第6話 偽装交際には、確認事項が多すぎる
「……許可する」
「本当に?」
「二人きりのときだけな。学校でいきなり呼ばれたら、俺が対応に困る」
「分かったわ」
凛花は小さく頷いた。
それから、少しだけ視線を泳がせる。
「じゃあ……蓮くん」
「今、呼ぶ必要あったか?」
「練習よ」
「ずいぶん実践的な練習だな」
「何事も経験が大切でしょう」
「その言葉を、まさか名前の呼び方で聞くことになるとは思わなかった」
凛花は返事をせず、机の上に置いてあったメモを一枚手に取った。
どうやら、これ以上の雑談を続けるつもりはないらしい。
「それじゃあ、本題に入りましょう」
「そうだな。できれば早めに終わらせたい」
「私もそのつもりよ」
凛花はメモをこちらに向けた。
そこには、整った字で見出しが書かれていた。
――偽装交際における確認事項。
「……ずいぶん物々しいタイトルだな」
「必要なことを整理しただけよ」
「恋人同士の話し合いというより、業務提携の契約書に見える」
「では、交際における取り決めと呼びましょう」
「言い換えただけじゃないか」
凛花は気にした様子もなく、メモの一番上を指で示した。
「まず、呼び方について」
「さっき決めたばかりだろ」
「学校では今までどおり、神谷くんと白石さん。二人きりのときは、私が蓮くんと呼ぶ」
「俺は?」
「……私のことも、名前で呼んでほしいわ」
「急だな」
「恋人なのだから、自然でしょう?」
「その理屈なら、俺たちは昨日までほとんど会話してなかったんだが」
「だから、これから慣れていくのよ」
言っていることは分かる。
分かるが、どうにも納得しきれない。
俺はメモに目を落とした。
「……名前で呼ぶのは、もう少し慣れてからでいいか」
「どうして?」
「単純に、まだしっくりこない」
「私が蓮くんと呼ぶのはいいのに?」
「それはお前が希望したことだろ」
「あなたも希望すればいいじゃない」
「名前の呼び方を希望するって、どういう状況だよ」
凛花は少しだけ口を開きかけ、それから閉じた。
何か言い返そうとしたらしい。
しかし、適当な言葉が見つからなかったのか、メモに視線を戻した。
「……分かったわ。そこは保留にしましょう」
「助かる」
「ただし、いつかは名前で呼んでもらうから」
「ずいぶん強い意志を感じるな」
「必要なことだから」
どうやら、呼び方ひとつで長期的な課題ができてしまったらしい。
俺は先が思いやられる気持ちを抑えつつ、次の項目を確認した。
「連絡について。必要なことがあればメッセージを送る。返信を急かさない。夜遅くの連絡は控える……か」
「問題ないでしょう?」
「まあ、妥当だな」
「それから、学校での振る舞いについて」
凛花は次のメモを持ち上げた。
「今までどおり、普通に挨拶をする。休み時間などに少し話す。周囲から見て不自然にならない程度に、一緒に過ごす機会を作る」
「その『不自然にならない程度』っていうのが難しいんだよな」
「そう?」
「昨日までほとんど話していなかった二人が、今日から急に仲よくしていたら目立つだろ」
「交際を始めたのだから、距離が縮まるのは自然なことよ」
「それはそうだが、限度がある」
「例えば?」
「例えば、毎日一緒に昼飯を食べるとか」
「駄目なの?」
「昨日まで一度もそうしたことがないのに、今日から毎日だぞ。周囲に違和感を持たれる可能性はある」
「……確かに」
凛花はメモに何かを書き足した。
思ったより素直に聞き入れてくれるらしい。
「じゃあ、最初は挨拶や短い会話から。無理に一緒に過ごす時間を増やさない」
「それがいいと思う」
「それから、一緒に帰ることも必要ね」
「……必要なのか?」
「恋人同士なら、一緒に帰ることくらいあるでしょう?」
「あるだろうな」
「なら、決まりね」
「待て。話が飛躍してる」
俺はメモを指差した。
「一緒に帰ること自体はいい。ただ、毎日となると話が変わる」
「毎日とは言っていないわ」
「今の言い方だと、そう聞こえた」
「じゃあ、週に一度くらいはどう?」
「そのくらいなら、まあ」
「……私は、もう少し多くてもいいと思うけれど」
「偽装として?」
「もちろん」
「今、ちょっと間があったな」
「気のせいよ」
凛花は何事もなかったように、メモへ視線を戻した。
少なくとも、本人はそのつもりらしい。
「次は、恋人らしい振る舞いについて」
「まだあるのか」
「当然でしょう」
凛花は新しいメモを差し出した。
そこには、箇条書きでいくつかの項目が並んでいた。
・二人で歩くときは、相手の歩幅に合わせる。
・他人の前では、近すぎず遠すぎない距離を保つ。
・会話が途切れても、無理に話題を探さない。
・名前を呼ぶのは、必要以上に繰り返さない。
・交際について尋ねられたときは、二人で決めた説明をする。
「…………」
「何か気になるところでも?」
「いや」
俺はもう一度、メモに目を落とした。
「……これ、自分で考えたのか?」
「そうよ」
「恋愛マニュアルでも読んだ?」
「読んでいないわ。必要なことを考えただけよ」
「その結果がこれか」
「何か問題がある?」
「いや。思っていたより真面目に取り組んでいるんだな、と」
「当たり前でしょう。中途半端なことをして、周囲に怪しまれるわけにはいかないもの」
「まあ、それはそうだな」
凛花は当然といった顔で頷いた。
ただ、少しだけ気になる項目がある。
「名前を呼ぶのは、必要以上に繰り返さない?」
「ええ」
「これ、わざわざ書く必要あるか?」
「あるわ。会話のたびに名前を呼んでいたら、不自然でしょう?」
「そもそも、そんなに名前を呼ぶ機会があるか?」
「あるかもしれないじゃない」
「例えば?」
「……例えば、何かを頼むときとか」
「それなら普通に呼べばいいだろ」
「だから、その頻度の話よ」
「頻度まで決めるのか」
「決めておいたほうがいいでしょう?」
「恋愛に回数制限を設ける人間は初めて見たな」
「制限とは言っていないわ」
凛花は少しだけ眉を寄せた。
どうやら、自分で作った項目に自分が苦戦していることには、まだ気づいていないらしい。
「……実際に試してみましょう」
「何を?」
「明日、一緒に帰るときのことよ。歩くときの距離や、振る舞いを確認しておきたいの」
「今ここで?」
「そのほうが分かりやすいでしょう」
「まあ、確かに」
凛花は椅子から立ち上がり、俺の隣に並んだ。
「まず、歩幅を合わせること」
「それは普通に歩けばいいだろ」
「そうね。じゃあ、少し歩いてみましょう」
俺たちは教室の中を、窓際からドアのほうへ歩き始めた。
凛花は俺の隣を歩いている。
……いや。
正確には、俺の歩幅に合わせようとしている。
一歩目。
二歩目。
三歩目。
妙にきっちりと足音が重なる。
「…………」
「…………」
「白石さん」
「何?」
「これ、行進じゃないんだぞ」
「ちゃんと歩幅を合わせているわ」
「合わせすぎなんだよ」
「そうかしら」
「隣にいるだけでいい。足音までそろえる必要はない」
「……分かったわ」
凛花は少しだけ歩く速度を緩めた。
今度は自然になった。
少なくとも、さっきよりは。
「次は距離ね」
「まだやるのか」
「確認事項に書いてあるもの」
「自分で書いたんだろ」
凛花は俺との間に、わずかに隙間を空けて立った。
「これくらい?」
「普通だな」
「じゃあ、もう少し近いほうがいい?」
「恋人らしく見せるなら、そうかもしれない」
凛花が半歩近づく。
「これくらい?」
「……まあ、そのくらいなら」
「分かったわ」
彼女はその位置で止まった。
たった半歩。
それだけなのに、先ほどまでとは少し空気が違う。
俺は妙な気まずさをごまかすように、メモへ目を向けた。
「とりあえず、歩くときはそのくらいでいいんじゃないか」
「ええ」
「これ以上は、実際に誰かに見られたときに考えればいい」
「そうね」
凛花は頷いた。
そして、ふと何かを思い出したように言った。
「……会話が途切れたときは?」
「無理に話さなくてもいいだろ」
「でも、恋人同士なら会話が弾んだほうが自然でしょう?」
「毎回弾んでいる必要はないだろ」
「そういうもの?」
「そういうものだ。沈黙があったらあったで、別にいい」
「……分かったわ」
凛花はまたメモに何かを書き足した。
今度は何を書いているのかと思って覗き込むと、そこには小さく、
――沈黙を恐れない。
と書かれていた。
「…………」
「何か?」
「いや。ずいぶん壮大なテーマになったなと思って」
「大事なことよ」
「そうか」
どうやら、偽装交際というものは思った以上に奥が深いらしい。
少なくとも、俺が想像していたよりは。
「次は、身体的な接触について」
「まだ続くのか」
「必要なことだから」
凛花は一枚のメモを手に取った。
そこには、少し大きめの文字で項目が書かれていた。
――身体的な接触について。
「…………」
「…………」
俺はその文字を見つめた。
凛花も、なぜかこちらを見ない。
「……これは?」
「必要になる可能性があるでしょう」
「何が?」
「手をつないだり、腕を組んだり」
「ずいぶん具体的だな」
「恋人らしく振る舞うなら、そういう場面もあるかもしれないじゃない」
「誰かに見られているときとか?」
「ええ。例えば、周囲に交際を疑われたときとか」
「なるほどな」
理屈は分かる。
ただ、目の前の凛花は、なぜかメモを持つ手に力が入っていた。
「……白石さん」
「何?」
「もしかして、これを書きながら結構考えた?」
「必要なことを考えただけよ」
「いや、そういう意味じゃなくて」
「どういう意味?」
「いや。何でもない」
ここで余計なことを言うと、また話が長くなりそうだ。
俺は一度咳払いをした。
「接触については、その都度確認することにしよう」
「その都度?」
「俺が嫌ならしない。お前が嫌でもしない。必要だからって、勝手に触るのはなしだ」
凛花の表情から、わずかに笑みが消えた。
彼女は少しだけ目を伏せる。
「……分かったわ」
「それと、前にも言ったけど」
俺は凛花を見た。
「俺のアカウントのことを、今後二度と交渉材料に使わないでくれ」
「…………」
「それから、俺の意思を無視して勝手に話を進めるのもなしだ」
言いながら、自分でも少し嫌な気分になった。
こういう約束を、わざわざ書き残さなければならない関係というのも、なかなか珍しい。
凛花はしばらく黙っていた。
やがて、手にしていたメモを机に置く。
「分かった。もうしない」
「約束できるか?」
「できるわ」
「……分かった。ただ、今すぐ信じられるわけじゃない」
「ええ。それは分かっているわ」
凛花は反論しなかった。
そのことに、少しだけ意外さを覚える。
もっと何か言い返されると思っていた。
ただ、それで昨日のことが帳消しになるわけではない。
俺は短く頷き、話を戻した。
「じゃあ、今のも追加しておいてくれ」
「……ええ」
凛花はペンを取り、メモの端に書き足した。
それを確認してから、俺は机の上に目を戻す。
「他には?」
「そうね……」
凛花はメモを一枚ずつ確認していく。
連絡の頻度。
学校での振る舞い。
一緒に帰る頻度。
呼び方。
歩くときの距離。
身体的な接触。
そして、互いの意思を尊重すること。
並べてみると、なかなかの項目数だった。
「これで一通りかしら」
「ずいぶん決めたな」
「必要なことだから」
「分かった。じゃあ、これで終わりだな」
「ええ」
凛花はメモをまとめ、鞄にしまおうとした。
その手が、途中で止まる。
「……あの」
「今度は何だ?」
「明日、一緒に帰らない?」
「明日?」
「ええ。さっき決めたでしょう。一緒に帰ることも必要だって」
「週に一度くらい、という話だったな」
「だから、最初の一回よ」
「今日じゃ駄目なのか?」
「今日はもう遅いし、急に誘うのも不自然でしょう」
「明日なら自然なのか?」
「……少しは」
凛花は自信なさげに答えた。
学校のマドンナともあろう人が、たった一緒に帰る約束を取り付けるだけで、これほど歯切れが悪くなるとは。
俺は小さく息を吐いた。
「分かった。明日な」
「本当に?」
「そのために、今ここで話し合ってたんだろ」
「……そうね」
凛花はほっとしたように、ほんの少しだけ表情を緩めた。
それから、机の上のメモを鞄にしまい直す。
「じゃあ、明日は昇降口で待っているわ」
「分かった」
「それと……」
「まだあるのか?」
「明日から、少しずつ慣れていきましょう」
凛花はそう言って、俺の目を見た。
その表情は、いつもの学校で見せるものに近かった。
落ち着いていて、隙がなくて、誰からも好かれそうな笑顔。
ただ、今は少しだけ違って見えた。
「……ああ」
俺は短く返事をした。
偽装交際のルールは決まった。
明日は一緒に帰る。
それだけのことだ。
それだけのはずなのに、妙に面倒な予感がする。
俺は教室の時計を見た。
そろそろ帰る時間だった。
「じゃあ、俺は先に帰る」
「ええ。気をつけてね、蓮くん」
「……その呼び方、もう慣れたのか?」
「まだ練習中よ」
「先は長そうだな」
「そうね」
凛花は少しだけ笑った。
その笑顔を見て、俺は思った。
明日は、白石凛花と一緒に帰る。
ただそれだけの予定なのに、俺はすでに面倒なことが起きる予感がしていた。
……できれば、普通に帰らせてほしい。




