9話
夜、三人で布団に入ったあとも、
すぐには眠くならなかった。
囲炉裏の火はもう小さくなっていて、
部屋の隅にだけ赤い色を残している。
ウメが仰向けのまま、天井を見て言った。
「もっと人が増えたら、ここってどうなるんだろうね」
私は隣で目を閉じたまま、少し考える。
「どうなるって?」
「んー……もっと村っぽくなるのかなって」
ウメは楽しそうに言う。
「家が増えて、話す人が増えて、誰かが笑ってて。あと、お店とかもできるかも」
「お店?」
「うん。甘いもの売ってるとことか」
「甘いもの……」
「雛、甘いもの好きそう」
「好きかも」
正直に言うと、
ウメがくすっと笑う。
反対側で、キクも静かに笑った気配がした。
「じゃあさ」
ウメがまた楽しそうに続ける。
「恋人とかもできるのかな」
「こいびと?」
思わず聞き返すと、
ウメが少し起き上がる。
「え、知らないの?」
「……あんまり」
そう答えると、
ウメは驚いたように目を丸くした。
「キクは?」
「言葉は知ってるよ」
キクの声は落ち着いていた。
「そっかあ……」
ウメは少し考えてから、
説明するみたいに言う。
「一緒にいたいとか、特別になりたい人みたいな、そういう感じ」
私は天井を見ながら、それを想像しようとした。
好きな人と一緒にいる。
特別になる。
言葉の形は分かるのに、
うまく輪郭が出ない。
「……それ、友達とどう違うの?」
そう聞くと、
ウメが止まった。
「え?」
「だって、友達も一緒にいたいよね」
私は素直に続ける。
「仲良しなら、特別なのも分かるし」
少し考えてから、
自分でも知っていることだけを並べる。
「なら恋人同士って何するの?」
「な、何するって……」
ウメの声がちょっと困る。
「ええと、一緒に寝たりとか、抱き合ったり」
私はすぐに反対側を向いた。
「キク、するよね?」
暗がりの中で、キクが静かに答える。
「するね」
「ほら」
私はまたウメのほうを向く。
「それなら友達でもするよ」
ウメはしばらく黙ったあと、
慎重に聞いた。
「……じゃあ、口付けは?」
その問いに、
私は少しだけ黙った。
その言葉だけが、
今までのものと少し違う位置にある気がした。
「……それはしてない」
正直にそう言うと、
ウメが目に見えるように息を吐いた。
私はその反応の意味がよく分からなくて、
少しだけ首を傾げる。
「口付けをしたら、恋人なの?」
そう聞くと、
ウメは慌てて首を振る気配がした。
「絶対ってわけじゃないけど……でも、かなりそういう感じ」
私はその答えを、
胸の中でゆっくり転がした。
一緒に寝たり、
触ったり、
くっついたりするのは、
まだ友達のままでもある。
でも、口付けは少し違う。
「……やっぱり、恋人って難しいね」
ぽつりと言うと、
キクが小さく笑った。
「うん。難しい」
その返事が妙に素直で、
私は少しだけ可笑しくなる。
ウメはまだどこか納得していないみたいに、
小さく唸った。
「いやでも、ほんとに普通の友達よりはだいぶ近いからね、二人」
するとウメが、
ふと思い出したみたいに言う。
「そうだ。恋人って、文とかも送るよ」
「ふみ?」
「手紙。好きです、とか、会いたい、とか、そういうの書いて渡したりするの」
私は少しだけ瞬いた。
手紙。
それも、やっぱり遠い言葉だった。
「……私は、もらっても読めないし」
ぽつりとそう言うと、
ウメが「え?」と小さく声を上げた。
「自分の名前は、なんとなく分かるよ」
石碑の文字。
なぞった感触。
雛、という形だけは、目で見ても少し分かる。
「でも、ほかは読めない」
そう言うと、
しばらく沈黙が落ちた。
ウメはたぶん驚いていた。
でも、どう返せばいいのか迷っている気配がした。
「じゃあ、恋文とかもらっても読めないんだ」
「こいぶみ」
私はその言葉を繰り返した。
なんだか、
それだけで違う世界のものみたいだった。
好きだとか、会いたいとか、
そういう気持ちを文字にして渡すこと。
それを受け取って、
何度も読み返したりすること。
そんなことが本当にあるのなら、
それはずいぶん遠くて、きれいなもののように思えた。
「……やっぱり、私には関係ない感じする」
そう言って少し笑うと、
反対側で衣擦れの音がした。
キクがこちらを向いた気配がする。
「じゃあ、教えるよ」
静かな声だった。
私は少しだけ目を開ける。
「え?」
キクは落ち着いた声で続ける。
「読み方も、書き方も。ヒナが知りたいなら」
その言い方は自然だった。
何か特別なことを言っているみたいじゃなく、
明日、花を見に行こう、
くらいの静かさで。
でも私は、すぐには返事ができなかった。
毎日キクが紙に何かを書いているから、気になって覗いてみたことがあったけど、何一つ理解できない物を書いていたので躊躇った。
「……難しくない?」
そう聞くと、
キクは少しだけ笑った気配がした。
「最初は好きなものだけでいいよ」
「そんなのでいいの?」
「うん。好きなものを知っていくうちに気になるものが出てくるから。」
「そうなのかな」
「そうだよ。その度に教えてあげる。」
「キクが教えてくれるならお願いしようかな」
そのまま少し間があって、
ウメがぽつりと言う。
「でも、人が増えたら、そういうのもあるのかなあ」
私は首を傾げた。
「そういうの?」
「夫婦とか。家族とか」
ウメは、少し恥ずかしそうに続ける。
「それでさ、もしここで生まれる子がいたら、どうなるんだろうって」
その瞬間、
部屋の空気が少しだけ変わった気がした。
囲炉裏の火が、かすかに揺れる。
私は目を開けた。
暗がりの向こうで、
キクの横顔だけがぼんやり見える。
キクは少しのあいだ黙っていた。
それから、静かに言った。
「……ここで生まれる子はいないよ」
ウメが瞬く。
「え?」
「増えることと、生まれることは違うから」
声はやわらかかった。
優しいままだった。
でも、その言葉だけ、
妙にまっすぐで冷たかった。
「ここに来る子はいても、ここで生まれる子はいない」
私は何も言えなかった。
さっきまで、
家が増えて、人が増えて、笑い声が増えて、
そんなことを少しだけ想像していたのに。
キクの一言で、
ここが何なのかを急に思い出した。
死んだ子たちの場所。
生きているみたいに季節を作って、
食事の真似をして、
眠って、笑って、
そうしているだけの場所。
ウメは少し黙ってから、
「……そっか」と小さく言った。
残念そうにも聞こえたし、
納得したようにも聞こえた。
そのあと、ウメが笑う。
「それでも、こうして一緒に寝たり話したりできるの、なんか不思議でいいね」
私はその言葉に少しだけ救われる。
「……うん」
小さく頷くと、
反対側でキクの衣擦れの音がした。
「そうだね」
その声はもう、いつものやわらかさに戻っていた。
「不思議でいい」
さっきまでの話が消えきらないまま、
部屋にはやわらかな静けさが残っている。
「……そっか」
ウメが、小さく言った。
残念そうでもあり、
ちゃんと受け止めようとしている声でもあった。
「ここで生まれる子はいないんだね」
私は天井を見たまま、
ぼんやりと考えていた。
生まれる子はいない。
夫婦も、
家族も、
私にはなかった未来だ。
もし生きていたら、
そういうものを知れたのだろうか。
分からない。
でも、少しだけ眩しいと思った。
その眩しさを、
ここに来る誰かが持っていたら。
あるいは、持てないまま終わったのだとしたら。
「……でも」
気づけば、口を開いていた。
ウメが「うん?」と返す。
キクは何も言わない。
「生まれることはなくても、さ」
私は少しずつ言葉を探す。
「その代わりに、ここに来た子が……そういうの、少しでも埋められるなら」
自分で言いながら、
うまくまとまっていないのが分かった。
でも止められなかった。
「寂しかった子とか、ひとりだった子とか。生きてる間にできなかったこと、ここで少しでもできるなら……」
ウメが、息を止めたみたいに静かになる。
私はそこで初めて、少しだけ横を向いた。
「人、増やしてみる?」
言ってから、
自分でも少し驚いた。
それは軽い思いつきみたいでもあり、
ずっと前から胸のどこかにあった願いみたいでもあった。
ウメはしばらく何も言わなかった。
暗がりの中で、
目だけが丸く開いているのが分かる。
「……いいの?」
声が小さい。
嬉しさと、信じられなさが混ざっていた。
私は頷く。
「絶対ってわけじゃないけど。もし、ここに来たほうが寂しくない子がいるなら」
言いながら、
白い空間を思い出す。
まだ埋まっていない場所。
誰も座っていないところ。
誰の声もないまま残っている広さ。
そこに、
ひとりで来る子がまたいるかもしれない。
「私には、そういう未来なかったから」
気づけば、ぽつりと零していた。
「家族とか、普通の暮らしとか。よく分からないけど」
うまく笑えた気がしなかった。
「でも、ここなら……少しくらい、真似できるのかもしれないって」
ウメが、ゆっくり体を起こした気配がした。
布団がこすれる音。
「雛……」
その声は、泣きそうなくらいまっすぐだった。
「私、それ、すごくいいと思う」
明るく言おうとしているのに、
うまく抑えきれないみたいに弾んでいる。
「だって、ひとりで来たら絶対こわいし、何もないと余計に寂しいし……でも、誰かがいて、話せて、一緒に座れて」
言葉が少しずつ速くなる。
「そういうの、あったほうがいいよ。」
私は小さく笑った。
けれど、その笑いのあと、
ふと反対側の静けさを思い出した。
キクは何も言わなかった。
さっきから、
ただ静かにそこにいる。
寝返りを打つ音もしない。
布団を直す気配もない。
「……キク?」
呼ぶと、
少し間を置いてから返事があった。
「なに?」
声はやわらかい。
いつもと同じだった。
私は少し迷う。
何を聞きたいのか、
自分でもはっきりしないまま、
言葉だけが先に出た。
「どう思う?」
暗がりの向こうで、
キクはしばらく黙っていた。
その沈黙は重くはない。
でも、答えを選んでいる長さだった。
やがて、静かな声で言う。
「……ヒナが、そうしたいなら」
それだけだった。
反対もしない。
賛成とも、はっきり言わない。
ただ、私が望むなら、とだけ言う。
その言い方が、
やさしいはずなのに、
なぜか少しだけ胸に引っかかった。
ウメは気づいていないみたいだった。
「じゃあ、白いところ、もっと考えなきゃね」
嬉しそうに言う。
「座る場所とか、道とか、ひとりでも怖くないようにしたいし」
「うん」
私は頷く。
「そうだね」
そのとき、
かすかに衣擦れの音がした。
キクが寝返りを打ったのだと分かった。
今度は、私のほうを向く形だった。
暗くて顔までは見えない。
でも、すぐ近くに気配が来る。
「……ヒナ」
小さく呼ばれる。
「ほんとに、優しいね」
その声は穏やかだった。
やわらかくて、
責める響きなんて少しもない。
なのに私は、
なぜかすぐには返事ができなかった。
褒められたはずなのに、
胸の奥が、少しだけ冷えたからだ。
ウメはもう明るい調子で、
「ねえ、どんな子が来るかな」とか、
「年下の子もいるかな」とか、
未来の話をし始めている。
私はそれに相づちを打ちながら、
反対側の静かな気配を意識してしまう。
キクはそれ以上、何も言わなかった。




