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雛代の箱庭  作者: N


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7/25

7話


翌朝、私は目を覚ますと横で寝ていた二人の姿はなかった。



囲炉裏の火は小さく、ぱちとも鳴らず、

障子の向こうが淡く白んでいる。


その静けさの中で、

さら、さら、と櫛が髪を梳く音だけがやわらかく響いていた。


キクがウメの髪を梳いている。


音だけで分かった。

私はその音が心地よくて再び目を閉じた。


「痛くない?」


キクの声。


「うん、大丈夫」

ウメがすぐに答える。

「キク、上手だね」


「そう?」


「うん。全然引っかからない」


櫛が毛先まで落ちる、

細い音だけが残る。


「……こういうのも、言われた?」


キクが静かに聞いた。


「ん?」


「髪。ちゃんと整えなさい、とか」


ウメは少し笑った。


「あー……言われた。すごく言われた」

どこか照れ隠しみたいな声だった。


「髪が乱れてると見苦しい、とか。座るときは背筋を伸ばしなさい、とか。」


言いながら、だんだん早口になる。


「あとね、笑う時は口を隠せ。声を大きくしない。人の前ではちゃんとしなさい、って。……ちゃんとって何だろうね」


最後だけ少し笑った。


その声がやわらかくて、キクにも私以外に話し相手ができて嬉しかった。


「箸の持ち方とか、歩き方とか、何回も直された。もっと静かにしなさいって」


キクがすぐに頷く。


「手の置き方もね」


「そうそう!」


ウメの声が少し弾んだ。


「指は揃えて、肘は張らないようにって。

あと、何があっても顔に出しちゃだめだって言われた」


キクがふっと笑う。


「私もよく言われた」


その笑い方は、楽しそうというより、

遠いものを懐かしむみたいだった。


「最初は全然できなかったな」


「えっ、キクが?」

ウメが驚いたように聞く。


「うん。すぐ顔に出てたし、その度にたくさん怒られてた」


キクはあっさり言う。


「何回もやり直しさせられた」


その言い方は軽い。

けれど、軽く言えるようになるまでに

どれくらい時間がかかったのだろう。


私は布団の中で、そっと指を握った。

櫛がまた髪を梳く。


さら、さら、と

同じところを何度も整える音。


「でも、やっぱり不思議」


「なにが?」


キクが聞く。


「雛さまと、こうして話せるの」


喉がわずかに動いた。


けれど目は閉じたままにする。


「村にいた頃はね、雛さまってもっと……こう」


言葉を探すように間を空ける。


「遠い人だと思ってた」


キクは何も言わない。

ただ続きを待っている気配がした。


「小さい頃からずっと聞かされてたんだ。

最初の雛代は村を救ったえらい人で、

山さまを鎮めてくれた、特別な人だって」


私は布団の中で、

自分の呼吸だけが少し浮いているのを感じた。


「だから、村の子どもたちはみんな、

雛さまのこと敬わなきゃいけないって教えられてた」


ウメが穏やかに笑う。


「私も小さい頃は本当にすごい人なんだと思った。村を助けた、立派な人みたいな。

怖い話みたいに言う人もいたよ。

雛さまに見られてるから悪いことするとバチが当たるよ、とか」


私は目を閉じたまま、

指先だけを布団の中で握った。


そんなふうに言われていたなんて、

知らなかった。


石碑の前で祈る子どもの声は聞いた。

ありがとう、と言われたこともある。


でも、それだけだった。


私がそういうものになったみたいに形を与えられていたなんて。


キクの指先は止まらなかった。


けれど、ほんの少しだけ、

櫛の動きがゆっくりになった気がした。


「……そうなんだ」


その声は穏やかだった。

なのに、その一言だけ部屋の空気が冷えた。


「だから最初、雛と会ったとき信じられなかった。

もっとこう……近寄っちゃいけない人だと思ってたし。

話しかけるなんて無理だと思ってた」


少し笑って、

照れたみたいに続ける。


「でも全然違った。

ちゃんとこっち見てくれるし、

優しいし、変に偉そうじゃないし」


言われているのは自分のことなのに、

どこか知らない誰かの話みたいに聞こえる。


「不思議だよね」

ウメがぽつりと言う。

「ずっと前に死んだ人なのに、

同じ家にいて、同じ景色を見て、話してるの」


その言葉のあと、

少しだけ沈黙が落ちた。


キクがやがて静かに言う。


「……うん。不思議」


不思議。

本当に、そうだ。


ずっと前に死んだ雛が、

いまここにいて、

眠ったふりをして、

二人の話を聞いている。


「私、雛が怖い人だったらどうしようって思ってた」

ウメが言う。

「だって英雄だし、雛さまだし、なんか……」


「近づきにくい?」


キクが助けるように言う。


「そう、それ」


ウメが笑った。


「でも、実際は全然違った。

優しいし、すぐ困った顔するし、ちょっと変なところもあるし」


その言葉に、

キクがほんの少しだけ笑った気配がする。


「うん。あるね」


「あるよね!」


ウメも楽しそうに笑う。


「動くと崩れるよ」


「あ、ごめん」


素直に前を向き直すウメ。


キクはそのまま、

髪を撫でるように整えながら、ぽつりと言った。


「……英雄なんて村の人が勝手に言ってるだけだよ」


キクの声が、静かに落ちた。


低くもない。

強くもない。


ウメがきょとんとしたように、

しばらく黙る。


「あの子は、そういうふうに言われるの好きじゃない」


私の呼吸が、ほんの少しだけ止まりそうになった。


どうして、そんなことまで知っているのだろう。


私はそんなこと、

キクに一度も言っていない。


好きじゃないなんて、

言葉にしたこともない。


ウメが小さく首を傾げた気配がする。


「でも、雛ってすごい人なんじゃないの?」


「すごいとか、えらいとか、そういうのじゃないよ」


キクは淡々と言う。


「村が勝手に安心したくて、きれいな意味をくっつけただけ。そのうちウメにも勝手な理由をつけ始めるよ。」

少しだけ間を置いて、

「ヒナは……そんなふうに上に置かれるより、静かに隣に座ってるほうが好きだよ」


胸の奥が、

ぎゅっと縮んだ。


私は布団の中で、

自分でも気づかないうちに指先を強く握っていた。


そんなことまで、

私は言っていない。


でも、

違う、とも思えなかった。


石碑に額を寄せた夜も。

キクと縁側で並んで座ったときも。

ウメと椅子を作って、一緒に座ったときも。


私は一度だって、

敬われたいなんて思わなかった。


ただ、

同じ高さで、

隣にいてほしかった。


「じゃあ、雛は村で言われてたのと全然違うんだね」


「うん」

キクは迷いなく言った。

「全然違う」


その即答が嬉しくて、

同時に怖かった。


キクは私のことをどこまで知っているのだろうと思ったからだ。


それから少しして、

キクが言う。


「はい、できた」


ウメがぱっと顔を上げる。


「ほんと?」

「うん。似合うよ」


「えへへ……」

ウメが照れたように笑った。


そのあと、静かな間があった。


櫛の歯を指で整えながら、キクがふいにこちらを見た気がした。


目は閉じたままなのに、

ちゃんと見られている気がして、

私は呼吸を浅くする。


「……でしょ?ヒナ」


その声は、やわらかかった。

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