30話
今日の箱庭は、よく晴れていた。
眩しい日差しの下、舗装された道を歩く。
道の脇には背の低い街路樹が並び、遠くでは車が途切れず音を立てている。
こういう街の形をした世界にも、もうだいぶ慣れた。
人の流れに混ざって歩いて、店に寄って、知った顔に会釈を返す。
最初の頃は少し落ち着かなかったのに、今ではそれも日課みたいなものだ。
私は角の小さなカフェに入って、先に頼んでおいた包みを受け取った。
そのまま公園のベンチまで歩き、包みを開く。
「やった。今日はツナサンドだ」
思わず小さく声が弾む。
気に入っている味だと、それだけで少し機嫌がよくなる。
食べ終わるのは、あっという間だった。
包みをたたみながら立ち上がる。
通りすがりの顔見知りが軽く手を上げるので、私も会釈を返した。
そこでふと、気づく。
「……そういえば」
私は立ち止まって、少しだけ耳を澄ませた。
「ヒナの声、聞こえないな」
いつもなら、遅くてもそろそろ一度は呼ばれる。
箱庭の外へ戻る頃だろうに、今日はやけに静かだった。
私は包みを捨てて、そのまま箱庭の外へ出た。
物で散らかった足の踏み場もないヒナの部屋に入ると、案の定、まだ布団の中で眠っている。
「ヒナ」
床に落ちた物を踏まないように近づいて、肩を軽く揺する。
「ヒナ、起きて」
少し眉を寄せるだけで、起きない。
私は小さく息をついた。
「ほら、もう昼ですよ」
今度はもう少し強めに揺する。
それでも反応が鈍いので、布団の端を取り上げる。
すると、ヒナがようやくもぞりと動いた。
「あうぅ……まだ、ちょっと……」
「その“ちょっと”が長いんです」
ヒナがようやく目を開けたとき、私はその顔にうっすら涙の跡が残っているのに気づいた。
「……また夢ですか?」
そう聞くと、ヒナは少しだけ黙ってから自分の頬に触れた。
「うん。昔のこと」
眠るたび、ヒナは昔を夢に見る。
しかもその夢の中では、いつも少しだけ自分が遠い。
自分のことなのに、誰かの話みたいに眺めてしまうのだと、前にそう言っていた。
「まあ……いつものこと」
そう言って小さく笑うから、私はそれ以上は聞かなかった。
ぼんやりした顔で、ヒナがこちらを見る。
「……そういえば、菊? もう戻ったの?」
「もう、じゃないです。とっくにお昼です」
私は布団を畳みながら、半分呆れて言う。
「いつも何か読んでるか寝てるかなんですから、せめて生活くらい整えてください」
「うう……」
ヒナは小さく呻いて、のろのろと起き上がった。
でもそのまま座るのも億劫なのか、畳んだ布団に額を押しつけるみたいにもたれかかる。
私は少しだけ眉を寄せる。
「そんなに眠いなら、横になりながらでもいいですよ」
「……ほんと?」
「その代わり、ちゃんと話は聞いてください」
ヒナは布団に頬を押しつけたまま、くぐもった声で言った。
「それで、どう? そっちの暮らし」
私はその様子に少しだけ肩の力を抜いて、答える。
「まだ、大きなことはないです」
「まだ、なんだ」
ヒナが少しだけ顔を上げる。
「何かありそうなの?」
私は少し考えてから、正直に言った。
「街の外れのほうで、怪物の気配が前より増えてる。みんな少し落ち着かないみたい」
「へえ」
ヒナはまだ半分眠そうなまま頷く。
「誰か襲われたら、みんなもう少し協力するようになるかもね」
私は一瞬、言葉に詰まった。
「……そんなことで協力するようになっても、あんまり嬉しくないですけど」
「そう?」
ヒナはようやくこちらを見る。
「共通の敵がいる方が、人ってまとまりやすいでしょ」
その言い方は、冷たいというより、ただ事実を並べているようだった。
私は少しだけ首を傾げる。
「でも、怖いのは嫌ですよ。私だって襲われるかもって思ったら落ち着きません」
ヒナは少しだけ目を細める。
「菊は死なないように作ってあるから、大丈夫」
「……そういう問題ですか?」
「元々感情なんてないんだから気にしなくていいよ。怖いなんて口で言ってるだけ」
その声は、安心させるつもりみたいにやさしかった。
でも私は、少しだけ言葉に詰まる。
「……でも、私だって意思はあるし、ちゃんと考えてます」
そう言うと、ヒナは少しだけ黙った。
それから、寝起きのぼんやりした目のまま、私をちゃんと見た。
「菊はそれ嫌?怖いなら考えられないようにするよ。」
私はすぐには答えなかった。
窓の外では、風が木の葉を揺らしている。
箱庭の中の街と同じような、穏やかな昼だった。
「……嫌っていうより」
私は少しだけ視線を落として言う。
「私だってちゃんと生きてるのに、心配してくれないのは悲しいです」
ヒナはすぐには何も言わなかった。
布団を掴んでいた手が、ほんの少しだけ緩む。
ぼんやりしていた目が、少しずつ覚めていくみたいだった。
私はそれ以上は言わず、机の上に置きっぱなしになっていた分厚い冊子を手に取った。
「そういえば、これ、机の上に置いたままでしたよ。大事な物なら、ちゃんとしまった方がいいですよ。」
そう言って差し出すと、ヒナは少しだけ目を丸くした。
「あ、置いたままでもよかったのに。……でも、ありがとう」
受け取った冊子を、ヒナは膝の上に置く。
私はその厚みをあらためて見て、少しだけ眉を上げた。
「それ、なんなんですか? 似たようなのまだたくさんありますよね」
「ん?」
ヒナは表紙を軽く撫でる。
「これ? 姉の日記」
「えっ」
思わず変な声が出た。
「あの分厚いの、全部日記なんですか?」
「うん」
私は思わずヒナを見る。
「それにヒナにお姉さんいたの、初耳なんですけど」
「言ってなかったしね」
ヒナはあっさり言った。
「百年以上、毎日つけてたから。多いのは仕方ないよ」
「百年以上も毎日……」
私は冊子とヒナの顔を見比べる。
「すごいですね。ヒナと違ってものすごくまめな人だったんだ」
「なんだか私がだらしないみたいな……」
ヒナは少しだけ目を伏せた。
私はなんとなく、次の問いを口にする。
「なんて人なんですか?」
その瞬間、ヒナの指先が表紙の端で止まった。
「……さあ」
小さく息をつくみたいに言う。
「なんて名前だったかな」
それから、少しだけ笑う。
でも、その笑い方はどこか悲しそうだった。
「長く生きてると、物忘れが多くてやだね。気になるなら読んでみる?」
「いや、いいですよ。人の日記を読むのは悪いし。それに達筆すぎて読みにくいです。」
「そう? こんなに丁寧に書いてあるのに」
「はいはい、それよりも今日はちゃんと起きててくださいね」
「なにかするの?」
「怪物が入ってこないように見回るんです」
「ほっといていいのに。菊は優しいね」
「寝ないでくださいよ?」
そう言うと、ヒナは日記を抱えたまま、少しだけ身体を丸める。
大事なものを守るみたいに胸の近くへ引き寄せて、そのまま目を閉じた。
私はその様子を見て、ほんの少しだけ迷った。
それから、小さく息を吸って言う。
「……やっぱり、それ借りてもいいですか?」
ヒナが目を開ける。
「え?」
「戻ってきたら返します。だから、それまでちゃんと待っていてください」
ヒナはまばたきをひとつして、まだ少し眠そうな目で私を見る。
「壊れないから大丈夫、とか。そういうふうに済まされるの、あまり好きじゃないんです」
自分でも、少しだけ言いにくいことを言っている気がした。
「それを持っていけば、私のことも少しは心配してくれますか?」
言ってから、胸の奥が少しだけ痛んだ。
自分でも分かっていた。
こんなことをしても、心配してくれるのは私じゃなくて、たぶんあの紙の束のほうだ。
ヒナはしばらく黙っていた。
それから、抱えていた冊子をゆっくり差し出す。
「……菊がそれでいいなら、持っていきな」
私はそれを受け取った。
手に持った瞬間、さっきよりもずっしりと重く感じた。
紙の重さだけじゃない気がした。
「じゃあ、行ってきますね……」
ヒナはそこで一度目を伏せて、それから何か思い出したみたいに顔を上げる。
「……あ、無くさないでね!」
「わかってます」
「壊さないでね!」
「わかってます!」




