気持ちにならないようにしていると思うわ」
凛花は少し考えるように目を伏せた。
「私も、見習わないといけないところがあるかもしれないわね」
「お前は十分、誰とでもうまくやってると思うけど」
「そう見えるだけよ」
凛花はそう言って、前を向いた。
その声には、少しだけ含みがあった。
俺はそれ以上、聞かなかった。
駅までの道を、俺たちは再び並んで歩いた。
今度は、さっきよりも少し自然に会話が続いた。
駅前に着くと、俺たちはそれぞれの改札へ向かうことになった。
「今日はありがとう、蓮くん」
「こちらこそ」
「また一緒に帰りましょうね」
「週に一度くらい、という話だったな」
「……そうだったわね」
凛花は少し残念そうに笑った。
「じゃあ、また明日」
「ああ。また明日」
凛花は軽く手を振り、改札へ向かっていった。
俺も反対側へ歩き出す。
今日は、ただ一緒に帰っただけだ。
特別なことは何もなかった。
会話も、途中で何度か途切れた。
途中で玲香という女子に声をかけられたのは、予定外だったけれど。
それにしても、玲香という女子は不思議な人だった。
話している間はごく自然なのに、気がつけばこちらのことをいくつも聞かれている。
それでいて、会話の流れは少しもぎこちなくならない。
質問されているというより、気づけばこちらから話しているような感覚だった。
……ああいうのを、聞き上手というのだろうか。
少なくとも、俺には少し真似できそうにない。
それでも、思っていたほど疲れたわけではない。
……まあ、週に一度くらいなら悪くないかもしれない。
そう考えた自分に、少しだけ驚いた。
偽装交際は、まだ始まったばかりだ。
明日からも、きっと面倒なことが続くのだろう。
それでも今日の帰り道は、思っていたより悪くなかった。




