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雛代の箱庭  作者: N


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32/32

最終話

 部屋へ戻ってからも、私はしばらく日記を机の上に置いたままにしていた。


 借りてきたときは、ただ重いと思った。

 紙の束の重さだけじゃない、何か別のものが詰まっているみたいで、少し落ち着かなかった。


 借りてもいい、と言ったのはヒナのほうだった。


 だから、少しくらいなら。

 戻ってくるまでのあいだ、ぱらぱらと流し見するくらいなら、きっと悪くない。


 …そう思った。


 悪いことをしている自覚がないわけじゃなかった。


 人の日記を開くなんて、褒められたことじゃない。


 けれど、気になってしまったのだ。


 “姉の日記”。


 ヒナはそう言った。

 百年以上、毎日つけていたのだとも。


 そんなふうに言われたら、少しくらい覗いてみたくなる。

 どんな人だったんだろう、と。

 どんな言葉を残したんだろう、と。


 私は机の上の日記の表紙をそっと撫でた。

 指先にざらりとした手触りが返る。

 何度も開かれ、閉じられ、触れられてきた跡だった。


「少しだけ…」


 誰にともなく言い訳して、私は頁をめくった。


 最初は、本当に流し見するつもりだった。

 ところどころ拾える言葉を追うだけ。

 達筆で読みにくいし、全部を丁寧に読むつもりはない。

 ただ、どんな空気の人だったのか、少し知れたらそれでいいと思っていた。


 紙の上には、静かな字が並んでいた。

 きれいで、整っていて、どこか息を潜めているみたいな字だった。


 でも、それ以上に目を引いたのは、何度も出てくる同じ名前だった。


 雛と菊。


 私はそこで、手を止めた。


 ぱらぱらと軽く流していた指先が、急に重くなる。

 もう一度、近くへ引き寄せて見る。


 ――菊。


 また、あった。

 次の頁にも。

 その次にも。


 丁寧に書かれた文字の中に、何度も、何度も。


 私は、ゆっくり息を吸った。


 この日記を書いた人。


 ヒナの姉は、菊という人だったのだ。


 同じ名前。


 私と、同じ。


 胸の奥で何かが静かに沈んだ。

 大きな衝撃ではない。

 悲鳴みたいな驚きでもない。


 静かだった。


 私はもう一枚、頁をめくる。


 そこで、薄く挟まっていた紙が少しだけずれた。


「…あ」


 思わず声が漏れる。


 頁のあいだに、別の紙が貼られていた。

 日記の紙とは違う、少し厚くて白い紙。

 端が古くなって、ところどころ茶色く色づいている。


 そこに書かれていた文字は、さっきまで見ていた字よりもずっと拙かった。


 大きくて、少し歪んでいて、線の太さも揃っていない。

 けれど、ひどく丁寧に書こうとしたことだけは分かる字。


 神巫 菊


 私はその文字を見つめたまま、動けなくなった。


 そのすぐ横には、もう一枚。

 今度はやわらかい丸みのある文字で、


 きく


 と書かれている。


 どちらも、何度も見返されたのだろう。

 紙の端が少し擦れていて、それでも破れないように大事に貼られていた。


 この二枚だけ他の字と違う。


 私はその意味を考えるのが恐くて日記を閉じた。


 …考えなくても、少しだけ分かってしまう。



 大事だったのだ。

 きっと、たまらなく。


 ヒナは、私を見ていたわけではなく、

 ずっと、この名前を見ていたのかもしれない。


 この文字を。

 この紙を。

 この日記の中に生きている、菊という人を。


 私は机の上の日記を見下ろした。


 それを見ているうちに、ふと、昼間の会話が頭をよぎった。


 街の外れで、怪物の気配が増えている。

 みんな少し落ち着かないみたい。


 ヒナはぼんやり聞いていた。

 怖いなら考えられないようにするよ、とも言った。


 私だって、ちゃんと見てほしい。

 壊れないように作ったから大丈夫、なんて、

 そういうふうに済まされたくない。


 今ここにいる私を、

 ちゃんと、私として見てほしい。


 机の端に置いた自分の小さなポーチへ手を伸ばす。

 何をするつもりなのか、自分でもまだうまく言葉にできなかった。


 けれど、このまま部屋の中で考えているだけではだめだということだけは分かった。


 せめて、何かしなきゃいけない。


 ヒナの大事にしているこの世界で、

 私にもできることがあると、ちゃんと示したかった。


 私は日記を見下ろし、少しだけ迷ったあと、それをそっと持ち上げた。


 これを持っていればヒナは私を見てくれるかもしれない。


 表紙を布で包んで、折れないように気をつけながらポーチへ入れる。


 少し窮屈そうだったけれど、無理に押し込まないよう位置を直すと、なんとか収まった。


 外へ出ると、空気が少し違っていた。


 街の中央にいるときは気づきにくいけれど、外れへ近づくほど、音が薄くなる。


 人の話し声も、車の遠い唸りも、どこかひとつ膜を隔てたみたいに遠ざかっていく。


 歩きながら、何度も自分に言い聞かせた。


 大丈夫。


 ちゃんと危ないところを見て、ちゃんと街の人に伝えれば、それで十分だ。


 けれど、胸の奥は少しも静かにならなかった。


 視線の端で、背の低い草が風に揺れる。

 道の先には、使われなくなった家々がぽつぽつと並んでいた。


 息をひとつ吐いて、私は歩を進めた。


 たしかに、気配はあった。


 目には見えないのに、どこかでこちらを窺っているような気配。

 草の奥で何かが這うような、ごく細い音。

 振り向いても、何もいない。


 私は喉を鳴らした。


「…いるの?」


 返事はない。


 当たり前だ。

 返事をするようなものなら、まだ安心できたかもしれない。


 私は引き返した。

 思っていたより、ここは落ち着かない。


 多分、ここは危険だ。これ以上進む必要はない。


 ヒナは平気だと言った。

 私は死なないように作ってあるのだと、そう言った。


 でも、それと怖くないことは、全然別だ。


 胸の奥で、心臓の音だけがやけに大きい。

 手のひらが少し汗ばむ。


 街の人たちにここまで危ないことを伝えて対策を一緒に考えれば、きっとそれで済む。


 そのときだった。


 左手の草むらが、大きく揺れた。


 私は息を呑んで立ち止まる。

 次の瞬間、黒い影が飛び出した。


「っ……!」


 反射的に身を引いたけれど、避けきれない。


 獣に似ていた。

 でも獣よりずっと歪で、脚は長すぎて、口元には濡れた牙が並んでいた。

 目だけがやけに白く、そこだけが浮いて見える。


 爪が、空気を裂く。


 私は腕で顔を庇ってしゃがみ込んだ。

 衝撃が肩を掠める。

 布の裂ける音がして、次に、自分の身体とは別のところで軽い何かが弾けた。


「……あ」


 ポーチだった。


 肩からずり落ちたそれが、怪物の爪に引っかかって大きく裂けている。

 口が開いて、中身が一気に飛び出した。


 紙が舞った。


 白い。

 何枚も、何枚も。

 風に煽られて、ばらばらに散っていく。


 私はその光景を見た瞬間、頭の中が真っ白になった。


 だめだ。


 それだけが、すぐに分かった。


 痛いとか、怖いとか、そういうことは全部、あとになった。


 私は地面に膝をついて、飛び散った紙へ手を伸ばした。


「……だめ、だめ……!」


 草の上に落ちた一枚を掴む。

 もう一枚。

 風に転がる紙を押さえる。


 指先が震えて、うまく拾えない。

 端が土に触れて、茶色く汚れる。

 それでも、止まれなかった。


 これがなくなったら。


 これが失くなったら。


 ヒナは、もう本当に私を見てくれない。


 あの日記の中の“菊”がいなくなったら、

 私は何を持ってヒナの前に立てばいいのか分からない。


 怪物の気配が、また近づく。


 分かっていた。

 背後で草が鳴っている。

 次は避けられないかもしれない。


 それでも私は、顔を上げられなかった。


 紙を、拾う。


 必死に拾う。


 指先に触れるたび、ひどく怖かった。

 破れていないか。

 文字が消えていないか。

 泥で滲んでいないか。


「……やめて」


 誰に言ったのか、自分でも分からなかった。


 怪物か。

 風か。

 それとも、こんなものを縋りに持ってきた自分自身にか。


 次の瞬間、すぐ近くで低い唸り声がした。


 紙を抱えるみたいに胸元へ寄せて、私は目を閉じる。


 けれど――


 どさり、と重いものが落ちる音がした。


 風が、一瞬だけ止まる。


 恐る恐る目を開けると、さっきまで目の前にいた怪物が地面へ伏していた。


 白い目は濁り、脚が不自然な方向へ折れている。

 その向こうに、ひとつの影が立っていた。


 私は息を止めた。


 ヒナだった。


 夕方の光の中、深い赤い着物が静かに揺れている。

 帯はきちんと締められ、襟元も乱れていない。

 髪も整えられていて、風に吹かれても崩れない。


 いつもみたいに寝癖もない。

 羽織を引っかけただけのだらしない格好でもない。


 あまりにも、ちゃんとしていた。


 こんなふうにきちんとした格好のヒナを見るのは、はじめてかもしれないと思った。

 それくらい、今のヒナは見慣れた“寝起きのままのヒナ”と違っていた。


 それが一瞬、ひどく不思議で。

 私は怪物より先に、そっちへ目を奪われた。


「……ヒナ?」


 声がうまく出ない。

 喉が乾いて、掠れる。


ヒナは私を見る。


 さっきまで怪物を倒していたとは思えないくらい、静かな目だった。

 でも、その視線はすぐに私の顔から肩へ、腕へ、しゃがみこんだ膝へと落ちていく。


「……怪我してない?」


 最初に出てきたのは、その言葉だった。


 私は一瞬、返事ができなかった。


 日記のことを言われると思った。


 壊すなどあれほど言われたのに、

あれほど大事にしていたものなのに。


 そういうことを、先に聞かれるのだと思っていた。


 なのにヒナは、散らばった紙ではなく、先に私の身体を見ている。


「……たぶん」


 ようやくそれだけ言うと、ヒナが少しだけ眉を寄せた。


「あんまり無理しちゃダメだよ」


 その言い方は強くなかった。

 怒っているわけでもない。


 ヒナが一歩近づく。


 私は思わず、胸元へ抱えこんでいた紙の束をきつく押さえた。

 するとヒナの視線がそこへ落ちる。


 「あー……」


 気の抜けたような声が漏れた。


 私は思わずヒナを見る。


 怒るでもなく、呆れるでもなく、

 なぜかヒナは少しだけ顔を逸らした。


「……どうしたんですか?」


 そう聞くと、ヒナはほんの少し困ったようにした後、曖昧に咳払いする。


「いや、その……」


 私は持っている紙を見る。


 そこには、見覚えのある大きくて少し歪んだ文字が見えていた。


 神巫 菊


 そのすぐ下に、丸くてやわらかい


 きく


 の文字。


  ヒナはそれを見たまま、ほんの少しだけ肩をすくめる。


 私は、散らばった紙とヒナの顔を見比べた。

 怒られると思っていたのに、そういう空気ではない。


「……どうしたんですか」


 もう一度聞くと、ヒナは視線を逸らしたまま、小さく咳払いをした。


「いや、その…」


 言いにくそうに言葉を探して、

 でも見つからないみたいに口をつぐむ。


 夕方の光が、ヒナの頬にうすく触れていた。

 その色が、ほんの少しだけ熱を持って見える。


「…それ、あとでちゃんと直すから」


 ようやく出てきたのは、ひどく曖昧な言葉だった。


 私は思わず目を瞬かせる。


 それから、怪物の倒れたほうへちらりと目をやって、

 いつものぼんやりしたヒナとは少し違う、きちんとした声で言う。


「もうこの辺は大丈夫だと思うけど、暗くなる前に戻ったほうがいいよ」


 そう言ってから、また私の手元の紙に目を落とした。


「…それ、集めておいてくれる?」


「は…はい……。」


 少しだけ間があって、

 それから、ぎこちなく続ける。


「う、うん…お願いね」


 その言い方があまりにも不器用で、私は一瞬だけ返事を忘れた。


 ヒナはそれ以上何も言わず、

 くるりと背を向ける。


 深い赤い着物の裾が、夕方の草をかすめた。

 風に揺れても、やっぱり崩れない。


 私はしばらく、その背中を見ていた。


 やがて見えなくなると、

 草の音と、自分の呼吸だけが残った。


 私は胸元へ抱えていた紙を、そっと膝の上へ広げる。


 破れたもの。

 角が折れたもの。

 土がついたもの。


 指先で一枚ずつ確かめながら、順番に重ねていく。


 さっきまで、これがなくなったら終わりだと思っていた。

 でも、ヒナの顔を見たあとだと、その終わりの意味が少しだけ分からなくなっていた。


 風に飛ばされかけた一枚を拾い上げる。

 それは、さっきヒナが見て、少しだけ顔を逸らした紙だった。


 大きくて、少し歪んだ字。


 神巫 菊


 その下に、やわらかな


 きく


 の文字。


 私はそれを、今度はちゃんと見た。


 前は怖くて見られなかったところまで、

 目で追う。


 すると、その紙の端に、

 あとから書き足されたらしい、小さな文字があるのに気づいた。


 日記の本文と同じ、静かで整った字だった。


 私は息を詰めて、そこへ顔を近づける。


 ーー雛が、はじめて書いてくれた。


 その下に、少し間を置くみたいに続いている。


 ーーわたしの名前。

 ーー上手じゃないのに、これがいちばん好き。

 ーー最初の一枚だから。

 ーー宝物。


 私はその場で、動けなくなった。


 風が、紙の端を小さく揺らす。


 指先に力が入りすぎて、

 破ってしまいそうで、あわてて力を抜いた。


 もう一枚、横の紙を見た。


 やわらかい“きく”の文字の下にも、

 同じ手で小さく書き添えられている。


 ーーこっちも、かわいい。

 ーー雛の字ってすぐ分かる。

 ーー見るたび、うれしくなる。


 胸の奥が、じわりと熱くなる。


 私は、少しだけ勘違いしていたのかもしれない。


 ヒナが大事にしていたのは、

 ただ“菊”という名前だけじゃない。


 昔の誰かの残した字でもない。


 ヒナが初めて書いた、

 拙くて、不格好で、

 でも、一生懸命書いたその文字ごと、

 大事だったのだ。


 そしてそれは、

 日記を書いた菊にとっても、

 かけがえのないものだった。


 ただ同じ名前だったからじゃない。

 雛が書いたから。

 雛が、自分の手で形にしてくれた名前だったから。


 私はその紙を、膝の上へそっと置いた。


 さっきまで胸の奥に沈んでいた冷たいものが、少しだけ形を変えていく。


 私は、代わりなのだと思っていた。


 ヒナが見ているのは、

 今ここにいる私じゃなくて、

 この紙の中の、昔の菊なのだと。


 でもーー


 もし、この文字が二人にとって特別だったのなら。


 “菊”であることは、

 ただ誰かの影でいることとは、少し違うのかもしれない。


 私はもう一度、

 神巫 菊

 と、

 きく

 を見た。


 少し歪で、

 少し不揃いで、

 それでも丁寧な字だった。


 ヒナが、初めて書いた名前。


 その事実が、思っていたよりずっとやさしく胸に落ちてくる。


「……なんだ」


 声が、少しだけ震えた。


 それ以上は言わなかった。


 溢れた言葉を胸に押し込む。


 風が吹いて、

 紙の端がもう一度だけ揺れる。


 私はあわててそれを押さえた。


 今度は、失くしたくない理由が、少しだけ違っていた。

 

 


 部屋へ戻ると、私は思わず足を止めた。


 散らかっていたはずの床が、少しだけ広く見えたからだ。


 脱ぎっぱなしの羽織はない。

 机の上に開いたままだった冊子も閉じられている。

 飲みかけの湯呑みも端へ寄せられていて、少なくともさっきまでよりはずっと“部屋”らしくなっていた。


「……あれ」


 小さく呟くと、奥からヒナが顔を出した。


 どこか得意そうな顔だった。


「おかえり」


 その声まで、少しだけ胸を張っているみたいに聞こえる。


「どう?」


「どう、って……」


 私はもう一度、部屋を見回した。


 たしかに、さっきまでよりは片づいている。

 少なくとも、そう見える。


 ヒナは私の反応を待つみたいに、少しだけ顎を上げた。


「私だって、本気出せばこのくらいできるんだよ?」


 その言い方が妙に誇らしげで、私は少しだけ目を瞬いた。


「これ…ヒナが?」


 ヒナは大きく頷く。


 私はふと視線を止めた。


 襖の端から、見覚えのある布が少しだけはみ出している。


 ほんの少し。

 でも、見逃せるほどではなかった。


「ヒナ」


「なに?」


「これ、なに?」


 そう言いながら襖へ近づくと、ヒナがわずかに視線を逸らした。


「え、いや…そこは別に……」


 私は何も言わずに襖へ手をかけた。

 少しだけ開く。


 次の瞬間、向こう側に押し込まれていたものが崩れた。


 羽織。

 冊子。

 布。

 箱。

 細々したものが、見なかったことにしたいみたいに奥へ押し込められている。


 私はしばらく、その光景を見つめた。


 後ろで、ヒナが気まずそうに咳払いする気配がする。


「……ヒナ」


「うん」


「これは掃除とは言わないですよ?」


「…だめ?」


 その聞き方が、少しだけ子どもみたいで。

 私は呆れたように息をつきながらも、ほんの少しだけ笑ってしまう。


「だめ」


 それから襖を見て、小さく続けた。


「一緒に整えますよ。徹底的にやりますからね」


 ーーーーー

 

 空は、よく晴れていた。


 縁側に座ると、少し離れたところから川の音が聞こえる。

 風はやわらかく、庭の草を撫でながら通り抜けていった。


 私は膝を抱えるみたいに座って、隣の菊を見る。

 菊は日差しに目を細めながら、湯呑みを両手で包んでいた。


「今日は静かですね」


「そうだね」


 そう答えると、菊が少しだけ笑う。


 こうしていると、昔のことを少しだけ思い出す。

 縁側に並んで座ったこと。

 髪を梳いてもらったこと。


 胸の奥が少しだけきしんで、それでも今は、その痛みも前よりやわらかい。


「あ」


 私はふと思い出して立ち上がった。


「どうしたんですか?」


「ちょっと待ってて」


 菊の声を背中で聞きながら、部屋の奥へ入る。

 しまいこんだままだった小さな包みを見つけて、私はそれを持って戻った。


 縁側へ座り直してから、菊のほうへ差し出す。


「…これ」


 菊が目を瞬かせる。


「なんですか?」


「私の宝物。菊にあげる」


 菊はそっと包みを受け取った。

 布を開くと、小さな髪飾りが午後の光を受けて、控えめに揺れる。


 赤に、やわらかい淡い色。

 目立ちすぎないのに、きちんときれいで、風が吹けば少しだけ光りそうな飾りだった。


 菊はしばらく何も言わず、それを見つめていた。


「……これ」


 私は少しだけ視線を逸らした。


「たぶん、似合うと思う」


 言ってから、自分で少しだけ恥ずかしくなって、庭のほうを見る。

 菊はそんな私を見て、ふっと笑った気配がした。


「ありがとうございます」


 声が、思っていたより小さい。


 私はそちらを見る。

 菊は髪飾りを両手で包むように持って、ほんの少しだけ頬をゆるめていた。


「宝物にしますね」


 その言い方に、私は少しだけ笑ってしまう。


「……使ってよ?」


「使います。でも、宝物にもします」


 菊はそう言って、ようやくいつもの調子で笑った。


 風が吹く。

 川の音が少しだけ近くなる。


 私はその横顔を見て、それから何も言わずに、ただ隣へ少しだけ寄った。


 失くしたものは、戻らない。


 どれだけ願っても、

 どれだけ名前を呼んでも、

 あの頃のままの時間は、もうここにはない。


 それでも。


 壊れたものを繕うみたいに、

 少しずつでも、

 また誰かと並んで座れるのなら。


 宝物は、閉じ込めておくだけのものじゃないのかもしれない。


 私はもう一度だけ、隣の菊を見る。


 そこにいるのは、

 思い出の中の誰かじゃない。


 今ここで笑っている、

 菊だった。


 部屋の中、机の上には日記が置かれていた。


 破れた頁は丁寧に繕われている。

 継いだところだけ、紙の色がほんの少し違う。


 開いた頁のあいだで、

 少し歪な「神巫 雛」と、

 やわらかな「きく」が、

 午後の光の中に静かに残っていた。

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