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雛代の箱庭  作者: N


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9/25

9話


夜、三人で布団に入ったあとも、

すぐには眠くならなかった。


囲炉裏の火はもう小さくなっていて、

部屋の隅にだけ赤い色を残している。


ウメが仰向けのまま、天井を見て言った。


「もっと人が増えたら、ここってどうなるんだろうね」


私は隣で目を閉じたまま、少し考える。


「どうなるって?」


「んー……もっと村っぽくなるのかなって」


ウメは楽しそうに言う。


「家が増えて、話す人が増えて、誰かが笑ってて。あと、お店とかもできるかも」


「お店?」


「うん。甘いもの売ってるとことか」


「甘いもの……」


「雛、甘いもの好きそう」


「好きかも」


正直に言うと、

ウメがくすっと笑う。


反対側で、キクも静かに笑った気配がした。


「じゃあさ」


ウメがまた楽しそうに続ける。


「恋人とかもできるのかな」


「こいびと?」


思わず聞き返すと、

ウメが少し起き上がる。


「え、知らないの?」


「……あんまり」


そう答えると、

ウメは驚いたように目を丸くした。


「キクは?」


「言葉は知ってるよ」


キクの声は落ち着いていた。


「そっかあ……」


ウメは少し考えてから、

説明するみたいに言う。


「一緒にいたいとか、特別になりたい人みたいな、そういう感じ」


私は天井を見ながら、それを想像しようとした。


好きな人と一緒にいる。

特別になる。


言葉の形は分かるのに、

うまく輪郭が出ない。


「……それ、友達とどう違うの?」


そう聞くと、

ウメが止まった。


「え?」


「だって、友達も一緒にいたいよね」


私は素直に続ける。


「仲良しなら、特別なのも分かるし」


少し考えてから、

自分でも知っていることだけを並べる。


「なら恋人同士って何するの?」


「な、何するって……」


ウメの声がちょっと困る。


「ええと、一緒に寝たりとか、抱き合ったり」


私はすぐに反対側を向いた。


「キク、するよね?」


暗がりの中で、キクが静かに答える。


「するね」


「ほら」


私はまたウメのほうを向く。


「それなら友達でもするよ」


ウメはしばらく黙ったあと、

慎重に聞いた。


「……じゃあ、口付けは?」


その問いに、

私は少しだけ黙った。


その言葉だけが、

今までのものと少し違う位置にある気がした。


「……それはしてない」


正直にそう言うと、

ウメが目に見えるように息を吐いた。


私はその反応の意味がよく分からなくて、

少しだけ首を傾げる。


「口付けをしたら、恋人なの?」


そう聞くと、

ウメは慌てて首を振る気配がした。


「絶対ってわけじゃないけど……でも、かなりそういう感じ」


私はその答えを、

胸の中でゆっくり転がした。


一緒に寝たり、

触ったり、

くっついたりするのは、

まだ友達のままでもある。


でも、口付けは少し違う。


「……やっぱり、恋人って難しいね」


ぽつりと言うと、

キクが小さく笑った。


「うん。難しい」


その返事が妙に素直で、

私は少しだけ可笑しくなる。


ウメはまだどこか納得していないみたいに、

小さく唸った。


「いやでも、ほんとに普通の友達よりはだいぶ近いからね、二人」


するとウメが、

ふと思い出したみたいに言う。


「そうだ。恋人って、文とかも送るよ」


「ふみ?」


「手紙。好きです、とか、会いたい、とか、そういうの書いて渡したりするの」


私は少しだけ瞬いた。


手紙。


それも、やっぱり遠い言葉だった。


「……私は、もらっても読めないし」


ぽつりとそう言うと、

ウメが「え?」と小さく声を上げた。


「自分の名前は、なんとなく分かるよ」


石碑の文字。

なぞった感触。

雛、という形だけは、目で見ても少し分かる。


「でも、ほかは読めない」


そう言うと、

しばらく沈黙が落ちた。


ウメはたぶん驚いていた。

でも、どう返せばいいのか迷っている気配がした。


「じゃあ、恋文とかもらっても読めないんだ」


「こいぶみ」


私はその言葉を繰り返した。


なんだか、

それだけで違う世界のものみたいだった。


好きだとか、会いたいとか、

そういう気持ちを文字にして渡すこと。


それを受け取って、

何度も読み返したりすること。


そんなことが本当にあるのなら、

それはずいぶん遠くて、きれいなもののように思えた。


「……やっぱり、私には関係ない感じする」


そう言って少し笑うと、

反対側で衣擦れの音がした。


キクがこちらを向いた気配がする。


「じゃあ、教えるよ」


静かな声だった。


私は少しだけ目を開ける。


「え?」


キクは落ち着いた声で続ける。


「読み方も、書き方も。ヒナが知りたいなら」


その言い方は自然だった。

何か特別なことを言っているみたいじゃなく、

明日、花を見に行こう、

くらいの静かさで。


でも私は、すぐには返事ができなかった。

毎日キクが紙に何かを書いているから、気になって覗いてみたことがあったけど、何一つ理解できない物を書いていたので躊躇った。


「……難しくない?」


そう聞くと、

キクは少しだけ笑った気配がした。


「最初は好きなものだけでいいよ」


「そんなのでいいの?」


「うん。好きなものを知っていくうちに気になるものが出てくるから。」


「そうなのかな」


「そうだよ。その度に教えてあげる。」


「キクが教えてくれるならお願いしようかな」


そのまま少し間があって、

ウメがぽつりと言う。


「でも、人が増えたら、そういうのもあるのかなあ」


私は首を傾げた。


「そういうの?」


「夫婦とか。家族とか」


ウメは、少し恥ずかしそうに続ける。


「それでさ、もしここで生まれる子がいたら、どうなるんだろうって」


その瞬間、

部屋の空気が少しだけ変わった気がした。


囲炉裏の火が、かすかに揺れる。


私は目を開けた。


暗がりの向こうで、

キクの横顔だけがぼんやり見える。


キクは少しのあいだ黙っていた。


それから、静かに言った。


「……ここで生まれる子はいないよ」


ウメが瞬く。


「え?」


「増えることと、生まれることは違うから」


声はやわらかかった。


優しいままだった。

でも、その言葉だけ、

妙にまっすぐで冷たかった。


「ここに来る子はいても、ここで生まれる子はいない」


私は何も言えなかった。


さっきまで、

家が増えて、人が増えて、笑い声が増えて、

そんなことを少しだけ想像していたのに。


キクの一言で、

ここが何なのかを急に思い出した。


死んだ子たちの場所。


生きているみたいに季節を作って、

食事の真似をして、

眠って、笑って、

そうしているだけの場所。


ウメは少し黙ってから、

「……そっか」と小さく言った。


残念そうにも聞こえたし、

納得したようにも聞こえた。


そのあと、ウメが笑う。


「それでも、こうして一緒に寝たり話したりできるの、なんか不思議でいいね」


私はその言葉に少しだけ救われる。


「……うん」


小さく頷くと、

反対側でキクの衣擦れの音がした。


「そうだね」


その声はもう、いつものやわらかさに戻っていた。


「不思議でいい」


さっきまでの話が消えきらないまま、

部屋にはやわらかな静けさが残っている。


「……そっか」


ウメが、小さく言った。


残念そうでもあり、

ちゃんと受け止めようとしている声でもあった。


「ここで生まれる子はいないんだね」


私は天井を見たまま、

ぼんやりと考えていた。


生まれる子はいない。


夫婦も、

家族も、

私にはなかった未来だ。


もし生きていたら、

そういうものを知れたのだろうか。


分からない。

でも、少しだけ眩しいと思った。


その眩しさを、

ここに来る誰かが持っていたら。

あるいは、持てないまま終わったのだとしたら。


「……でも」


気づけば、口を開いていた。


ウメが「うん?」と返す。

キクは何も言わない。


「生まれることはなくても、さ」


私は少しずつ言葉を探す。


「その代わりに、ここに来た子が……そういうの、少しでも埋められるなら」


自分で言いながら、

うまくまとまっていないのが分かった。


でも止められなかった。


「寂しかった子とか、ひとりだった子とか。生きてる間にできなかったこと、ここで少しでもできるなら……」


ウメが、息を止めたみたいに静かになる。


私はそこで初めて、少しだけ横を向いた。


「人、増やしてみる?」


言ってから、

自分でも少し驚いた。


それは軽い思いつきみたいでもあり、

ずっと前から胸のどこかにあった願いみたいでもあった。


ウメはしばらく何も言わなかった。


暗がりの中で、

目だけが丸く開いているのが分かる。


「……いいの?」


声が小さい。

嬉しさと、信じられなさが混ざっていた。


私は頷く。


「絶対ってわけじゃないけど。もし、ここに来たほうが寂しくない子がいるなら」


言いながら、

白い空間を思い出す。


まだ埋まっていない場所。

誰も座っていないところ。

誰の声もないまま残っている広さ。


そこに、

ひとりで来る子がまたいるかもしれない。


「私には、そういう未来なかったから」


気づけば、ぽつりと零していた。


「家族とか、普通の暮らしとか。よく分からないけど」


うまく笑えた気がしなかった。


「でも、ここなら……少しくらい、真似できるのかもしれないって」


ウメが、ゆっくり体を起こした気配がした。


布団がこすれる音。


「雛……」


その声は、泣きそうなくらいまっすぐだった。


「私、それ、すごくいいと思う」


明るく言おうとしているのに、

うまく抑えきれないみたいに弾んでいる。


「だって、ひとりで来たら絶対こわいし、何もないと余計に寂しいし……でも、誰かがいて、話せて、一緒に座れて」


言葉が少しずつ速くなる。


「そういうの、あったほうがいいよ。」


私は小さく笑った。


けれど、その笑いのあと、

ふと反対側の静けさを思い出した。


キクは何も言わなかった。


さっきから、

ただ静かにそこにいる。


寝返りを打つ音もしない。

布団を直す気配もない。


「……キク?」


呼ぶと、

少し間を置いてから返事があった。


「なに?」


声はやわらかい。

いつもと同じだった。


私は少し迷う。


何を聞きたいのか、

自分でもはっきりしないまま、

言葉だけが先に出た。


「どう思う?」


暗がりの向こうで、

キクはしばらく黙っていた。


その沈黙は重くはない。

でも、答えを選んでいる長さだった。


やがて、静かな声で言う。


「……ヒナが、そうしたいなら」


それだけだった。


反対もしない。

賛成とも、はっきり言わない。


ただ、私が望むなら、とだけ言う。


その言い方が、

やさしいはずなのに、

なぜか少しだけ胸に引っかかった。


ウメは気づいていないみたいだった。


「じゃあ、白いところ、もっと考えなきゃね」

嬉しそうに言う。

「座る場所とか、道とか、ひとりでも怖くないようにしたいし」


「うん」


私は頷く。


「そうだね」


そのとき、

かすかに衣擦れの音がした。


キクが寝返りを打ったのだと分かった。

今度は、私のほうを向く形だった。


暗くて顔までは見えない。

でも、すぐ近くに気配が来る。


「……ヒナ」


小さく呼ばれる。


「ほんとに、優しいね」


その声は穏やかだった。

やわらかくて、

責める響きなんて少しもない。


なのに私は、

なぜかすぐには返事ができなかった。


褒められたはずなのに、

胸の奥が、少しだけ冷えたからだ。


ウメはもう明るい調子で、

「ねえ、どんな子が来るかな」とか、

「年下の子もいるかな」とか、

未来の話をし始めている。


私はそれに相づちを打ちながら、

反対側の静かな気配を意識してしまう。


キクはそれ以上、何も言わなかった。

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