26話
私は走りながら、何度も同じことを考えていた。
私は神じゃない。
ただの人だ。
なのにこの村では、
私の言葉はもう“神の言葉”にしかならない。
優しさも、願いも、全部。
私が何を言っても、
命令の形にねじれていく。
私はただ、
みんなが仲良くしてほしかっただけだった。
同じ場所で笑って、
同じ火を囲んで、
同じ歌を歌ってほしかった。
それだけだった。
でも、キクは違った。
キクは私よりずっと村人たちと関わっていた。
彼らの目を見て、
声を聞いて、
沈黙の意味まで拾っていた。
あの子はきっと、
私よりずっと早く知っていたのだと思う。
私が“神”の場所から降りたとき、
この村がどんな顔をするのか。
対等でいたい、なんて願いが
どれほど脆いのか。
神の立場から降りた瞬間、
私たちは何になるのだろう。
祈られるものじゃなくなって、
守られるものでもなくなって、
ただそこにいるだけの異物になる。
恐れが剥がれたあとに残るのが、
好奇心なのか、
欲なのか、
憎しみなのか。
そんなことを、
キクはずっと前から知っていたのかもしれない。
キクが上下関係に厳しかったのは、
私を守るためだったのかもしれない。
守るための掟。
守るための距離。
私はそれを、
理想を壊すものだと思っていた。
キクは私の世界を狭めようとしているのだと、
ずっとそう思っていた。
でも、逆だったのかもしれない。
私の理想が壊れないように、
あの子は現実の醜さを
ひとりで背負っていたのかもしれない。
そう思った瞬間、
背中の糸が一斉に張った。
嫌な予感が、
遅れて追いついてきた。
私は走った。
でも、
走りながらもう分かっていた。
たぶん、遅い。
道を曲がるたびに、
村人たちが私のために道を空けた。
誰も止めない。
誰も事情を言わない。
ただ、
静かに身体を避けるだけだった。
その静けさが、
もう何かを知っているみたいで怖かった。
視線だけが、私を追ってくる。
驚きではなく、
見届けるみたいな目だった。
私はその目を振り切るように、
さらに足を速めた。
そして見つけた。
キクは、
村人たちに殺されていた。
一瞬、
何を見ているのか分からなかった。
そこにある形は
たしかにキクなのに、
いつも知っているあの子と、
あまりにも違いすぎた。
最初に目に入ったのは髪だった。
いつも私の髪の乱れすら許さなかった、
丁寧に結われた黒髪が、
ひどく乱れていた。
指で梳けば戻るはずの毛先が、
もう戻らない乱れ方をしている。
ただほどけたんじゃない。
引かれて、
掴まれて、
乱暴に崩されたあとだけが残っていた。
着物も歪んでいた。
布はところどころ不自然に引きつって、
体の線が崩れ、
白い足が覗いている。
誰かの手が乱暴に触れた痕だけが、
そのまま残されていた。
口の端は切れていた。
頬にも赤黒い跡が浮いている。
何度も殴られたのだと、
見なくても分かった。
その下に、
乾いた涙の跡が残っていた。
私はキクが泣くのを、
ほとんど見たことがなかった。
私にも見せなかった顔を、
こんな形で引きずり出されたのだと思うと、
胸の奥が痛かった。
袖口には土と煤がこびりつき、
指先は爪の端まで汚れていた。
その汚れが、
抵抗した時間を教えるみたいで、
喉の奥がひりついた。
最後まで、
守ろうとしたのだ。
私のために。
その事実だけが、
遅れて胸を殴った。
帯はほどけていた。
結び目は残っていない。
解いたのではなく、
引きちぎったみたいに端が捻れていた。
襟元も乱れていた。
けれど、
それ以上に私の目を奪ったのは、
“整えようとした跡”だった。
乱れたままではまずいとでも思ったのか、
誰かが一度、
開いたものを形だけ戻している。
丁寧ではない。
優しくもない。
ただ、
見えなければいいとでも言うみたいに。
それを見た瞬間、
胃の奥が冷たくなった。
ここで何が起きたのかを、
身体が先に理解してしまった。
誰かが壊して、
誰かが隠した。
きれいに戻せば済むと思ったみたいに。
見えなければ、
なかったことになると思ったみたいに。
その形だけが、
余計に残酷だった。
私はキクの名前を呼ぼうとした。
でも声が出なかった。
喉の奥が冷たく固まって、
息だけが震えた。
目の前にいるのに、
もう届かない。
遅かった。
私が気づいたときには、もう。
そのとき、
背後で村人たちの声がした。
口を揃えていた。
まるで自分たちは正しいことをしたのだと、
少しも疑っていない声だった。
「神様に対して無礼すぎる」
「だから、審判を下した」
言葉が頭に入ってこなかった。
けれど、
意味だけは嫌になるほど分かった。
自分たちが何をしたのか、
本当は分かっているはずなのに。
分かったまま、
それでも「正しいことだった」と言い換えてしまう。
見なかったことにするために。
自分たちが傷つかないために。
誰かを壊した事実の上へ、
もっと綺麗な言葉を被せてしまう。
その瞬間、
今までずっと理解できなかったものが、
胸の奥でひどく鮮明な形を取った。
――ああ。
キクは、これを見ていたのだ。
ウメたちを殺したあの日、
キクの中にあったものが、
初めて分かってしまった。
大切なものを奪われるとき、
それを奪った相手が
何事もなかったみたいな顔で立っているだけで、
息ができなくなるほど憎くなること。
返してほしいわけじゃない。
もう返らないと分かっている。
それでも、平気な顔をしている相手を、
このまま生かしておけないと思ってしまうこと。
壊された痛みより先に、
壊した側の鈍さが許せなくなること。
私はその感情に気づいた瞬間、
ぞっとした。
怒りより先に、
理解してしまったからだ。
もし今、
振り返れば、
私はきっとためらえない。
キクがあのとき何を見て、
何を怖がって、
何を終わらせたくなったのか。
それが、
あまりにもよく分かってしまった。
キクが神だった頃、
彼らはキクにも頭を下げていた。
けれど、
下げていたのはキクにじゃない。
“神”という形にだ。
その形から外れた瞬間、
こんなふうに壊される。
私はその場で、
ようやく本当に理解した。
キクは、
もうずっと前からこれを知っていたのだ。
だから対等ではいけないと言った。
だから線を引いた。
だから距離を作った。
私はそれを、
冷たさだと思っていた。
見下しだと思っていた。
でもあの子は、
もっと先にあるものを見ていた。
私が見たかったのは、
みんなが仲良く笑い合う村だった。
キクが見ていたのは、
その笑顔が剥がれたあとの顔だった。
私が神の場所から降りたら。
私が“ただの人”になったら。
この人たちは、
次は私を殺すのだろうか。
同じように。
「正しい」と言いながら。




