31話
夜更けだった。
灯りもつけないまま、私は縁側に座っていた。
膝の上の日記は、もうずいぶん前から同じ頁で止まったままだ。
読んでいるふりをしながら、ただ夜空を見ていた。
部屋は散らかっていた。
脱ぎっぱなしの羽織。開いたままの冊子。飲みかけで冷えた湯呑み。
片づけようと思わなかったわけじゃない。
ただ、どこから手をつければいいのか分からなかった。
そんなふうに座り込んだまま、もう何年も過ぎている。
そのとき、ふいに声がした。
「……ヒナ」
胸が跳ねた。
振り向くと、そこにキクが立っていた。
息が止まる。
黒髪はやわらかく肩へ落ちていて、襟も帯も、見慣れた通りきちんとしている。
何万回も会いたいと思って、何万回も呼んだ姿だった。
なのに、言葉が出なかった。
「どうしたの、そんな顔して」
キクは少しだけ困ったように笑う。
私は立ち上がろうとした。
でも、膝に力が入らなかった。
キクはそれ以上何も言わず、部屋を見回した。
それから小さく息を吐く。
「……こんなに散らかして。仕方ないなあ」
床に落ちた羽織を拾う。
開いたままの冊子を閉じる。
湯呑みを端へ寄せる。
散らばったものを、当たり前みたいな手つきで片づけていく。
迷いがなかった。
どこに何を置けばいいのか、最初から知っているみたいに。
私はしばらく、その背中を見ていた。
「そんな……しなくていいのに」
やっとそう言うと、キクは振り向かないまま答える。
「だめだよ。踏んで怪我したらどうするの」
少しだけ笑って、落ちていた紐を指に巻き取る。
その言い方があまりにもいつも通りで、胸の奥がきしんだ。
畳の上に少しだけ空いた場所ができる。
キクはようやく私のほうを見た。
「おいで」
やわらかい声だった。
私は息を呑んで、引き寄せられるみたいに歩いた。
近づいた途端、キクがふっと目を細める。
「……そういう格好のヒナも好きだけど、私以外には見せないでね」
自分の着物を見下ろす。
胸元はゆるみ、帯も半端にずれていた。
キクが手を伸ばす。
指先が襟に触れる。
乱れた合わせを直して、布を肩へかけ直し、帯の位置を整える。
触れられるたび、凍っていたところだけが少しずつほどけていく。
「寒くない?」
そう聞かれて、私は小さく首を振った。
「……平気」
キクは私の指先を一度だけ包んだ。
「手、冷たいよ」
そのぬくもりに、胸の奥がひどく静かに痛んだ。
それからキクは櫛を取ると、私を座らせて後ろへ回った。
髪に指が入る。
絡まりをほどくみたいに、やさしく。
「寝癖、ついてる」
「そう……?」
「うん。すごいよ」
少し笑う気配がして、私は目を伏せた。
さらり、と櫛が通る。
何度も同じところをなだめるみたいに梳いていく。
私はその感触に、しばらく何も言えなかった。
ただ、呼吸だけが少しずつ静かになる。
やがてキクが、ぽつりと言った。
「ちゃんと、あの子を見てあげて」
櫛の音は止まらない。
私は少しだけ肩を強張らせる。
「……見てるよ」
「ううん」
キクの声はやわらかかった。
責める響きはない。
ただ、知っていることを言うみたいに静かだった。
「ヒナなら、もう分かってるでしょ」
指が髪をひと房すくう。
「私たちみたいに、役目で意思を塗りつぶすようなこと、しないで」
胸の奥が、ひどく静かに痛んだ。
私は振り向けなかった。
キクもそれ以上は何も言わない。
ただ最後に、乱れを直すみたいに髪を撫でて、
「わざわざ言わなくても、ヒナは分かるよね」
と、小さく言った。
その言い方が昔と同じで、どうしても声が出なかった。
やがて櫛を置く音がした。
「できたよ」
鏡には、さっきまでの乱れた姿は映っていなかった。
きれいに整えられた私と、その後ろに立つキクがいる。
「……ありがとう」
そこまで言って、私は小さく息を呑んだ。
違う。
言いたいのは、それじゃない。
喉の奥が熱くなる。
「ごめん、キク」
鏡の中のキクが、不思議そうに目を細める。
「私のせいで、つらい思いさせて……ずっと謝りたかった」
少しだけ黙って、それから鏡越しに笑った。
「そんなに覚えててくれるなら、十分だよ」
「でも、私は……取り返しがつかないくらい、ひどいことして……」
キクは少しだけ笑う。
「でも、そのぶんずっと私のこと考えてたでしょ」
「……え?」
「それって、すごく特別なことでしょ」
私は返事に困って、整えられた髪に触れた。
なめらかな感触に、彼女のやさしさがそのまま残っている気がして、ひどく懐かしくなる。
キクがくすりと笑った。
「……そうだ。今度、あの子と一緒に掃除してみたら?」
「……あの子って、菊のこと?」
キクはやわらかく頷く。
「何かひとつ、一緒にやれば少しは近づけるかもよ」
それから少しだけ目を細めて、
「まあ、仲良くなりすぎても困るけど」
と続けた。
「ほんと、変わらないね……」
振り向いて言う。
でも、そこには誰もいなかった。
あるのは散らかった部屋だけ。
鏡に映る私は、髪も着物も乱れたままだった。
整えてもらったはずの場所を、私はじっと見つめた。
指先を髪にやる。
縺れたままの毛先が、爪に引っかかった。
夢だったのだと、遅れて分かった。
それでも、さっきまで触れていたはずのぬくもりだけが、指の内側にまだ残っている気がして。
私はその手を、しばらく握ったまま動けなかった。




