8話
昼すぎ、私たちは白い場所に作った椅子を見に行くことになった。
朝よりも少しやわらかい光が落ちていて、
景色の輪郭はどこかぼんやりしている。
椅子は白の中にぽつんとあるわけではなかった。
もうまわりには花も、道も、小さな影も増えていて、
ちゃんと「そこに置かれたもの」になっていた。
「ほら、ここ」
ウメが先に歩いていって、嬉しそうに振り返る。
「昨日よりちゃんと馴染んでる気がする」
「うん」
私は頷いた。
たしかにそうだった。
作ったばかりのときよりも、
景色の一部として落ち着いて見える。
キクは少し遅れて来た。
何も言わずに椅子を見て、
そのあと、ほんの一瞬だけ私を見た。
「座ってみようよ」
ウメが言う。
私は自然に頷く。
誰がどこに座るか、相談はしなかった。
けれど、気づけばキクが私の隣に座っていた。
反対側にウメが腰を下ろす。
三人で座ると、
思っていたよりもぴったりだった。
狭くはない。
でも、余る感じもしない。
「……すごい」
ウメが嬉しそうに言う。
「ちゃんと三人で座れる」
言いながら、
自分の膝の上に手を揃える。
その仕草が妙にきちんとしていて、
たぶん無意識なんだろうなと思った。
「ほんとだね」
私も言った。
隣ではキクが静かに座っている。
肩は触れない。
でも、少し動けば触れそうなくらいには近い。
「ねえ」
しばらくして、ウメが前を向いたまま言った。
「これ、もっと増やしたら楽しそうだね」
私はその言葉を、
最初はあまり深く考えなかった。
「増やすって?」
「こういう場所」
ウメは目を輝かせる。
「座るところとか、話せるところとか。あと、もっと人がいたら、こういう場所も増やせるでしょ?」
隣で、キクの気配がわずかに静かになった気がした。
「人がいたら、って……」
私が聞き返すと、
ウメは少しだけはにかんで笑う。
「だって、三人でもこんなに楽しいんだもん。四人とか五人とか、もっといたら、もっと賑やかになるかなって。
白いところ、まだたくさんあるし」
ウメは続ける。
「そのままにしておくより、誰かが来て、座る場所とか作って、みんなで話せたほうがいい気がする」
私は少しだけ、その景色を思い浮かべた。
私たちみたいな寂しい子がひとりでいるより、
一緒に座れる場所があるほうがいい。
そう思うのは、
そんなに変なことじゃない気がした。
「……そうだね」
気づけば、口に出していた。
「ひとりのままよりは、そのほうがいいのかも」
その瞬間、
隣でキクの手がわずかに動いた。
ウメは嬉しそうに顔を上げた。
「ほんと?」
「うん」
私は頷く。
「寂しい子が来たとき、話せる人がいたほうがいいし」
言ってから、
なんとなく隣を見た。
キクはいつもの顔で微笑んでいた。
やわらかくて、
穏やかで、
何も嫌がっていないみたいな顔。
「……そうだね」
静かな声で言う。
「ヒナは、そういうの放っておけないもんね」
その言い方はやさしかった。
なのに、なぜか胸の奥が少しだけざわついた。
「うんうん。最初はみんな緊張するかもしれないけど、雛がいたら大丈夫だと思う」
私は思わず笑った。
「なんで私」
「だって雛、ちゃんと話聞いてくれるし」
ウメは当たり前みたいに言う。
「怖くないし。優しいし。一緒に座ってくれるし」
その無邪気さに、
少し照れくさくなる。
けれどその横で、
キクの袖が小さく鳴った。
布が擦れる、かすかな音。
見ると、
キクは自分の袖口を指先で整えていた。
皺なんてないのに、
何度も同じところを撫でる。
「それにね」
ウメは椅子の端を嬉しそうに撫でながら言った。
「もっと人が増えたら、村みたいになるかも」
その言葉に、
今度ははっきり分かった。
隣の空気が、すこし冷えた。
私はそっとキクを見る。
キクは笑っていた。
ちゃんと、
今まで通りの、
きれいな笑い方で。
「村みたいに?」
私が聞くと、
ウメは頷いた。
「うん。今のここも好きだけど、もっと賑やかで、みんながいて、誰かが笑ってて、ふらっと行っても誰かいる感じ」
言葉を選びながら、
少しずつ夢みたいに広げていく。
「そういうの、いいなって」
私はまた白い場所を思い浮かべた。
人が増えて、
声が増えて、
空いていたところが埋まっていく。
それは少し、楽しそうにも思えた。
「……たしかに」
私がそう言うと、
キクがゆっくりこちらを向いた。
動きは静かだった。
でも、
あまりに静かすぎて、
その瞬間だけまわりの音が遠くなった気がした。
「ヒナも、そう思う?」
キクの問いかけは穏やかだった。
確認するだけみたいな声。
「え?」
「もっと増えたら、いいって」
私は少し迷った。
でも、ウメの言うことも分かる。
ひとりでいる子が寂しい思いをしないなら、
それは悪いことじゃない気がする。
「……うん」
小さく頷く。
「そういうのも、いいかもしれない」
言った途端、
キクの指先が、そっと私の袖に触れた。
「そっか」
ただ、微笑んで、
私の袖口の端を指先で撫でる。
「寂しい子が来ても、ヒナがいるなら安心するもんね」
やさしく言う。
その言葉に、
ウメは嬉しそうに頷いた。
「そうそう!」
キクはそのまま、
今度は私の袖を膝のほうへ少しだけ寄せた。
引っ張るほどじゃない。
でも、風でずれた布を直すみたいに、
自分のすぐ近くへ戻す。
「ヒナの隣は広くなくていいけど」
一瞬、
何を言われたのか分からなかった。
ウメが先に、きょとんとする。
「え?」
キクは笑ったまま、
私の袖から指を離さない。
「だって、増やしすぎたら座れなくなるでしょ」
言い方は軽い。
その場を和ませるみたいな口調。
ウメは少し遅れて笑った。
「そっか。それは困るかも」
キクは頷く。
「三人で座れるくらいが、ちょうどいいのかもね」
私は返事ができなかった。
その“ちょうどいい”が、
誰にとってのものなのか。
風が吹いた。
どこかで吊るしていた飾りが小さく鳴る。
ウメはまだ楽しそうに、
「でも四人でもいけるかな」とか、
「もう大きい椅子にしたらどうだろう」とか、
明るく話している。
私は相づちを打ちながら、
隣の気配を意識してしまう。
キクはずっと穏やかだった。
笑っているし、
ちゃんとウメの話も聞いている。
それなのに、
私の袖の端だけは、
いつまでもキクの指先の近くにあった。
まるで、
増えていく話の中で、
それだけは先に取っておきたいみたいに。
やがてウメが立ち上がる。
「ちょっと花のところ見てくる!」
そう言って、
ぱたぱたと軽い足音で離れていく。
私とキクだけが、
椅子に残った。
少しの沈黙。
私は隣を見た。
キクは前を向いたまま、
静かに息をしている。
「……キク?」
呼ぶと、
こちらを見た。
目はいつも通りだった。
やさしくて、澄んでいて、
何も隠していないみたいな顔。
「なに?」
「さっきの……」
言いかけて、
その先が出てこない。
何を聞きたいのか、
自分でもうまく言葉にならなかった。
キクは少しだけ首を傾げる。
それから、
私の袖口を見た。
「ヒナ」
静かな声で言う。
「増やしてもいいよ」
その言葉に、
私は少しだけほっとしかけた。
けれど次にキクが微笑んで、
「でも、ヒナがいなくなるのはだめ」
と、あまりにも自然に言ったので、
私は何も言えなくなった。
遠くで、ウメの笑い声がした。
なにか見つけたのか、
明るい声で呼んでいる。
その声を聞きながら、
キクは私の袖を一度だけ整えて、
ようやく手を離した。
「……行こっか」
立ち上がり言う声は、
どこまでもいつも通りだった。




