夜の帳と、数字の裏側
カインの苛烈な追撃を振り切り、夜の厚い雲の下、ジンは機体を低空飛行させていた。
レーダーに映る反応はない。しばしの休息だった。
コックピットの計器が放つ緑色の光が、狭い室内を淡く照らしている。
風を切る音だけが響く静寂の中、ジンは自動操縦に切り替え、深く座席に背を預けた。
後部座席では、リリアが膝を抱え、震える肩を小さく丸めていた。
「……怖かったか」 ジンのぶっきらぼうな問いに、リリアはゆっくりと顔を上げた。
その頬には、先ほどの機動で飛んだ火花の煤が薄くついている。
「いえ……。ただ、不思議だったのです。カイン様は、私を『資産』だと言いました。ジンさんも、私を『五億メニカ』だと言いました」
彼女は自分の首元の銀のチョーカーを、壊れ物を触るように指でなぞる。
「でも、あの方は私を殺そうとしました。ジンさんは、私を守るために、ご自分の……大切に貯めていたはずの『本物の金』を、弾丸として捨ててしまった」
リリアの瞳が、ジンの背中を射抜くように見つめる。
「本当は、私に五億の価値なんてないことを、知っているのでしょう? 銀行が口座を凍結した時点で、私はもう……ただの『不良債権』なのに」
ジンは無言で、手元の小さな端末を操作した。
そこには、かつての故郷、旧アルタ州の衛星写真が表示されている。
今は荒野と化した、色彩のない土地だ。
「……俺にとって、金はただの数字じゃねえ。奪われたものを取り戻すための、唯一の物差しだ」
ジンはリリアの方を向かずに続けた。
「あいつらは数字が全てだ。だから数字が合わなくなれば、平気で切り捨てる。だがな、王女様。俺が撃ち出したあの硬貨は、数字じゃ計れねえ『重さ』があるんだよ。ハッキングもできねえ、凍結もできねえ。物理的に存在する、ただの金属の塊だ」
ジンは少しだけ声を低くした。
「あんたの価値も同じだ。銀行がどう言おうと、俺があんたを五億だと決めたなら、あんたは五億なんだよ。……誰にも、一メニカだって値引きはさせねえ」 リリアは目を見開いた。
この世界で、誰からも「人間」として扱われず、ただの「国家の残高」として数えられてきた彼女にとって、ジンの言葉はあまりに独善的で、そして、救いだった。「……傲慢な、守銭奴さんですね」
リリアが、初めて微かに、本当の意味で笑った。
だが、その微笑みはすぐに消える。
「でも、気をつけて。……マスターキーが一度覚醒すれば、世界銀行は手段を選ばなくなります。私が嫁ぐはずだったゼニスの王子も、カイン様も、……誰も、本当の私なんて望んでいない」
「……だろうな。俺も、あんたの本当の顔なんて興味ねえよ」
ジンは再び前方を向いた。
「だが、俺が買った以上、最後まで使い倒させてもらう。……まずはそのマスターキーで、次の補給ポイントのセキュリティを少しだけ『値切り』させてやる」
夜の闇の中、コイン・トスは孤独な光を放ちながら進む。
二人の間に流れる空気は、契約書にサインした時とは、わずかに、だが確実に変わっていた。




