第2話 美少女のお願いは、お願いではない
頼むから。
そう願ったところで、目の前の状況が好転するわけではなかった。
教室の中に立つ美少女は、俺を見つめていた。
俺も彼女を見ていた。
正確には、見ざるを得なかった。
だって、目が合っているのだ。
ここで急に視線をそらすのも不自然だし、かといって見つめ返し続けるのもおかしい。
そもそも俺は、何をしているのだろう。
体育祭の備品を取りに来ただけだったはずなのに、気づけば学校一の美少女に告白されたような状況になっている。
状況だけを切り取れば、ずいぶん景気のいい話だ。
ただし、現実は小説と違う。
俺には心当たりがない。
ないったらない。
「…………」
「…………」
沈黙が続いた。
先に口を開いたのは、彼女だった。
「……見てしまったわよね。私にとって、決して見られたくない瞬間を」
声は静かだった。
その顔も、先ほどまでの動揺が嘘だったかのように落ち着いている。
なるほど。
この状況で冷静さを取り戻せるのは、さすが学校一の美少女というべきなのかもしれない。
俺なら、たぶん無理だ。
「あの、すみません。盗み聞きするつもりはなかったんです。先生に頼まれて備品を取りに来ただけで」
「言い訳は結構よ」
「いや、本当に言い訳じゃなくてですね」
「……こちらへ来なさい」
「え?」
「いいから」
彼女は教室から出てきた。
一歩、こちらへ近づく。
俺は反射的に一歩下がった。
彼女は、さらに一歩。
俺も、もう一歩下がる。
別に逃げているわけではない。人間にはそれぞれ、快適に会話できる距離というものがある。
ただ、彼女の場合、その距離を決める権利を俺にくれるつもりはないらしい。
気づけば、俺の背中が廊下の壁に触れていた。
彼女は俺の顔をじっと見上げた。
「……それで、あなたは何を見たのかしら」
「何って……告白の練習、ですよね?」
「…………」
「いや、違うんですか? 俺にはそう見えたんですが」
「……そう」
彼女の眉が、ほんのわずかに動いた。
そして次の瞬間。
ゴンッ。
「…………」
「…………」
彼女が俺の顔の横の壁に手をつこうとして、思い切り腕をぶつけた。
廊下に、妙にはっきりと音が響く。
「……大丈夫ですか?」
「大丈夫よ」
「いや、今かなりいい音が」
「大丈夫だと言っているわ」
「はい」
俺は素直に黙った。
人には、それぞれ触れてほしくない事情がある。
たとえその事情が、自分の腕を壁にぶつけたことだったとしても。
彼女は何事もなかったかのように姿勢を正した。
そして、改めて俺を見つめる。
「……見てしまったわよね。私にとって、決して見られたくない瞬間を」
「二回目ですね、その台詞」
「何か問題でも?」
「いえ。大切なことは二度言うべきだと、俺も思います」
「そう」
「ただ、腕は本当に大丈夫ですか?」
「…………」
「……すみません」
俺は謝った。
理由は自分でもよく分からなかった。
彼女は小さく息を吐き、俺から一歩離れた。
ようやく解放されたらしい。
助かった。
このまま壁と彼女に挟まれた状態が続いたら、俺は明日の朝、校内新聞に載っていたかもしれない。
見出しは、そうだな。
『二年生男子、旧校舎の壁と一体化』
記事の内容は、きっと薄い。
「……誤解しないでほしいんですが」
俺は、彼女の様子をうかがいながら口を開いた。
「俺、別に笑ったりするつもりはないですから」
「笑う?」
「はい。告白の練習をしていたことを、誰かに言いふらすつもりもありません」
彼女の表情が、わずかに変わった。
「……そう」
「むしろ、いいことだと思いますよ」
「何が?」
「誰かに気持ちを伝えるために、何度も言葉を考えるって、かなり真剣なことじゃないですか」
自分でも、少し真面目なことを言っている自覚はあった。
けれど、別に間違ったことを言っているつもりもない。
「告白って、言葉にするだけなら簡単です。でも、実際に伝えるとなると、相手の反応も気になるし、どんな言い方がいいのかも迷う。何度も練習するのは、それだけ真剣だってことだと思います」
「…………」
「だから、その……恥ずかしがる必要はないんじゃないですかね」
言い終えてから、俺は少し後悔した。
何だ、この話。
知らない女子の告白練習を見て、何を真面目に語っているのだろう。
俺は恋愛相談の専門家でもなければ、人生の指南役でもない。
ただの通りすがりだ。
備品を取りに来た、ただの通りすがり。
「……あなた」
「はい」
「妙なところで真面目なのね」
「よく言われます」
「そう」
彼女はしばらく俺を見つめていた。
先ほどまでの警戒心とは、少し違う目だった。
……いや、気のせいだろう。
俺の人生に、知らない美少女と目を合わせて意味深な空気になるようなイベントは用意されていない。
そういうのは、二次元の中だけで十分だ。
「それで」
彼女が言った。
「あなた、これからどうするつもり?」
「どうするって、備品を取りに行って帰りますけど」
「それだけ?」
「それ以外に、何かあります?」
「……そう」
彼女は再び考え込むように視線を落とした。
そして、何かを決意したように顔を上げる。
「絶対にタダでは返さないわ。このまま返すことは私の沽券に関わるもの」
「…………」
今、何と言った?
絶対にタダでは返さない。
このまま返すことは沽券に関わる。
日本語としては理解できる。
理解はできるのだが、俺の脳がその意味を受け入れることを拒否していた。
「あの……俺、何かしました?」
「あなたは、私の秘密を知ってしまった」
「告白の練習ですよね?」
「そうよ」
「それって、そんなに重大な秘密なんですか?」
「私にとっては重大なの」
彼女はきっぱりと言い切った。
なるほど。
どうやら、この人にとってはそうらしい。
他人からすれば小さなことでも、本人にとっては大問題というのは、別に珍しい話ではない。
ただ、それと俺が巻き込まれることは、また別の話だと思う。
「……分かりました。じゃあ、俺にできることがあれば」
とりあえず、話を穏便に終わらせることにした。
それが最も合理的な判断だと思ったからだ。
しかし、俺はこのとき、ひとつ大きな間違いを犯していた。
彼女が、俺の言葉を都合よく解釈する人間だということを、まだ知らなかったのである。
「そう。話が早くて助かるわ」
「え?」
彼女は、すっと背筋を伸ばした。
その姿は、さっきまで腕を壁にぶつけていた人間とは思えないほど堂々としていた。
……さて。
ここまでの経緯を説明したところで、ようやく話は第1話の冒頭に戻る。
そう。俺が学校一の美少女から、人生で初めて、そしておそらく今後も経験したくないであろう要求を突きつけられた瞬間だ。
「彼氏になりなさい」
「…………は?」
頭の中が、一瞬で空っぽになった。
今、何と言った?
彼氏。
彼氏になれ。
誰の?
俺の?
いや、違う。
待て。
話が飛躍している。
告白の練習を見た。
そのことについて話した。
それで、なぜ彼氏になる話が出てくるのだろう。
「……すみません。今、何か聞き間違えた気がするんですが」
「聞き間違いではないわ」
「そうですか」
「あなたに、私の彼氏になってほしいの」
「…………」
どうやら、聞き間違いではなかったらしい。
俺は一度、目を閉じた。
そして、ゆっくり開いた。
彼女はまだそこにいた。
当然だ。
目を閉じたくらいで人間が消えるわけがない。
そんなことは分かっている。
分かっているが、現実を受け入れるための時間が必要だった。
「……あの、彼氏というのは」
「恋人のことよ」
「言葉の意味は分かってます」
「なら、話は早いわね」
「いや、早くないです。全然早くない」
俺は頭を抱えた。
どうしてこうなった。
どうして備品を取りに来ただけの俺が、知らない女子から彼氏になれと言われているのだろう。
しかも、この人はさっきから一度も冗談を言っているようには見えない。
冗談なら、まだよかった。
「……理由を聞いても?」
「偽装彼氏になってほしいの」
「偽装?」
「ええ。本当に付き合うわけではないわ。周囲にだけ、付き合っているように見せるの」
「……何のために?」
彼女は、ほんの少しだけ視線をそらした。
その仕草には、先ほどまでの堂々とした態度とは違う、微妙なためらいがあった。
「……告白されるのに、疲れたのよ」
「は?」
「告白よ。何度も何度も呼び止められて、そのたびに断らなくてはいけない。相手に悪意があるわけではないから、雑に扱うわけにもいかないでしょう?」
「まあ、それは……」
「彼氏がいると分かれば、告白してくる人も減るはずよ」
言っていることは、分からなくもない。
分からなくもないが。
「いや、それなら普通に彼氏がいるって言えばいいんじゃないですか?」
「実際にはいないもの」
「…………」
「だから、あなたにお願いしているの」
「お願いの仕方がずいぶん独特ですね」
「そう?」
「そうです」
彼女は首をかしげた。
本当に不思議そうだった。
この人は、自分の要求がどれほど非常識なのか、まるで理解していないのかもしれない。
いや、そんなはずはない。
学校一の美少女ともなれば、当然、周囲からの評価も高いだろう。人付き合いだって、俺よりずっと慣れているに違いない。
それなのに、どうして俺にこんな話を持ちかけるのだろう。
「……そもそも、どうして俺なんですか?」
「それは……私が学級委員長で、かつ学校のマドンナだからよ」
「し、知らなかった……!」
思わず声が裏返った。
いや、知っている。
学級委員長なのは知っているし、学校中の男子が彼女の名前を知っていることも知っている。
さっきから顔を見ていれば分かる。
ただ、彼女があまりにも堂々と言い切るものだから、つい反応に困ったのだ。
「学級委員長で、しかも学校のマドンナともなれば……そんなことまで把握できるものなのか!」
「…………」
彼女は、しばらく無言で俺を見ていた。
「……身につかないわよ」
「え?」
「いや、何でもないわ」
何が身につかないのかは分からなかった。
分からなかったが、聞かないことにした。
人には、それぞれ触れてほしくない事情がある。
たぶん。
きっと。
おそらく。
「それで、どうするの?」
彼女は、当然のように俺の返事を待っていた。
まるで、俺が引き受けることは決まっていると言わんばかりに。
いや、待て。
まだ何も決まっていない。
俺は今、人生で初めて、学校一の美少女から偽装彼氏になれと言われている。
こんなこと、普通に生きていたらそうそう起きるものではない。
いや、普通に生きていたら起きない。
起きてたまるか。
俺はただ、平穏な高校生活を送りたいだけなのだ。
漫画とアニメとライトノベルを楽しみ、気の合う友人とくだらない話をして、面倒なことにはなるべく関わらずに生きていく。
それで十分だった。
それなのに。
目の前の美少女は、そんな俺の人生設計など知ったことではないという顔で、こちらを見つめている。
……なんだ、このラノベ主人公みたいな展開は。
次回、第3話から、あらすじにも書いた脅迫展開が始まります。
果たして蓮は、凛花の要求を拒み通せるのか。
ぜひ続けてお楽しみください!




