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雛代の箱庭  作者: N


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29/32

29話


夜が深くなるにつれて、家の中の音は少しずつ減っていく。


囲炉裏の火はもう小さく、赤い芯だけを静かに残していた。

その明かりが、障子や柱の角をかすかに染めている。


私は布団の中で、隣の気配にそっと耳を澄ませていた。


ヒナの呼吸はゆっくりしている。

浅くもなく、乱れてもいない。

眠る前に少しだけ私の袖を掴んでいた指は、もう力を失って、布の上にやわらかく落ちていた。


起きているあいだは、あんなに小さな物音にも反応するくせに、眠ってしまうと案外無防備だ。

それがかわいくて、少し困る。


私はしばらく、暗い中でその寝顔を見ていた。


まぶたは閉じていて、睫毛の影だけが頬に落ちている。

髪は少しだけ乱れていて、額のあたりに細い束がかかっていた。

寝返りのたびに、それが少しずつずれていく。


指で直してしまいたくなる。

でも今触れたら、起きるかもしれない。


ヒナが目を覚まして、隣に私がいなかったら寂しがるだろうか。

そう思うと、胸の奥が静かに熱くなる。


私はそっと布団を抜け出した。


畳が鳴らないように気をつけながら立ち上がって、襖のところで一度振り返る。

ヒナはまだ眠っていた。

規則正しい呼吸だけが、暗がりの中でやわらかく続いている。


隣の部屋へ移ってから、襖を少しだけ開けておく。

きっちりとは閉めない。

もしヒナが目を覚まして、隣に誰もいなかったら心細いかもしれない。

だから、灯りの細い筋だけが向こうへ漏れるようにする。


小さな灯りに火を入れると、卓の上にやわらかな明かりが落ちた。


その前に座って、私は布を広げる。


細い紐。

小さな飾り玉。

色を合わせた糸。

ひとつずつ、音を立てないように指先で並べる。


今夜作るのは、髪飾りだった。


とびきり華やかなものじゃなくていい。

でも、ヒナの髪に留めたとき、ちゃんと似合うものがよかった。

風が吹いたとき、少しだけ揺れて、ヒナが歩くたびにやわらかく光るようなもの。


赤だけじゃ強すぎる。

白だけじゃ弱い。

だから、赤に少しだけ淡い色を混ぜる。

目立ちすぎないけれど、目を向けたときにきれいだと思えるように。


糸を撚りながら、私はふっと口元を緩めた。


明日これを渡したら、ヒナはどんな顔をするだろう。


少し目を丸くするかもしれない。

「え、これ……私に?」と、ちょっとだけ困ったみたいに聞いてくるかもしれない。

それとも素直に「きれい」と言うだろうか。


想像しただけで、また口元が緩む。


……だめだ、と思って、私は小さく息を吐いた。


昔から、顔に出ると何度も言われていた。

嬉しいときも、むっとしたときも、考えていることがすぐ顔に出る。

もっと静かにしなさい。

もっと表情を抑えなさい。

人前では失礼ないように。

何度もそう言われて、何度も直された。


でも今は、誰も見ていない。


いや、見ている人がいるとしたら、襖の向こうで眠っているヒナだけだ。

それなら少しくらい、顔に出てもいい気がした。


針先を布に通す。

小さく引く。

また通す。


そうしているあいだ、部屋の中には糸の擦れる音と、遠い川音だけが流れていた。


ヒナはこの髪飾りを大切にしてくれるだろうか。


壊さないように、どこかへしまっておいてくれるだろうか。

それとも、気に入って何日もつけてくれるだろうか。


何日も。


私が作ったものを。

ヒナが。


その想像が胸の奥に落ちた瞬間、顔の熱で指先までじんわり熱くなる。


嬉しい、と思った。

ただ渡すのが嬉しいんじゃない。

ヒナのために何かを作って、時間を使って、形にしていくことそのものが嬉しい。


誰かのために起きている時間。

誰かのために選ぶ色。

誰かのために針を進める指先。


それが全部、ヒナに繋がっている。


私は少しだけ目を閉じた。


昼のあいだだって、髪を結ったり、襟を直したり、寒くないかと気にしたり、そういうことはたくさんしている。


それでもこんなふうに誰かのために夜を使うのは、少しも惜しくなかった。

むしろ、足りないくらいだった。


ヒナはたぶん知らない。

私がこうして、眠ったあとに少しだけ抜け出していることも。


知らなくていいと思っていた。

でも、もし知ったら、どんな顔をするだろう。


「わざわざ遅い時間に?」と、困惑するだろうか。

それとも、呆れたように笑うだろうか。

そのどちらでも、たぶん私は嬉しい。


飾りの結び目を整えながら、私は襖の向こうへ耳を澄ませた。


ヒナの寝息はまだ穏やかだった。

ときどき寝返りの気配がして、そのたびに私は手を止める。

もし起きたら、すぐに戻るつもりだった。

「何してたの」と聞かれたら、うまく誤魔化せるかは分からないけれど。


けれど、今夜のヒナはよく眠っていた。


私はそのことにほっとしながら、最後の飾り玉を留めた。

糸端を始末して、指先でそっと形を整える。


できあがった髪飾りは、小さかった。

でも、ちゃんと可愛かった。


灯りの下で少し角度を変えてみる。

揺れ方も悪くない。

重すぎないから、ヒナのやわらかい髪にもきっと留めやすい。


私はしばらく、それを手のひらに乗せて眺めていた。


ヒナが笑うだろうか。

照れるだろうか。

「もったいなくてつけられない」と言うかもしれない。

でも、できれば使ってほしい。

壊れてもいいから、何日もつけてくれたら嬉しい。


何日も。

私が作ったものを、ヒナが身につけて過ごす。


その想像に、また口元が緩んでしまう。


本当に、私は顔に出やすい。

こんなところを兄たちに見られたら、またからかわれただろう。

でも今は、そんなことを言う人はいない。

ここには私とヒナしかいなくて、私はヒナのためにこの時間を使っていい。


それが、静かに嬉しかった。


ふと、障子の向こうが少しだけ白み始めているのに気づく。

夜明けが近い。


私ははっとして、髪飾りを布で包んだ。

明日の朝、ヒナが起きる前にしまっておかないと。

せっかくなら驚かせてみよう。


灯りを静かに落として、襖のところでまた立ち止まる。

向こうの部屋はまだ暗い。

でも、開けておいた隙間から夜の名残みたいな闇が細く見えている。


私は静かに布団へ戻った。


ヒナは眠ったままだった。

頬にかかっていた髪が少しずれている。

私は今度こそそっと指を伸ばして、それを耳にかけた。


起きない。


よかった、と思うのと同時に、少しだけ寂しい。

でも、起こしたいわけじゃない。

ただ、こうして眠っているあいだに、ヒナのそばに戻ってこられたことが嬉しかった。


ヒナの手が無意識みたいにこちらへ寄ってきた。

私はその指をそっと取って、自分の手の中へ包む。


ぬくもりがある。

生きているぬくもり。

そのぬくもりで冷たかった私の手が温かくなっていく。

それだけで、胸の奥が静かに満ちていく。


明日も、ヒナが少しでも楽しい日にしたい。

明後日も、その次も。

ずっと。


「あの子、ほんと私のことばっかり書いてるな……」


 私はそう呟いて、頁を捲った。


 そのとき、少し離れたところで大きな音が響いた。

 木が倒れるような、何かが壊れるような音。


 私はしばらく黙って、それを聞いていた。


 それから、小さく息を吐いて糸を引く。


「……また、やり直し」


 最初は、たいていうまくいく。


 手を取り合う。

 笑い合う。

 傷を撫で合う。

 火を囲んで、湯気を分け合って、歌まで作る。


 「ありがとう」が飛ぶ。

 その言葉がまだ空気に残っているあいだだけは、少しだけ救われた気がした。


 ――キクが隣で頷いているような気がして。


 でも、そこまでだ。


 ほんの小さな差で、すぐに歪む。


 誰が多く働いたか。

 誰が褒められたか。

 誰が先に食べたか。

 分け前の一欠片。

 声の大きさ。

 視線の向き。

 笑い声の、ほんの少しの遅れ。


 それだけで、空気は簡単に変わる。


 言葉が尖る。

 目が逸れる。

 手が離れる。

 謝る声は遅れ、冗談は刺さり、沈黙ばかりが増えていく。


 そのうち誰かが、誰かを責めはじめる。


 「正しい」の取り合い。

 「被害者」の取り合い。

 味方と敵を作って、ようやく落ち着いた顔をする。


 ……ほんと、人間って不思議だ。

 外に追い出す相手が決まった瞬間だけ、あんなに綺麗に呼吸が揃うんだから。


 私はもう何度もやり直した。


 壊して、作って、整えて、また壊す。

 土台から崩し、言葉を磨き、関係を縫い直し、時には記憶まで触った。


 でも結局、割れる場所はだいたい同じだった。


 同じところで。

 同じ角度で。


 まるで最初から、そこに罅が入っていたみたいに。


「……私の手が悪いのかな」


「それとも、人間ってこういうもの?」


 白い空間に向けて言う。

 返事はない。


 まあ、返ってきたところで困るけれど。


「……次」


 私はもう、分かりはじめていた。


 人間は、放っておけばまた誰かを噛む。

 弱いものを見つけたら、そこへ歯を立てる。

 自分の居場所を守るためなら、誰かを外へ押し出すこともそんなに躊躇わない。


 だったら、最初から争わせればいい。


 争いそのものをなくせないなら、せめて方向だけ決めてしまえばいい。

 人間同士で削り合うくらいなら、削る相手を外に置けばいい。


 人間と、それを喰う妖がいる世界を作る。

 最初から“敵”を置いておく。

 争いをやめられないなら、せめて理由を与える。


 理由があれば、同じ側には立てるから。


「私に従え」


 せめて、それぞれの枠の中では助け合ってほしい。

 誰かの孤独を、誰かが少しでも埋めてほしい。


 ……もう、私の望みなんてそれくらいしか残っていないのだから。

 

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