第5話 友人は、事情聴取を始める
翌朝、登校して早々に思った。
噂というものは、足が速い。
昨日、学校のマドンナと付き合っていることを公表した。
正確には、半ば強制的に公表させられた。
そして一夜明けた今日。
廊下ですれ違う生徒の視線が、昨日までとは明らかに違っていた。
目が合うと逸らされる。
その直後、背後から小声が聞こえる。
「今の神谷くんじゃない?」
「え、あれが?」
「白石さんの彼氏……」
聞こえている。
普通に聞こえている。
声量の調整という概念を、ぜひ学んでほしい。
俺は何も聞こえなかったことにして、教室へ向かった。
その途中、廊下の向こうで女子生徒たちが話しているのが目に入った。
輪の中心にいたのは、栗色の髪を肩より少し下まで伸ばした女子だった。
柔らかい目元に、自然と人を安心させるような笑顔。制服もきちんと着こなしていて、派手というわけではないのに、妙に目を引く。
友人らしき女子に話を振られるたび、彼女は楽しそうに相槌を打っていた。
「ねえ玲香、白石さんと神谷くんが付き合ってるって話、聞いた?」
「うん。朝から何回か聞いたよ」
「どう思う?」
「へえ、神谷くんなんだ、って思った」
「知ってるの?」
「同じ学年だし、顔くらいはね」
玲香は笑いながら答えた。
「でも、白石さんと付き合うとは思わなかったかも」
「だよね。だって、二人が話してるところなんて、あんまり見たことないし」
「そうなんだよね。どこで仲良くなったんだろ」
「昨日、白石さんから告白したらしいよ」
「へえ。白石さんから?」
玲香は少し目を丸くした。
驚いたような表情だったが、すぐにいつもの笑顔に戻る。
「それなら、神谷くんって意外とすごい人なのかもね」
「どういう意味?」
「だって、あの白石さんでしょ?」
「まあ、それはそうだけど」
「ね。ちょっと気になるかも」
玲香はそう言って、友人たちと一緒に笑った。
会話はそこで別の話題に移った。
誰かを問い詰めるわけでもなく、妙に話を掘り下げるわけでもない。それでいて、聞くべきことはきちんと聞いている。
人付き合いがうまいというのは、ああいうものなのかもしれない。
俺には真似できないというより、あそこまで周囲に気を配りながら会話を回すのは、あまり性に合わない。
そのとき、玲香がふとこちらを向いた。
目が合う。
彼女は軽く会釈した。
俺も会釈を返す。
それだけだった。
特に話したことのない相手だ。名前も今、友人たちの会話で知ったばかりである。
俺が教室へ向かおうとすると、玲香は友人との会話に戻る直前、もう一度だけこちらを見た。
単に、噂の当人を確認したかったのだろう。
学校のマドンナが突然付き合い始めた相手だ。興味を持つのも無理はない。
俺だって、昨日まで普通に過ごしていたクラスメイトが突然、学校のマドンナと付き合い始めたら事情くらいは気になる。
……自分のこととなると、ずいぶん笑えない話だが。
俺は視線を切り、教室へ入った。
鞄を置いて席に着く。
それから、何となくスマートフォンを取り出した。
通知はない。
画面を消して、机の中にしまう。
……別に、連絡を待っているわけではない。
必要な連絡が来ていないか、確認しただけだ。
昨日から続く面倒ごとを考えれば、むしろ当然の行動である。
「おい、蓮」
聞き慣れた声がした。
振り向くと、健太がこちらを見ていた。
嫌な予感がした。
「……なんだ、その顔は」
「いや。聞きたいことがあってな」
「先生、俺は何もやってません」
「まだ何も聞いてねえよ」
「先手必勝って言葉があるだろ」
「お前の場合、先手を打つ方向が毎回おかしいんだよ」
健太は呆れたように笑い、俺の机に手をついた。
こいつとは一年の頃からそれなりに付き合いがある。
こちらの冗談を適当に受け流しつつ、必要なときには話を聞いてくれる。友達というのは、これくらいの距離感がちょうどいい。
ただし、今に限っては距離感を間違えている。
「で、白石さんとはいつから付き合ってんだ?」
「昨日からだよ」
「昨日?」
「……一昨日の放課後に告白されて、昨日の朝に返事をした。そういうことになってる」
「そういうことになってる?」
「細かい言い回しを気にするな」
「気になる言い方をしたのはお前だろ」
健太は納得していない顔をした。
まあ、納得できないのも分かる。
俺と凛花は同じクラスだが、これまでまともに話したことすらなかった。委員会の仕事で顔を合わせたり、挨拶を交わしたり。その程度の関係だった。
「お前と白石さん、そんなに仲よかったっけ?」
「昨日までは、ちゃんと話したこともなかったな」
「それで告白されて、付き合うことになったのか」
「人生、何が起こるか分からないもんだな」
「お前が言うと、妙に腹立つな」
「俺もそう思う」
実際、何が起こるか分からない。
ほんの数日前まで、白石凛花と付き合う未来など想像すらしていなかった。
告白されるどころか、脅迫された。
人生の展開として、ずいぶんと方向性を間違えている。
健太はしばらく俺を見ていたが、やがて小さく息を吐いた。
「まあ、白石さんっていい人そうだしな。お前がいいなら、別にいいんじゃねえの」
「……そうだな」
「ただ、なんか意外ではあるけど」
「それはもう聞いた」
「いや、そうじゃなくて」
健太は俺の机に置かれたスマートフォンをちらりと見た。
「お前、今朝からスマホ気にしてるだろ」
俺はスマートフォンを机の中へ押し込んだ。
「……そうか?」
「さっきも通知がないのに画面つけてただろ。白石さんから連絡でも待ってんのか?」
「恋人からの連絡を待つ。いい響きだな」
「お前、今の質問に答えてないぞ」
「答える必要があるのか?」
「ないけど、気になるだろ。相手が白石さんなら」
それはそうだろう。
学校のマドンナと付き合い始めた男子が、朝からスマートフォンを気にしている。
傍から見れば、青春らしい光景なのかもしれない。
実態は、次にどんな無茶を言われるのか確認するための業務連絡待ちだ。
「……付き合い始めたばっかりだからな」
俺は曖昧に答えた。
「多少は気を遣うだろ」
「まあ、それはそうか」
健太は頷いたものの、まだ何か考えているようだった。
「でも、お前って普段、誰と話しててもあんまり構えないじゃん」
「そうか?」
「そうだよ。先生相手でも、先輩相手でも、妙に普通だし」
「人類みな平等だからな」
「その割に、白石さんが近くにいると、一瞬だけ黙るんだよな」
……見られていたか。
今朝、教室の前を通り過ぎる凛花と目が合ったときもそうだった。
普段なら、何かひとことくらいは考えずに口から出てくる。
けれど彼女が相手だと、余計なことを言わないように一度考えてしまう。
迂闊な発言をすれば、どんなふうに話を転がされるか分からない。
そもそも俺たちは、本当は付き合っていないのだ。
周囲に怪しまれないよう振る舞う必要もあるし、あのアカウントの件だってある。
慎重にならざるを得ない理由なら、いくらでもあった。
ただ、それを健太に説明するわけにはいかない。
「まあ、好きな相手の前じゃ、多少は緊張するだろ」
俺はそう言って、話を終わらせることにした。
「へえ。お前でも緊張するんだな」
「人をなんだと思ってるんだ」
「雑な人間」
「否定しにくい評価をするな」
健太はようやく笑った。
始業のチャイムが鳴り、話はそこで打ち切られた。
……危なかった。
健太は勘が鋭いというより、俺の普段の様子をよく見ている。
だからこそ、余計なことは話せない。
巻き込みたくない、というのも本音だった。
今回の件は俺と凛花の問題だ。
少なくとも、今はそうしておきたい。
*
午前の授業が終わり、昼休みになった。
俺が弁当を取り出そうとしたところで、教室の入り口が少しざわついた。
嫌な予感がする。
こういうときの予感は、当たらなくていいものほどよく当たる。
「神谷くん」
顔を上げると、白石凛花が立っていた。
教室にいた何人かの視線が、一斉にこちらを向く。
昨日の今日だ。
そりゃ気にもなるだろう。
凛花は周囲の視線など気にしていないような顔で、俺を見ていた。
「少し話があるの。放課後、時間を空けておいてくれる?」
「……内容による」
「昨日決めたこと、もう少し具体的にしておきたいの」
「今、ここで話せないのか?」
「ここで?」
凛花は教室を見回した。
こちらを見ていた生徒たちが、慌てて視線を逸らす。
「……無理ね」
「だろうな」
俺たちは、数秒だけ見つめ合った。
昨日なら、ここで凛花が何か妙なことを言い出すのではないかと身構えていたと思う。
いや、今日も身構えている。
ただ、周囲に人がいる以上、あからさまな態度は取れない。
「じゃあ、放課後。昨日の場所で」
「ああ」
「忘れないでね」
「忘れたらどうなる?」
「……困るわ」
凛花は一瞬だけ言葉に詰まり、すぐにいつもの落ち着いた表情を取り戻した。
「私が、困るの」
「それは大変だ」
「本当にそう思ってる?」
「半分くらいは」
「残りの半分は?」
「俺が困らないかどうか、検討してる」
「……あなたって、本当にそういうところがあるわよね」
凛花は小さく息を吐くと、教室を出ていった。
その背中が見えなくなってから、俺はようやく弁当箱に手を伸ばした。
「なあ、蓮」
隣から健太の声がした。
「はい、なんでしょう。今度は食事中の質問か?」
「いや。さっきの白石さんとの会話」
「何か問題でも?」
「いや、問題ってほどじゃないけどさ」
健太は箸を持ったまま、首を傾げた。
「お前、白石さん相手だと、いつもより冗談が慎重になるな」
「冗談に慎重とかいう概念があるのか?」
「少なくとも、お前にはあるんだなって思った」
「新発見みたいに言うな」
「いや、実際ちょっと新鮮なんだよ」
健太はそう言って、弁当に視線を落とした。
「まあ、何かあったら言えよ。付き合い始めたばっかりだし、いろいろあるかもしれないだろ」
箸を持つ手が止まる。
「……何かって?」
「何でもだよ。お前、面倒なことがあっても一人で抱えそうだから」
健太はそれだけ言うと、何事もなかったように食事を再開した。
俺はしばらく返事をしなかった。
こいつは、本当に余計なところでまともだ。
「……ありがとな」
「おう」
「まあ、今のところは大丈夫だ」
「ならいいけど」
俺は再び箸を動かした。
大丈夫。
少なくとも、健太に心配をかけるほどのことではない。
そういうことにしておく。
今はまだ。
*
放課後。
俺は昨日と同じ旧校舎へ向かっていた。
人通りの少ない廊下を歩きながら、スマートフォンを確認する。
白石凛花から、少し前にメッセージが届いていた。
『旧校舎の空き教室。昨日と同じ場所ね』
続けて、もう一通。
『先に着いているから』
簡潔な連絡だった。
句読点も絵文字もない。
恋人同士のやり取りとして見るなら、ずいぶん事務的だろう。
そもそも恋人同士ではないので、そこに文句をつける筋合いもないのだが。
昨日、俺たちは今後のルールを決めた。
人前では恋人らしく振る舞うこと。
必要以上に二人きりにならないこと。
連絡は必要な範囲にとどめること。
そして、俺のアカウントを勝手に公開しないこと。
最後の項目だけ、ほかのものと性質が違いすぎる。
恋人同士のルールというより、犯罪被害を防ぐための注意事項だ。
俺はスマートフォンをポケットにしまった。
今日、凛花は何を話すつもりなのだろう。
周囲に怪しまれないための作戦会議か。
人前でどう振る舞うか、具体的に決めておくのか。
あるいは、また新しい無茶ぶりか。
どれもありそうで、どれも嫌だった。
旧校舎の廊下には、夕方の光が差し込んでいた。
指定された教室の前で足を止める。
ドアに手をかけ、一度だけ息を吐いた。
昨日から、俺の青春はずいぶんと予定外の方向へ進んでいる。
せめて話し合いくらいは、まともに進めたい。
そう願いながら、俺はドアを開けた。
窓際に立っていた凛花が、こちらを振り向く。
机の上には、何枚かのメモが並べられていた。
「……何、それ」
「今後のために、必要なことをまとめておいたの」
「へえ。準備がいいな」
「当然でしょ」
凛花はそう答えてから、メモに目を落とした。
そして、何かを思い出したように顔を上げる。
「それと……」
「それと?」
「二人きりのときは、蓮くんって呼んでもいい?」
……なるほど。
昨日のメッセージでは、すでにそう呼ばれていた。
ただ、実際に口にするとなると、また別の話らしい。
「昨日、文字で打つだけじゃなくて、実際に呼ぶ練習をしろって言っただろ」
「言ったわね」
「じゃあ、今さら許可を求めるところからなのか?」
「当然でしょ。本人の許可もなく呼ぶわけにはいかないじゃない」
「学校中に彼氏だと公言した人間の発言とは思えないな」
「それとこれとは別よ」
「便利な言葉だな、それ」
「あなたにだけは言われたくないわ」
凛花は少しだけ頬をこわばらせながら、俺のほうを見た。
いつもの落ち着いた表情を保とうとしているらしいが、どうにもぎこちない。
学校のマドンナともあろう人が、名前の呼び方ひとつでここまで苦戦するとは。
……いや、そもそも俺たちは偽装カップルだった。
呼び方の練習をしている場合なのだろうか。
机の上には、凛花がまとめたメモが並んでいる。
その内容を確認する前から、俺はひとつ確信していた。
どうやら、この話し合いも一筋縄ではいきそうにない。




