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雛代の箱庭  作者: N


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27/32

27話


 私はキクの亡骸を抱き抱え、二人の家へ帰った。

腕の中は、驚くほど軽い。

軽すぎて、怖い。

私の腕からこぼれそうで、抱き直すたび胸が痛んだ。


帰り道、何度も確かめてしまう。

キクの髪。頬。唇の形。

指でなぞると、皮膚はもう返事をしないのに、私は勝手に息を吸ってしまう。

ほんの少しでも、匂いが残っていないか確かめるみたいに。

触れるたび、まだ温度がある気がして、指先が止まらない。


「……寒くない?」

返事はないのに、私は震える声で訊いてしまう。

キクがいつも私にしたみたいに。

「ね、嫌だったら言って」

言えるはずがない相手に、甘えるみたいに言った。


世界から色が消えた。

火も、花も、歌も、遠い。

私はキクのためにこの世界を作ったのに。

キクが笑うための場所を、私は作ったのに。


——私がキクを殺した。

直接手を下したわけじゃない。

でも、私が作った秩序が、キクを殺した。

私が望んだ“正しさ”が、キクの喉を締めた。

守るために選んだはずの形が、いちばん大事なものを奪った。


玄関に膝をついて、私は彼女をそっと座らせる。

座らせた瞬間、腕の中が空になるのが怖くて、手を離せなかった。

抱きしめたまま、しばらく動けない。

息の仕方も忘れる。


体温がない。

ただそれだけのことが残酷だった。

あれほど私を縛った温もりが、もうどこにもない。


乱れた衣を整えて、帯を結び直した。

指が震えて、結び目が何度もほどける。

ほどけるたびに、息が浅くなる。

それでも、結ぶ。

結べば戻る気がしてしまう。


髪を梳く。いつもの順番で。

キクが私にしてくれた順番。

手が覚えている。


まるで目を覚ましたら、「えらいね」と笑ってくれるみたいに。

頬に触れて、声を待ってしまう。


……笑うはずがないのに。

分かっているのに、やめられなかった。


「……ごめんね」

声が掠れる。喉の奥が痛い。

「ねえ、キク。私、ちゃんと大事にできてた?」


「私、キクのこと……」

言葉の先が出てこない。出したら終わる気がして。


返事はない。

だから私は、代わりに口づけをした。

額に。頬に。唇に。

祈りみたいに、静かに。

でも祈りじゃない。縋りだった。


唇が触れた瞬間だけ、世界がほんの少し戻る気がした。

色が滲む。音が輪郭を取り戻す。

キクの味がまだ残っている気がして、離したくなくなる。


私はもう一度、唇を重ねた。

一回で足りない。

足りるはずがない。

足りないのは、唇じゃない。

返事だ。温度だ。生きているという証だ。


「おかえりって言って」


自分でも驚くほど幼い声が出た。

喉が震えて、言葉がほどける。


「一回だけでいいから……」

「私のこと、呼んで」

「ヒナって……」


言いながら、胸が潰れそうになった。

抱きしめる腕に力が入る。

逃げないようにするみたいに、きつく。

「やだよ……」

小さく漏れた声が、自分のものだと分からなかった。

「置いてかないで」

「ねえ、キク……ねえ……」


その瞬間、堪えていたものが決壊した。

涙が溢れて、頬を伝って、キクの肌に落ちた。

温かいのは私だけで、それが余計に苦しかった。


——いま思えば。

私たちの人生は、なんとまあ惨めなのだろう。

生贄のために育てられ、死んでからも普通の生活を求めて、あげくこんな最期だなんて。


もう、どうでもよくなった。

どうでもよくしてしまいたかった。


川の近く、草がいちばん柔らかいところを選んだ。

土を掘ると、湿った匂いが上がってくる。

指先がすぐ冷えて、爪の間に黒い泥が入った。

それでも掘った。


土は思ったより重くて、私は何度も息を吐いた。

息が白くならない季節なのに、喉だけが冷たい。

まるで私だけが生きているみたいで、胸が痛かった。


穴ができると、私は一度だけ手を止めた。

そこにキクを置いたら、もう戻せない。

分かっている。分かっているのに、身体が受け入れない。


分からないふりをしたくて、彼女の頬を撫でた。

冷たい。

でも、その冷たさすら私のものみたいで指が離れない。


「……寒くない?」


また訊いてしまう。

返事がないのに。

返事がないことを、聞かなかったことにしたくて。


私は自分の着物を脱いで、キクにかけた。

首元まで丁寧に引き上げる。

風が入らないように襟を合わせ、重ねを整える。

昔、村の女たちが誰かの死体を扱うとき、こうしていた。

「穢れが移る」と言いながら、手はやけに手慣れていた。

私はその手つきを嫌いだったのに覚えていた。


髪が乱れていたから、指で梳いた。

いつもの順番で。

私の記憶より先に指が動く。

呼吸までその順番に合わせてしまう。


私は膝をついて、額をキクの額に寄せた。


皮膚が触れる。


ほんの一瞬だけ、熱が戻った気がして息が止まる。

そんなはずないのに。

それでも私は離れなかった。

そこに、嘘でもいいから温度を作りたかった。


「ねえ、キク」


声が掠れる。うまく息が通らない。


「私……キクがいないと寂しいよ」


返事は来ない。

分かっている。分かっているのに、耳だけが待っている。


来ないから、私は口づけをした。

額に。頬に。唇に。

一回で終われなかった。二回、三回。

名残が残るまで、逃げないように唇を押し当てた。

離したら、本当にいなくなる気がして。


最後に、キクの指を自分の指に絡めた。

硬い。動かない。

それでも握った。

握り返される感覚を必死に思い出す。

そうしていないと崩れてしまう。


「……行かないで」


言った瞬間、喉の奥が裂けたみたいに痛んだ。

泣いているのかも分からなかった。

声が出ているのかさえ、分からなかった。

ただ、離したら終わることだけが怖かった。


私はキクを穴の底へ横たえた。

着物の裾を整えて、髪が顔にかからないように払った。

まるで眠っているみたいに見せたかった。

眠りなら、いつか起きるから。


供養なんてできない。

読経も、香も、弔いの僧もいない。

だからせめて鎮める。

村が「鎮撫」と呼んでいたあの言葉で、私はキクを閉じる。


土をかける前に、もう一度だけ頬に触れた。

冷たさが、指に移る。

その冷たさを、私は離したくなくて、頬に押し当てた。


土を落とす。

ぱらぱら、という音がやけに大きい。

布に当たる音。髪に当たる音。

それが聞こえるたび、胸の中の何かが剥がれていく。


途中で何度も手が止まった。

呼吸が乱れて、息が苦しくて動けなかった。

泣いているのに、涙は熱くない。

ただ重く落ちて、土に吸われた。


それでも私は最後まで埋めた。

盛った土の上に、川原の石を一つ置いた。

石の平たい面を上にして、指で泥をぬぐい、置く。

石碑みたいに。でも、名前は刻めない。刻んだら、ここに縛ってしまう気がしたから。

それでも私は、石の下に小枝を二本だけ差し込んだ。

結界のしるし。獣よけ。人よけ。

そして何より私の心が勝手にやってしまう“作法”だった。


なにかしないと、ここが“ただの地面”になってしまう。

キクがいなくなったことを、私はまだ受け入れられない。


立ち上がると、膝が震えた。


白かった長襦袢の裾は、泥を吸って重い。

草の露と土の冷たさが、布越しに貼りつく。

袖口には黒い筋が残っている。掘った指の跡だ。

こすっても落ちない。


川へ降りた。

手を浸す。水は冷たい。

指の間の泥がほどけて、流れていく。

けれど、落ちるのは泥だけだ。

爪の奥に残る黒と、喉の奥の痛みは、どれだけ浸しても消えない。


私は濡れた指で襦袢の前を合わせ直した。

帯がない。留める紐もほどけたまま歩いた。キクが見たら、「はしたない」って言って服を着せてくれたかな。


振り向けば、掘り返してしまいそうだった。

だから私は、振り返らず箱庭から出ていく。

 

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