第4話 偽装彼氏には、説明責任がある
歓声が収まる気配はなかった。
「えっ、神谷って白石と付き合ってんの?」
「マジかよ。いつから?」
「ていうか、神谷って誰?」
最後のひと言は、できれば聞かなかったことにしたい。
知名度の問題はさておき、俺と白石凛花が付き合っているという事実は、今この場で誕生した。
誕生したばかりの事実にしては、ずいぶん大勢に祝福されていない。
いや、祝福というよりは、珍しい生き物を見つけたときの反応に近い。
「……白石。本当に、そいつと付き合ってるのか?」
先輩が俺を見た。
そいつ呼ばわりは構わない。俺だって、自分が今どんな立場に置かれているのか、いまだによく分かっていない。
問題は、その視線の先にいる白石凛花だった。
「はい。私と神谷くんは、正式にお付き合いしています」
凛花は、少しも動揺していないように見えた。
背筋を伸ばし、穏やかに微笑む。
さっきまで自分の告白練習を見られた程度で取り乱していた人間とは思えない。
人間、追い詰められると普段以上の力を発揮するという。
彼女の場合は、対人関係に限ってその能力が発動するらしい。
「……そうか」
先輩はしばらく黙り込んだ。
やがて、小さく息を吐く。
「悪かったな、白石。困らせるつもりはなかったんだが」
「いえ。先輩に悪気がなかったことは分かっています」
凛花は丁寧に頭を下げた。
周囲の空気が、少しだけ落ち着く。
先輩は俺にも目を向けた。
「神谷、だったか。悪かった」
「いえ、俺は別に……」
そこで言葉が詰まった。
悪かったも何も、俺と白石は同じクラスで顔こそ知っていたものの、昨日の放課後までまともに話したことはなかった。
それなのに、その相手と今日から恋人らしい。
我ながら、状況についていけていない。
「じゃあ、俺は行くよ」
先輩が立ち去っていく。
その背中を見送ってから、俺はようやく凛花に視線を戻した。
「……助かったわ、神谷くん」
凛花が小さな声で言った。
先ほどまでの完璧な笑顔は消えていた。
「それはどうも。ところで、一つ確認していいか」
「何かしら?」
「俺たち、いつから付き合ってることになってるんだ?」
「……」
「あと、記念日はいつだ。初めて会った日は? 初めて二人で出かけた場所は? 好きな食べ物は互いに把握しているのか? 恋人らしい思い出が一個もないんだが」
「そ、それは……」
「安心しろ。俺もない」
「あなたが安心させる側じゃないでしょう」
「恋人間の情報共有が不十分だったな。今後の課題にしよう」
「その言い方、すごく腹が立つわね……」
凛花は笑顔を保ったまま、俺の制服の袖をつまんだ。
周囲からは仲のいいカップルが内緒話をしているように見えるだろう。
実際は、公開処刑の相談である。
「とにかく、ここを離れましょう。これ以上見られていたら、面倒なことになるわ」
「もう十分面倒なことになってると思うけど」
「神谷くん」
「はい」
「今だけ、彼氏らしくしてちょうだい」
「今だけって言葉、昨日から何回聞いたかな」
「……お願い」
その声は、先ほどよりも少しだけ弱かった。
断るなら、今なのだろう。
ここで手を振りほどいて、「全部嘘です」と叫べばいい。俺が脅されていることも、彼女が俺の弱みを握っていることも、全部話してしまえばいい。
そうすれば、少なくとも俺はこの茶番から降りられる。
……もっとも、その代償は大きいのだが。
「分かったよ」
俺はため息をついた。
「ただし、後でちゃんと話をする。それは約束してくれ」
「……分かったわ」
凛花は一瞬だけ目を伏せた。
それから、俺の隣に並ぶ。
「じゃあ、行きましょう。蓮くん」
「……は?」
思わず足が止まった。
「今、なんて?」
「え?」
「蓮くんって言った?」
「言ったけれど」
「昨日まで神谷くんだったよな?」
「恋人なのだから、下の名前で呼ぶのは自然でしょう?」
「その理屈でいくと、俺たちは昨日まで他人で、今日から急に恋人になったことになるんだが」
「……そうね」
「自覚があるなら、もう少し段階を踏んでほしい」
「では、蓮くん。段階を踏むために、まずは一緒に歩いてちょうだい」
「段階の踏み方が独特すぎるだろ」
凛花は俺の袖をつまんだまま歩き出した。
仕方なく、その隣を歩く。
周囲から向けられる視線が、背中に刺さった。
好奇心。驚き。嫉妬。
そして、何よりも強く感じるのは疑問だ。
なぜ、白石凛花が俺と付き合っているのか。
それは俺自身が、もっとも知りたい疑問でもあった。
*
中庭から少し離れた校舎裏。
人通りが少なくなったところで、俺は足を止めた。
「さて」
「……何かしら?」
「説明してもらおうか」
「何を?」
「その聞き返し方、昨日もやったよな。まさかシリーズ化するつもりか?」
「分かっているわよ。偽装彼氏の件でしょう」
「そう。昨日、俺が断った時点で話は終わっていたはずなんだが」
「……」
「それなのに、今日の昼休みには全校生徒の前で交際宣言。展開が早い。ラブコメの中盤くらいの速度で進んでる」
「あなた、ラブコメという言葉を便利に使いすぎじゃない?」
「自分の身に起きてることを理解するための、数少ない手段なんでね」
凛花は黙った。
俺も、すぐには言葉を続けなかった。
ふざけていれば、多少は気が紛れる。
だが、肝心なことは何も解決していない。
「……昨日のことだけどさ」
俺は彼女を見る。
「俺のアカウントをバラすって言ったよな」
「……ええ」
「本気だったのか?」
凛花の表情が、わずかに強張った。
「……あのときは、そうするつもりだったわ」
「どうして?」
「それは……」
彼女は言いかけて、口を閉じた。
完璧な委員長。学校のマドンナ。誰にでも優しく、誰からも好かれる女子生徒。
そんな彼女が、今は言葉を探している。
俺は急かさなかった。
ただ、待った。
「……あなたに、断られたくなかったの」
「だから脅した?」
「……そうよ」
彼女は俺から目を逸らさなかった。
そこだけは、妙に潔かった。
「最低なことをしたのは分かっているわ」
「そうか」
「……怒らないの?」
「怒ってるよ」
俺は即答した。
「ただ、怒ってることと、理由を聞くことは別だろ」
凛花が少しだけ目を見開いた。
「理由を聞いたからって、許すとは言ってない。そこは勘違いするなよ」
「……分かっているわ」
「ならいい」
俺は一度、息を吐いた。
「それで、偽装彼氏ってのはいつまで続けるつもりなんだ?」
「……二学期の終わりまで」
「長いな。定期券か何か?」
「短期間で終わらせたら、かえって不自然でしょう。それに、何人かの人には、しばらく付き合っているところを見せる必要があるわ」
「なるほど。恋人という立場にも継続利用割引があるわけだ」
「ないわよ」
「じゃあ、解約手数料は?」
「……神谷くん」
「はい」
「真面目に話しているのだけれど」
「俺も真面目に、なるべく早く解約したいと思ってる」
凛花は、困ったように眉を下げた。
その表情を見て、俺は少しだけ言いすぎたかと思った。
思っただけだ。
昨日の脅迫がなかったことになるわけではない。
「……条件を決めよう」
俺は言った。
「条件?」
「偽装彼氏を続けるなら、最低限のルールは必要だろ」
「……そうね」
「まず、俺の私生活に必要以上に干渉しない。勝手に予定を決めない。誰と話すかも俺が決める。あと、学校の外でまで恋人らしく振る舞う必要があるなら、事前に相談すること」
「分かったわ」
「それと、俺のアカウントを脅しに使わない」
「……」
「これは絶対だ」
凛花は、数秒黙ってから答えた。
「……分かった。もう、あのアカウントのことを持ち出して脅したりしない」
「約束だぞ」
「ええ」
彼女は小さく頷いた。
「では、私からも一つ」
「なんだ?」
「学校では、私のことを嫌いな人みたいに扱わないでちょうだい」
「……それは難しい注文だな」
「どうしてよ」
「いや、普通に考えて、付き合ってる相手に脅迫されてるんだぞ。多少は嫌いになってもおかしくないだろ」
「それは……」
凛花が言葉に詰まった。
俺は肩をすくめる。
「まあ、露骨に避けたりはしないよ。そこまでしたら、偽装彼氏としても失格だろうし」
「……ありがとう」
彼女は、ほっとしたように笑った。
その笑顔を見て、俺は思う。
この子は、本当に不思議な人だ。
誰もが振り向くような容姿をしていて、勉強もできて、運動もできて、誰にでも優しく振る舞える。
それなのに、俺に対しては脅迫という選択肢を取った。
普通なら、もっと他にやりようがあるはずだ。
相談するとか、頼み込むとか、そもそも諦めるとか。
……いや、頼み込まれても断っていた気がするが。
「白石」
「何かしら?」
「一つだけ聞いていいか」
「ええ」
「なんで、俺なんだ?」
その瞬間。
凛花の笑顔が、ほんのわずかに固まった。
ほんの一瞬だった。
すぐにいつもの表情に戻った彼女は、落ち着いた声で答える。
「……あなたなら、都合がよかったからよ」
「都合ね」
「ええ」
「ずいぶん、正直な理由だな」
「嘘をついても仕方がないでしょう?」
「それもそうか」
俺は頷いた。
ひとまず、その答えを受け取ることにした。
本当の理由が別にあるのか。
それとも、本当にただ都合がよかっただけなのか。
今の俺には、判断する材料がない。
「じゃあ、これからよろしく。白石さん」
「……こちらこそ、神谷くん」
俺たちは、互いに笑顔を作った。
たぶん、周囲から見れば仲のいい恋人同士に見えるだろう。
実際には、片方が片方を脅して成立した関係なのだが。
……考えれば考えるほど、ひどい話である。
そのとき、凛花がふと思い出したように口を開いた。
「そういえば、神谷くん」
「ん?」
「私たち、付き合い始めたきっかけも決めておいたほうがいいわね」
「……今さら?」
「今さらでも、必要でしょう。いつから付き合っているのか聞かれるたびに、曖昧な返事をしていたら怪しまれるわ」
「それはそうだな。で、どうするんだ?」
「私たちは同じクラスでしょう? クラス替えのあと、委員の仕事を通じて挨拶や短いやり取りをするようになった。それで、昨日、私から告白した。神谷くんには一晩考える時間をもらって、今朝、付き合うことになった。そういうことにしましょう」
「……なるほど」
同じクラスで、委員の仕事を通じて多少の接点はあった。
そして昨日、白石から告白された。
俺は一晩考え、今朝になって返事をした。
作り話としては、そこまで無理があるわけでもない。
少なくとも、俺たちが今この場で考えつく設定としては上出来だろう。
「ただし、昨日の告白について詳しく聞かれたらどうする?」
「そ、それは……」
「告白の言葉は? どこで? 何時ごろ? 俺はなんて返事をした?」
「……細かすぎない?」
「恋愛というのは、細部に宿るんだろ?」
「そういうことを言うときだけ、妙に詳しいわね……」
「好きな分野だからな」
「……恋愛が?」
「二次元のな」
「そこは一貫しているのね」
「残念ながら」
凛花は少し考え込み、それから口を開いた。
「告白の言葉は……『好きです。付き合ってください』でいいでしょう」
「ずいぶん普通だな」
「普通じゃ駄目なの?」
「いや。白石凛花が告白するなら、もっとこう……相手の記憶に一生残るような言葉を使うのかと思ってた」
「告白を何だと思っているのよ」
「一世一代のイベント?」
「……あなた、恋愛を二次元で学びすぎじゃない?」
「お互い様だろ。で、場所は?」
「……昨日の放課後、校舎の裏」
「校舎の裏ね。分かった」
実際には、昨日の旧校舎で彼女が言ったのは「彼氏になりなさい」だった。
告白というより、命令に近い。
だが、その事実を正直に説明するわけにもいかない。
「じゃあ、昨日は返事を保留して、今朝から交際開始。周りに公表したのが今日。これで統一しよう」
「ええ。それでお願い」
「あと、設定を忘れないようにしてくれよ。俺たちの記憶力まで偽装する必要はないからな」
「分かっているわ」
「本当か?」
「……たぶん」
「そこは自信を持てよ」
俺はため息をついた。
こうして、俺たちの偽装交際には、最低限の設定が追加された。
同じクラスで、委員の仕事を通じて多少の接点があった二人。
昨日、凛花が蓮に告白し、蓮は一晩考えたうえで今朝その返事をした。
そして今日、二人は交際を公表した。
……よく考えると、俺が彼女から告白されたという設定になっている。
実際には脅迫されたわけだが。
人の人生とは、つくづくままならない。
「そういえば、神谷くん」
「ん?」
「連絡先、交換しておきましょう」
「今朝しただろ」
「……そうだったわね」
おい。
まさかとは思うが。
「白石。ひょっとして、俺の連絡先を使って何をするか、まだ何も考えていないのか?」
「そんなことはないわ」
「じゃあ、何をするんだ?」
「……恋人らしい連絡を?」
「具体性が行方不明なんだよ」
凛花は少し考え込んだあと、スマートフォンを操作した。
俺のスマートフォンが震える。
画面を見ると、彼女からメッセージが届いていた。
『これからよろしくね、蓮くん』
「……」
「どうかしら?」
「白石」
「はい」
「まずは、俺の名前を呼ぶところから練習したほうがいいと思う」
「今、呼んだでしょう?」
「文章でな」
「……難しいわね、恋人って」
「その台詞、たぶん俺のほうが言いたい」
こうして俺は、学校のマドンナの偽装彼氏になった。
交際初日に俺たちが決めたのは、今後のルールがいくつか。
そして、彼女から届いた恋人らしいメッセージ第一号は、句読点も絵文字もない短文だった。
……先が思いやられる。
そもそも、俺たちは恋人ではない。
少なくとも、俺の側にはそのつもりがない。
この関係がいつまで続くのか。
そして、白石凛花が本当は何を考えているのか。
今の俺には、まだ分からなかった。




