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雛代の箱庭  作者: N


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28/32

28話

 川の近くに、キクと過ごしていたのと同じ家を作った。


 川音がいちばん近くに聞こえる場所。

 風が草を撫でる匂いが、薄く入ってくる場所。

 キクが「ここがいい」と言いそうな場所を、身体が勝手に選んだ。


 屋根の角度も、柱の間隔も、畳の匂いも。

 縁側の板の幅。障子の桟の数。

 手を伸ばしたとき、指が触れるはずの距離まで。

 思い出を写し取るみたいに、同じにした。


 柱を立てるたび、私は何度も手を止めた。

 ここでキクが笑った。

 ここで湯気の立つ茶碗を並べた。

 ここで私の髪を梳いた。

 ――そんな記憶が目の前に重なった。


 畳を敷くと、青い草と湿った土の匂いが立った。

 一瞬だけ胸がほどけそうになって、次の瞬間、喉の奥が詰まった。


 障子をはめた。

 紙は白い。白すぎて、あの白い空間を思い出した。

 それでも私は同じ白にした。

 キクが指先でなぞって、「きれい」と言いそうだったから。


 縁側にも座れるようにした。

 外を眺められるようにした。

 二人で肩を寄せた角度まで、座る場所を覚えていた。

 ——もう覚えているのは、私だけだ。


 家が完成するまで、ひどく時間がかかった。

 途中で何度も泣いて、手が止まった。


 できあがった家は、静かすぎた。

 息の音だけがやけに大きくて、床に落ちる影もくっきりしていた。

 人が一人いなくなるだけで、空間はこんなにも広くなるのかと思った。


 箱庭に残っていたキクの私物を回収してから、そこはもう見向きもしなくなった。

 あそこは私とキクが作ったのに、もう私たちのものじゃなくなってしまった。

 だから見ない。

 振り返らない。

 川音だけを背に、同じ家の中で、同じように息をした。


 ——同じにしたのに、同じじゃなかった。

 同じにすれば戻ると思っていた自分が、いちばん惨めだった。


 私は、抜け殻みたいに毎日を過ごした。

 川音だけが時間を数えて、朝と夜を連れてくる。

 「ごめんね……約束守れなくて」

 そんなことばかり、繰り返し呟いていた。


 もう、あの村はないはずなのに。

 それでも、力と信仰が年々強くなっていくのを感じた。


 指先の糸が増える。

 何もしていないのに、糸が水面の向こうへ勝手に伸びていく。

 魂の気配が、川底の石みたいに沈んでいるのが分かる。

 呼んでいないのに、呼ばれているみたいだった。


 境界の外へ出ようとしても、もう何も起こらない。

 昔は皮膚が裂けた。痛みがあった。

 今は裂けもしない。


 死のうとしても死ねなかった。

 水に沈んでも、息が尽きない。

 頭に岩を落としても、何も起こらない。


 それでも糸は増える。

 祈りも増える。

 誰もいないのに、私だけが“祀られて”いく。


 死ぬための道が、全部ふさがれている。


 ——生きるしかない。

 罰みたいに。


 ふと、思ってしまう。

 キクの言う通り、二人だけのほうがよかったのかもしれない。そのまま静かに消えていく方が幸せだったかもしれない。


 その考えが浮かぶたび、胸の奥が少しずつ腐っていく。

 私が望んだ“対等”は結局、誰も救えなかったのだと。


 私はキクのために生きてきた。

 キクも私のために生きていた。

 それを、私が奪ってしまった。


 川音だけが返事をする。


「ねえ……キク」


 声が震える。


「私、これからどうすればいいの?」


 数日後。

 私は肌襦袢ひとつで、川辺を歩いていた。


 服の合わせはずれ、紐も結ばないまま垂れている。

 風が入り、薄布が素肌に貼りついては剥がれた。

 寒いのに、その寒さにすら集中できない。


 キクが見たら、眉を寄せただろう。

 「だめだよ」って、私の手を取って。

 結び目を直して、襟を整えて、

 「ほら、これで大丈夫」って、いつもの順番で新しい着物を着せてくれた。


 その想像だけが、胸をひどく痛くした。

 痛いのに、歩くのはやめられなかった。


 そこで、雛代の石碑を見つけた。


 石は風化して、角が丸くなっている。

 それでも文字だけは、しぶとく残っていた。


 ——神巫 雛。

 ——菊。

 ——梅。


 指でなぞると、砂が落ちる。

 まるで私たちが、少しずつ消えていくみたいだった。


「みんな……」


 私は息を吸った。喉が痛む。


「私は……どうすればいいの?」


 石碑を抱いた。

 冷たい石に額を押しつける。


「……ごめん。

 ごめんね」


 言葉が勝手に落ちていく。


 私が“正しい”と思ったことが、

 私が“優しさ”だと思ったことが、

 キクを殺した。


 私が糸を引いた夜から、ずっとそうだったのかもしれない。

 村を沈めた瞬間から、私はもう、人のままでいられなかったのかもしれない。

 なのに私は神じゃないふりをした。

 自分の手が汚れていることを、見ないふりをした。


 どれくらい、そうしていただろう。

 何月で、何年で、もう分からない。


 ——そうだ。

 せめて、みんなと過ごしたあの場所だけは大事にしよう。


 もうキクもウメもいない。

 それでも、あの場所があったから、孤独は一度だけ埋まった。

 私だけじゃない。みんなの分も。


 私はおぼつかない足取りで家に帰った。

 縁側の見える部屋の、少し奥。

 そこに箱庭がある。


 立ち止まる。

 指先が震える。

 それでも私は、箱庭を覗いた。


 その世界は争っていた。


 人は増えないはずだ。

 私が魂を入れない限り、数は増えない。

 なのに、残り少ないはずの人々が互いを削り合っている。

 小さな火。折れた槍。怒鳴り声。

 祈りの歌は、もうどこにもない。


 胸の奥が、熱くなる前に冷えた。

 許せなかった。


 ——私たちの世界を汚すな。


 声に出した瞬間、私の中で何かが決まった。

 怒りじゃない。

 裁定だった。


 私は糸を引いた。


 箱庭の中の声が、一斉に止まる。

 火が止まる。足音が止まる。

 叫びも泣き声も、同じ高さの音になって――ぷつり、と切れた。


 風景だけが残る。

 そこにいた“人”の重みだけが消えた。


「……消えて」


 自分でも驚くくらい冷たい声だった。

 私は神じゃないはずなのに。

 神みたいなことを、簡単にしてしまった。


 胸の奥が空っぽになる。

 気持ちよさすらない。

 ただ、静かだった。静かすぎた。


 ……違う。

 こんなことがしたかったんじゃない。


 次は、人同士が争わない世界を作ろう。

 互いの孤独を埋め合って、幸せになれる世界を。

 助けて、助けられて。

 笑って、泣いて。

 ……誰も、私みたいにならない世界を。


 ……一緒に、ヒナの理想の世界を作ろうね。


 キクの声が、耳の奥で鳴った気がした。


 私はしばらく動かずに立っていたが、やがて静かに息を吐いた。

 乱れた髪を梳き、川の水で体を清める。

 冷たさが、余計な感情を削いでいった。


 新しい着物に袖を通す。

 深い赤。儀式のために“着せられた”赤じゃない。

 作り直した、上質な赤だ。


 袖の内にだけ、青が差している。

 隠すみたいに、でも消えないように。

 指先がそこに触れた瞬間、喉の奥がきゅっと鳴った。


 帯を締める。結び目を確かめる。

 整えるほど、私の中の空白も形を持っていく。


「やるよ……キク」


 声は小さいのに、言い切った。

 逃げないための言葉みたいに。


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