第1話 青春は、こちらの都合を考えない
「彼氏になりなさい」
「…………は?」
頭の中が、一瞬で空っぽになった。
今、何と言った?
彼氏。
彼氏になれ。
誰の?
俺が?
目の前にいるのは、学校一の美少女として知られる女子だった。
成績優秀、運動もできて、教師からの信頼も厚い。おまけに、告白されることも珍しくないという、いわゆる学校のマドンナ。
そんな彼女が、なぜか俺に向かって、彼氏になれと命じている。
もちろん、俺たちは付き合っていない。
そもそも、こんな要求をされる心当たりすらなかった。
……いや、正確には、心当たりがないどころか、状況そのものが理解できていない。
俺はただ、平穏な高校生活を送りたいだけだったのに。
いったい俺は、なぜ学校のマドンナから、こんな無茶な要求を突きつけられることになったのか。
話は、ほんの数時間前にさかのぼる。
*
高校二年生になって、そろそろ一か月が経とうとしていた。
クラス替えにも慣れた。新しい担任の顔と名前も一致した。購買で人気の焼きそばパンを手に入れるには、昼休みのチャイムが鳴る前から動く必要があることも学んだ。
要するに、だいたいのことは去年と同じだった。
「神谷、お前さ。昨日の新刊、もう読んだ?」
昼休み、机を向かい合わせにして弁当を食べていた佐伯健太が、唐突に聞いてきた。
短めの黒髪に、少し無造作な前髪。身長も体格も平均的で、表情がよく動く。初対面の相手でも話しかけやすそうな雰囲気のある男だ。
ただし、口を開けばツッコミが妙に早い。
「読んだ」
「早くね? 昨日の帰りに買ったんだろ」
「面白かったからな。気づいたら最後まで読んでた」
「お前、読むとき本当に周りのこと気にしなくなるよな。昨日、メッセージ送ったのに全然返ってこなかったし」
「読書中だった」
「既読がついたの、夜中の二時だったけどな」
「それは作品の引きが強すぎた。作者の責任だ」
「責任転嫁するな」
健太は呆れたように笑い、お茶を飲んだ。
こいつは俺の趣味をよく知っている。
漫画、アニメ、ライトノベル。いわゆる二次元と呼ばれるものが、俺は昔から好きだった。
中でも恋愛ものは、登場人物の言葉や行動を細かく考えながら読むのが楽しい。
「で、どうだったんだよ。あのラノベ」
「よかったぞ。特に終盤の告白シーン」
「お前、そこ好きだよな」
「今回は告白そのものより、そこに至るまでの会話がよかった。主人公が何気なく言ったことをヒロインが覚えていて、それが最後に効いてくるだろ。ああいう積み重ねがあると、告白の説得力が全然違うんだよ」
「……お前、恋愛ものの話になると急に饒舌になるよな」
「好きなものの話をして何が悪い」
「悪くはないけどさ。さっきまで別の話してた人間と同一人物とは思えない」
「人間には多面性があるんだよ」
「便利な言葉だな、多面性」
好きが高じて、俺は匿名のアカウントまで運営している。
名前は『恋愛構造研究室』。
漫画やアニメ、ライトノベルの恋愛描写を分析し、登場人物の心理や会話の意味、二人の関係が変化していく過程について考察を投稿するアカウントだ。
感想を一言書いて終わり、という使い方はしていない。気づけば長文になり、コメント欄で議論することもある。
始めたのは中学に上がる前。現実の恋愛で何かあったから、二次元にのめり込んだわけではない。
順番は逆だ。
「そういや、昨日のアカウントの投稿も長かったな」
「今回は論点が多かったからな」
「いつも長いだろ」
「短くまとめると、誤解が生じる」
「お前の文章を最後まで読む人間が、誤解を恐れるほどいるのか?」
「少なくとも、お前は読んでるだろ」
「おすすめに流れてきたんだよ。お前のアカウントだって知ってるから、つい開いちまうだけで」
「つまり、常連読者ということか」
「都合よく解釈するな」
別に、誰かを論破したくてやっているわけではない。
好きなものについて、真面目に考えたいだけだ。
物語なら、気になった台詞を何度でも読み返せる。あのとき、どうして彼女は黙ったのか。何気ない一言には、どんな気持ちが隠れていたのか。
ページを戻して、もう一度考えることができる。
現実は、そうはいかない。
一度口にした言葉は、なかったことにはできない。相手の気持ちだって、都合よく読み解けるわけじゃない。
……まあ、だからこそ物語が好きなのかもしれない。
少なくとも今の俺には、物語を楽しむくらいがちょうどいい。
「ところで神谷。体育祭って好き?」
健太が唐突に話題を変えた。
「何だよ、急に」
「クラスで何やるかって話になっててさ。そろそろ準備を始めたいらしい」
「へえ。頑張ってほしいね」
「お前も同じクラスだろ。他人事みたいに言うなよ」
「参加はするぞ。ただ、必要以上に張り切るつもりがないだけだ」
「要するに、面倒くさいんだろ」
「違う。共同体において必要なのは、相互理解と適度な無関心だ」
「体育祭の話から、ずいぶん遠いところに着地したな」
「人間関係も体育祭も、距離感が大事ってことだよ」
「お前、走る前から距離を取ろうとするなよ」
健太は呆れたように笑った。
ちなみに、友人が少ないことに特段の不満はない。
クラスメイトとは普通に話すし、話しかけられれば普通に返す。必要なら冗談も言う。別に人付き合いが苦手なわけではない。
ただ、友人というものは、増やせば増やすほど管理が難しくなる。
遊びの予定に誕生日、そして「最近どう?」という範囲が広すぎる質問。人間関係とは、思いのほか手間がかかるものなのだ。
「じゃあ、リレーの選手とか頼まれたらどうする?」
「足の速い奴に譲る」
「お前、意外と足速いだろ」
「意外とは余計だ。俺は自分の身体能力を正しく把握している」
「自分で言うなよ」
「事実の確認に謙遜を挟む必要はない」
「そういうところだぞ」
健太は、それ以上説明する気をなくしたらしい。
それと、自分の容姿についても、別に悲観してはいない。
身長は百七十八センチ。髪も服装も高校生として人並みには気を使っているし、体型もそれなりに引き締まっている。
顔立ちだって、まあ悪くない。
……うん。やっぱり俺、結構いい男だな。
いや、本当にね。
ここで謙遜する意味もないだろう。鏡に向かってまで嘘をつく必要はない。
ただ、これを他人に言ったら普通に嫌な奴なので、普段は黙っている。
その程度の分別はある。
そんな話をしながら、昼休みはいつも通りに終わった。
*
午後の授業が終わる頃には、窓の外から運動部の掛け声が聞こえていた。
四月も終わりに近づくと、日が落ちるのが少しずつ遅くなる。
俺は帰り支度を始めたところで、担任の三浦先生に呼び止められた。
三浦先生は、微妙に伸びた顎の髭を指先でいじりながら、眠たそうな目で俺を見た。
「神谷、悪い。ちょっと頼まれてくれないか」
「内容によります」
「教師に向かって、最初に条件交渉を持ちかけるな」
「社会に出る前の練習です」
「その社会性を、もう少し別の方向に使ってくれ」
三浦先生は教卓の上に置いてあった紙を俺に渡した。
「体育祭で使う備品を、旧校舎の倉庫から持ってきてほしいんだ。段ボール二箱くらい。悪いが、頼めるか?」
「分かりました。鍵は?」
「職員室にある。終わったら返してくれ」
教師からの頼み事というのは、断る理由を探すほうが面倒な場合が多い。
頼まれたことを片づけて、さっさと帰る。それが一番手間が少ないのだ。
俺は職員室で鍵を受け取り、旧校舎へ向かった。
旧校舎は、現在使われている校舎から渡り廊下を少し歩いた先にある。普段は授業で使われていない教室が多く、放課後に訪れる生徒は少ない。体育祭や文化祭の備品を保管する倉庫も、そちらにまとめられていた。
渡り廊下を進みながら、俺はスマートフォンで時間を確認した。
まだ帰宅部が活動を終えるには早い時間だ。
……帰宅部というものは、いったい何時に活動を終えるのだろう。
活動開始と同時に帰宅するのか。それとも、帰宅した時点で活動終了なのか。
考えれば考えるほど、哲学的な問題に思えてきた。
まあ、どうでもいい。
俺は旧校舎の扉を開け、薄暗い廊下へ足を踏み入れた。
*
旧校舎の中は、思っていたより静かだった。
窓から差し込む夕方の光が、廊下の床に細長い影を作っている。
案内図を確認しながら目的の倉庫へ向かっていると、廊下の奥から声が聞こえてきた。
「……もう一度」
女子の声だった。
誰かいるのだろうか。
声のした方を見ると、廊下に並ぶ教室のうち、一つだけ扉がわずかに開いていた。
その向こうから、再び声が聞こえる。
「私と……」
少しの沈黙。
「……私と付き合ってください」
告白の練習、だろうか。
俺は思わず足を止めた。
「……違う。これでは駄目ね」
どうやら、今の台詞に納得がいかなかったらしい。
「もう少し自然に……いえ、自然というのは、どうすればいいのかしら」
真剣だった。
声の調子からして、ふざけているわけではなさそうだ。誰かに告白するために、ここで一人、何度も練習しているのだろう。
……いや、だからといって盗み聞きしていい理由にはならない。
俺はそっと、その場を離れようとした。
他人の告白練習を見届ける義務など、俺にはない。
今日の俺の目的は、倉庫から備品を運び出すことだ。恋愛イベントへの参加ではない。
そのときだった。
「よし……!」
教室の中から、声が聞こえた。
「次こそは……!」
どうやら、もう一度練習するらしい。
俺は今度こそ、その場を離れようとした。
そう自分に言い聞かせ、歩き出そうとした、その瞬間。
「私と付き合ってください!」
先ほどよりも大きな声が、旧校舎に響いた。
思わず、教室の方へ目を向けた。
少し開いた扉の向こうに、一人の女子が立っていた。
顎のラインで切りそろえられた、艶のある黒髪のボブ。すっきりとした輪郭に、驚くほど整った目鼻立ち。涼しげな目元には、どこか気品さえ感じられる。
背筋の伸びた立ち姿はすらりとしていて、細身ながらも女性らしいしなやかなシルエットを備えていた。
美しさとスタイルのよさが、どちらも自然に両立している。
夕方の光を背にした彼女は、まるで映画のワンシーンから抜け出してきたような美少女だった。
そして、目が合った。
「…………」
「…………」
彼女は、ぴたりと動きを止めた。
俺も、動けなかった。
どうやら、告白の練習に夢中で、俺が廊下にいることに気づいていなかったらしい。
つまり。
今の台詞は、練習の一環だったわけだ。
……そうだよな?
そうであってくれ。
だが、彼女は何も言わなかった。
ただ、驚いたような顔で俺を見つめている。
俺も、どう反応すればいいのか分からず、彼女を見つめ返すしかなかった。
いや、違う。
これは、そういう状況に見えているだけだ。
そうであってくれ。
頼むから。




