第7話 告白は、予定どおりにいかない
あの日の放課後。
私は、告白の練習をしていた。
それも、学校の旧校舎にある空き教室で。
我ながら、ずいぶんと古典的なことをしていると思う。
けれど、仕方がない。
相手を前にして言葉に詰まるくらいなら、事前に練習しておいたほうがいい。
そう考えて、放課後の教室を借りた。
窓の外では、運動部の掛け声が聞こえる。
夕方の光が机の端を照らしていた。
私はスマートフォンを机に置き、もう一度、頭の中で言葉を組み立てる。
「……神谷くん」
まずは名前を呼ぶ。
そこまではいい。
「実は、あなたに伝えたいことがあって……」
違う。
少し堅苦しい。
そもそも、これでは何か大事な相談を持ちかけるように聞こえる。
「神谷くん。私、あなたのことが好きです」
…………。
駄目だ。
今度は唐突すぎる。
私は額に手を当てた。
普段の私は、こんなことで悩まない。
クラス委員として話をまとめることも、先生から頼まれた仕事をこなすことも、誰かの相談に乗ることも、それなりに慣れている。
人前で話すことに抵抗はないし、相手に合わせて言葉を選ぶことだってできる。
それなのに。
たった一人に、たった一言を伝えるだけで、こんなにも難しい。
「……好きです。私と付き合ってください」
声に出してみる。
今度は、少しだけましだった。
けれど、言い終わった瞬間に自分の顔が熱くなる。
誰もいない教室でよかった。
もし今の様子を誰かに見られていたら、明日からどんな顔をして過ごせばいいのか分からない。
私は深く息を吐いた。
落ち着いて。
大丈夫。
相手は神谷くんだ。
特別に気難しい人というわけではない。誰とでも普通に話すし、冗談も言う。授業中も必要以上に目立とうとはしないけれど、周囲から浮いているわけでもない。
ただ、誰にでも同じ距離で接しているように見えて、実際には少しだけ線を引いている。
その距離感が、私は気になっていた。
彼のことを知りたいと思った。
もっと話してみたいと思った。
そして、気がついたときには、もう告白することを決めていた。
私にとって、彼は初めて話す相手ではない。
彼と最後にきちんと話したのは、ずっと前のことだ。
今の彼は、私のことをどこまで覚えているのだろう。
それを確かめるのが怖くて、今まで何もできなかった。
同じクラスにいながら、まともに話すことはほとんどなかった。
委員会の仕事で顔を合わせたり、挨拶を交わしたり。そんな短いやり取りを重ねるだけで、私はなかなか一歩を踏み出せずにいた。
けれど、もう一度ちゃんと話したいと思った。
今度こそ、自分の気持ちを伝えたいと思った。
もっとも、決めたからといって、簡単に実行できるわけではない。
「……よし」
私は自分の頬を軽く叩いた。
何度も練習した。
言葉も決めた。
あとは、本人を前にして伝えるだけ。
これなら、きっと大丈夫。
そう思った、そのときだった。
廊下から足音が聞こえた。
誰かがこちらへ近づいてくる。
私は反射的に口を閉じた。
まさか、誰かに聞かれた?
いや、待って。
ここは旧校舎だ。
放課後に人が来ることはほとんどない。
足音が止まる。
そして、教室の入り口に人影が差した。
「……あ」
神谷くんだった。
目が合った。
彼は教室の中を見て、私の様子を確認するように一瞬だけ視線を動かした。
その瞬間、頭の中が真っ白になった。
聞かれた?
どこから?
今の「好きです」まで?
いや、全部聞かれていたらどうしよう。
私は何か言おうとした。
しかし、言葉が出てこない。
神谷くんは少しだけ首を傾げた。
それから、何かに気づいたように口を開いた。
「……もしかして、誰かに告白する練習?」
終わった。
よりによって、そこを聞くの。
私は咄嗟に教室を出た。
「ちょっと待って」
「え?」
「あなた、今のを見ていたの?」
「いや、見たというか……」
「どこから?」
「どこからって言われても」
「最初から?」
「いや、通りかかっただけだけど」
「本当に?」
私は彼の進路を塞ぐように立った。
落ち着いて。
ここで取り乱してはいけない。
学校のマドンナ、白石凛花。
普段どおりに振る舞えばいい。
私は壁に片手をつき、できるだけ平静を装った。
その直後。
ゴンッ。
肘を壁にぶつけた。
「…………」
「……大丈夫か?」
「大丈夫よ」
痛い。
普通に痛い。
でも、ここで痛がるわけにはいかない。
「本当に?」
「大丈夫だと言っているでしょう」
「さっきから大丈夫って二回目だな」
神谷くんが少し笑った。
……恥ずかしい。
この人、どうしてこういうときに限って余裕があるのだろう。
「それで?」
「それで、とは?」
「誰かに告白する練習をしていたんだろ?」
「……そうよ」
「そっか」
彼はそれ以上、深く聞いてこなかった。
からかったり、面白がったりする様子もない。
「誰にも言わないよ」
「本当に?」
「言いふらすような話でもないだろ」
その言葉に、少しだけ肩の力が抜けた。
よかった。
少なくとも、今すぐ学校中に広まることはなさそうだ。
「それに」
神谷くんは、少しだけ考えるように視線を上げた。
「伝えたいことを、ちゃんと言葉にするために練習するのは、別に悪いことじゃないと思う」
「……え?」
「大事なことなんだろ。だったら、ちゃんと伝わるように考えるのは普通だと思うけど」
思っていた反応とは違った。
彼なら、もっと適当に流すと思っていた。
笑ってごまかすか、気まずそうにその場を離れるか。
少なくとも、こんなふうに真面目に返されるとは思わなかった。
「……そうかしら」
「そうだろ。まあ、俺は詳しいことを知らないけど」
「そうね」
私は視線を逸らした。
この人は、時々こういうことを言う。
何気ない言葉なのに、妙にこちらの心に残る。
だから困る。
もっと、普通に接してくれればいいのに。
「俺にできることがあれば、手伝うけど」
その一言で、胸の奥が揺れた。
「……手伝う?」
「ああ。まあ、相手との関係とか、状況にもよるけど」
「そう」
「告白する相手が誰かも知らないしな」
彼は、本当に何も知らない。
私が誰に告白しようとしていたのか。
誰のために、こんなに時間をかけて言葉を考えていたのか。
きっと、想像もしていない。
私は彼の顔を見た。
いつもと変わらない表情だった。
私の気持ちなど、少しも気づいていない。
当然だ。
同じクラスにいても、私たちはほとんど会話をしてこなかった。
委員会の仕事や挨拶で言葉を交わすことはあっても、それ以上の関係にはなれなかった。
それでも、私は彼に伝えようとしていた。
好きです。
私と付き合ってください。
その言葉を、今度こそ。
私は一度、息を吸った。
「神谷くん」
「ん?」
言わなければ。
今なら、言える。
そう思ったのに。
彼の目を見た途端、喉の奥が詰まった。
もし断られたら。
もし困った顔をされたら。
もし、今までのように話せなくなったら。
そんなことを考えてしまった。
私は、彼に選んでほしかった。
でも、選ばれない可能性を考えると、どうしても怖かった。
彼が帰ってしまえば、また距離ができる。
せっかく見つけたのに。
せっかく、もう一度話せるところまで来たのに。
そんな焦りが、頭の中を埋めていく。
そして、私は。
「彼氏になりなさい」
「…………は?」
言ってしまった。
自分でも驚いた。
今のは、告白ではない。
お願いですらない。
ただの命令だった。
神谷くんは、完全に困惑した顔をしている。
当然だ。
こんなことを言われて、すぐに理解できる人間はいない。
「いや、待ってくれ。話が見えないんだけど」
「見えなくてもいいわ」
「いや、よくないだろ」
私は彼の目を見た。
今なら、まだ言い直せる。
さっきのは冗談だと。
やっぱり忘れてほしいと。
そう言えば、何もなかったことにできるかもしれない。
けれど、口が動かなかった。
ここで引いたら、彼は帰ってしまう。
そして私は、また何も言えないまま、彼を遠ざけることになる。
そんな未来を想像しただけで、怖くなった。
彼と話す機会がなくなること。
彼の隣に立つ理由がなくなること。
これまで積み重ねてきたわずかな接点さえ、消えてしまうこと。
私は、それが嫌だった。
だからといって、彼の意思を無視していい理由にはならない。
そんなことは分かっていた。
分かっていたのに。
「……いや、無理です。お断りします」
神谷くんの返事は、思っていたよりもずっと早かった。
胸の奥が、ぎゅっと縮まる。
当然の返事だ。
あんな言い方をして、受け入れてもらえるはずがない。
私はすぐに謝るべきだった。
「ごめんなさい。今のは忘れて」
そう言えばよかった。
けれど、彼は一歩、後ろに下がった。
それは、話を終わらせようとする動作に見えた。
私は思わず手を伸ばしかけた。
指先が、空中で止まる。
待って。
まだ帰らないで。
そう言いたかった。
でも、何と言えばいいのだろう。
もう一度、告白すればいい?
今度こそ「好きです」と伝えればいい?
そんなことをすれば、彼はどう答えるだろう。
断られたら。
彼が困った顔をしたら。
私には、その返事を受け止められる自信がなかった。
そのとき、ふと頭に浮かんだものがあった。
以前、神谷くんがスマートフォンで、ある匿名アカウントを開いているところを見かけたことがある。
『恋愛構造研究室』。
最初は、ただの偶然だった。
けれど、画面に表示された投稿を見て、私は少し引っかかった。
文章の言い回し。
言葉の選び方。
物事を一歩引いて分析するような書き方。
目の前の神谷くんが普段話すときの癖と、どこか似ていた。
その後、いくつかの投稿を読み返した。
そして、確信した。
彼が書いているのだと。
あのアカウントのことを、私は知っている。
もちろん、誰かに言うつもりはなかった。
彼の秘密を知ったからといって、それを利用しようなどとは考えていなかった。
少なくとも、今日ここに来るまでは。
でも今、彼が帰ってしまおうとしている。
私は、彼を引き止める言葉を探していた。
その結果、頭に浮かんだのが、最も使ってはいけない言葉だった。
「待って」
神谷くんが足を止めた。
今なら、まだやめられる。
謝ることもできる。
けれど、私は口を開いてしまった。
「あなたのアカウントのこと、知っているわ」
神谷くんの表情が変わった。
その反応を見て、私は自分が何を言ったのかを理解した。
違う。
こんなことを言うつもりではなかった。
私は彼に選んでほしかっただけなのに。
「……『三次元恋愛からの卒業、および二次元恋愛構造の研究に関する声明』。あの投稿を書いたの、あなたでしょう?」
「…………」
沈黙が落ちた。
神谷くんは、私から目を逸らさなかった。
その顔から、さっきまでの穏やかさが消えていた。
「……あんた、ずいぶん卑怯な真似するんだな、あんた。弱みを握り、それを盾に相手を自分の意のままに操ろうってか? いくら俺でもそんな単純じゃねぇよ」
彼の声は、明らかに冷たくなっていた。
胸が痛んだ。
違う、と言いたかった。
最初からこんなことをするつもりはなかった、と。
でも、それは言い訳にしかならない。
今、私は彼の弱みを使おうとしている。
彼が嫌がることを、分かったうえで。
私は唇を噛んだ。
やめなければ。
今ならまだ、謝れる。
そう思った。
けれど、怖かった。
ここで謝って、彼が帰ってしまったら。
今度こそ、彼との接点がなくなってしまったら。
そんな考えが、頭から離れない。
彼の意思を尊重しなければならない。
彼に嫌われたくない。
その二つが、頭の中でぶつかっていた。
そして、私は。
「なら、バラすだけね」
言ってしまった。
もう、戻れない。
神谷くんは黙っていた。
私も何も言えなかった。
さっきまで何度も練習していた告白の言葉は、結局一度も口にできなかった。
好きです。
私と付き合ってください。
たったそれだけの言葉が、どうして言えなかったのだろう。
私は、彼に選んでほしかった。
彼の隣にいたかった。
なのに、自分の手で彼の選択肢を奪おうとしている。
そんなことをすれば、彼に嫌われるに決まっている。
分かっていた。
それでも、止められなかった。
机の上に置いたままのスマートフォンを見る。
画面には、さっきまで練習に使っていた文章が残っていた。
『好きです。私と付き合ってください』
それを見て、私は小さく息を吐いた。
……こんなはずじゃなかった。
今日は、ただ告白をするつもりだったのに。
どうして、こんなことになってしまったのだろう。
答えは分かっていた。
私が、怖がったからだ。
そして、その怖さを理由に、彼を傷つけた。
それだけは、決して忘れてはいけないと思った。




