25話
翌朝、私は珍しくキクより先に目を覚ました。
隣を見る。
キクはまだ眠っていた。
少しだけ安心する。
夜のあの熱も、深すぎる眠りも、
朝になれば少しはましになっている気がしたからだ。
私はしばらく、黙ってその寝顔を見ていた。
聞きたいことはたくさんあった。
腕の痣のこと。
昨日の乱れた姿のこと。
何があったのか。
どうして隠すのか。
でも、約束したのは私だ。
明日、必ず話す。
そう言ったのはキクで、
待つと決めたのは私だった。
だから、
私から聞こうとは思わなかった。
キクが自分から話してくれるまで、
待とうと思った。
その代わり、今日は私がちゃんと見る。
そばにいて休ませる。
そう決めた。
私はそっと布団を抜け出して、
先に湯を用意した。
しばらくして、
背後で布の擦れる音がした。
振り向くと、
キクがゆっくり起き上がっていた。
髪はほどけたまま肩に落ちていて、
寝起きのせいか、いつもより少しだけ幼く見える。
「……おはよう、今日は早いね。ヒナ」
少しかすれた声だった。
それでも、ちゃんと笑おうとしている。
「おはよう」
私はできるだけ普通に返した。
キクが立ち上がろうとしたので、
私は先に櫛を取った。
「今日は、私がやる」
そう言うと、
キクが少しだけ目を見開く。
「……髪?」
「うん」
私は笑ってみせる。
「前に約束したでしょ。
たまにはちゃんとやらせて」
キクは少しだけ困ったように笑った。
でも、断らなかった。
素直に座る。
そのことが、
少しだけ嬉しかった。
私はキクの後ろに回って、
黒髪へ指を入れる。
さらりとほどける感触は、
前と変わらなかった。
でも今日は、
その髪の重さが少しだけ頼りなく思えた。
絡まないように、
痛くないように、
ゆっくり櫛を通す。
「痛くない?」
「うん」
キクの声は小さい。
でも、ちゃんと返ってくる。
私は少しだけ安心して、
前に教わった通りに髪をまとめていく。
途中で何度か形が崩れて、
結び直す。
昔なら、キクが後ろから手を伸ばして
「そこ、違うよ」と笑っただろう。
でも今日は何も言わない。
ただ静かに座って、
私の指に任せていた。
「……できた」
最後にそう言うと、
キクは自分の髪にそっと触れた。
「うん」
それから少しだけ振り返って、
やわらかく笑う。
「ありがとう」
その声が弱々しくて、
思っていたよりずっと胸に残った。
次は着物だった。
キクがいつものように自分で手を伸ばそうとする前に、
私は先に布を取った。
「それも、私がやる」
「……ヒナ」
少しだけためらう声だった。
私は首を振る。
「今日は休んでて」
そう言うと、
キクはしばらく私を見ていた。
それから、
観念したみたいに小さく息を吐いて、
腕を通しやすいように少し持ち上げる。
私は襟を合わせて、
布の重なりを整えて、
紐を結ぶ。
いつもキクがしてくれていた順番を、
思い出しながらなぞる。
手際はきっとよくない。
でも、今日はそれでよかった。
「苦しくない?」
「うん。大丈夫」
「ほんとに?」
「うん」
短い返事だった。
けれど嫌そうではなかった。
むしろ、
少しだけ力を抜いているように見えた。
着付けが終わると、
私は卓に器を並べた。
本当は食べなくても困らない。
でも、こういう時間を大事にしてきたのは、
ずっとキクのほうだった。
「今日はちゃんと食べて」
そう言って向かいに座ると、
キクが少しだけ笑った。
「ヒナが乗り気なの、なんだか変」
私も少し笑う。
それから、
昔キクがしてくれたみたいに、
器を持ち上げて差し出した。
「ほら、あーん」
言った瞬間、
キクが目を丸くした。
ほんの少しだけ、
びっくりした顔になって、
そのあと、ふっと笑う。
「……ヒナがやるとなんか変」
「文句言わない」
「言ってないよ」
そう言いながら、
ちゃんと口を開ける。
私は少しだけ安心して、
食べさせる。
キクも、今度は少しだけ箸を持ち直して、
私に向けてくる。
「ヒナも」
「うん」
二人で少しだけ笑った。
その笑い方が、
久しぶりに前みたいで、
胸の奥がゆっくり温かくなる。
食事のあと、
私はキクの横に座った。
「今日は、ずっとここにいて」
できるだけ軽く言ったつもりだった。
でも、声の奥に必死な願いが混ざっていたのは、自分でも分かった。
キクは少しだけ驚いたように、
目を瞬かせた。
それから、
やわらかく笑う。
「うん」
その返事に、
胸の奥の固いところが少しだけ緩んだ。
約束してくれた。
今日はここにいると、
ちゃんと言ってくれた。
だから私は、
少しだけ信じてしまった。
昼までのあいだ、
私たちは静かに過ごした。
何か特別なことをしたわけじゃない。
でも、
何もしないで一緒にいる時間が、
前より少し大事に思えた。
私はふと思いついて、
昔みたいに川に石を投げてみた。
「……ちゃぽん」
昔と違って音も返ってくるのに、
わざとらしく言うと、
キクが少しだけ目を細める。
「それ、懐かしいね」
「やる?」
そう聞くと、
キクはほんの少し迷ってから、
私の真似をするみたいに手を動かした。
「……ちゃぽん」
少しだけ声がかすれていたけれど、
ちゃんと遊びの形になっていた。
私は思わず笑ってしまう。
「変」
「ヒナが先にやったんでしょ」
「そうだけど」
そう言いながら、
もう一度だけ石を投げる真似をする。
「ちゃぽん」
今度はキクのほうが少しだけ笑った。
それから、
二人で一緒に投げる。
「……ちゃぽん」
「ちゃぽん」
声が少し重なって、二人で笑う。
声だけが川辺に落ちる。
昔は、音のない場所でそうしていた。
今は本当に水の音が返ってくるのに、
それでもわざと口に出してしまう。
そういうところが、
少し可笑しかった。
やがて、遊びが途切れる。
途切れても、
気まずくはなかった。
キクは縁側の柱にもたれるみたいにして、
私の肩へほんの少しだけ寄っていた。
重さはほとんどない。
でも、
そこにいることだけは分かる重さだった。
風が、二人のあいだを静かに抜ける。
私は何となく、
キクの髪を見た。
今朝私が結った形のまま、
少しも崩れていない。
「ねえ、キク」
「なに?」
「最初に髪を結ってくれたときのこと、覚えてる?」
そう聞くと、
キクはすぐに笑った。
「覚えてるよ」
迷いのない声だった。
「今でも上手にできたって思う」
「うさぎとか言ってた」
「可愛かったでしょ」
「変だったよ」
そう言うと、
キクが少しだけ肩を揺らす。
「でも、似合ってた」
その言い方が昔と同じで、
私は少しだけ笑った。
「そういえば、そのあとにしてくれた髪型って、どんなのだったの?」
キクは少しだけ目を伏せた。
「あれはね……私と同じにしてみたの」
言ってから、
少しだけ照れたみたいに笑う。
「あのときは、私と同じじゃ嫌かなって思って、言えなかった」
「そうだったんだ」
私は少しだけ考えて、
それから言った。
「……じゃあ、今して」
「え?」
「キクと同じの」
キクの目が、
ほんの少しだけ揺れた。
それから、
やわらかく潤んだみたいに見えて、
小さく頷く。
「……うん。いいよ」
今度は二人で鏡の前に移動する。
キクは私の後ろへ回ると、
慣れた手つきで髪を整えていった。
指が迷わない。
櫛が通るたび、
髪がきちんと形になっていく。
さっき自分でやったときは、
あれほど時間がかかったのに。
最後に簪が通る。
「……できた」
鏡に映った二人は、
姉妹みたいに見えた。
「やっぱり、キクは上手」
そう言うと、
キクは鏡越しに目を細める。
「似合ってるよ、ヒナ」
それから二人で、
また縁側へ戻った。
風はさっきより少しだけやわらかい。
キクは前を向いたまま、
しばらく何も言わなかった。
でも、風が少し強く吹き抜けると、
ゆっくり口を開いた。
「私の家、四人兄弟だったんだ」
穏やかな声だった。
「兄が三人いて、私が一番下」
私は黙って、その横顔を見る。
キクは少しだけ目を細めた。
「なんでも、私が後回しだったよ。
親も兄にばっかり構ってて、
ごはんも、兄たちの残りをもらうことが多かった」
そこで一度、
小さく笑う。
笑った、というより、
昔のことを遠くから見ているみたいな顔だった。
「そのくせ、厳しいことだけはちゃんと私にも来るの。
あれしなさい、とか。
ちゃんとしなさい、とか」
風がキクの髪を少し揺らした。
「だからね」
声が少しだけやわらかくなる。
「ずっと思ってた。
もし私に妹がいたら、絶対あんなふうにはしないのにって」
私は何も言わなかった。
言葉を挟んだら、
この静かな声が途切れてしまいそうだから。
「ちゃんとごはん食べさせて、
知らないことは優しく教えて、
寒くないようにしてあげて」
キクはそこで少しだけ笑う。
「……たぶん、いっぱい構ったと思う」
その言い方に、胸の奥が小さく痛んだ。
「雛代の役目が終わって、
もし生まれ変われたら、
次はお姉ちゃんがいいなって思ってた」
キクは前を向いたまま、
少しだけ肩の力を抜く。
「それでね」
小さく続ける。
「ヒナと会って、びっくりした」
そこで初めて、
キクがこちらを見た。
やわらかい目だった。
「なんか、ずっと想像してた“妹”みたいだったから」
そして、また前を向く。
風が、ほどけかけた髪をやさしく揺らした。
「……でも、上手にはできてなかったと思う」
その声は静かだった。
後悔というより、
自分の手の中にあったものを、
そっと確かめ直しているみたいな響きだった。
「そんなことない」
気づいたら、言葉が口から出ていた。
黙って聞いていようと思っていたのに、
それだけは、すぐに否定したかった。
キクは少しだけ目を細める。
それから、前を向いたまま
静かに笑った。
「そっか」
小さく息を吐いて、
つづける。
「もしさ」
声が少しだけやわらかくなる。
「私たち、ちゃんといなくなって、
それでまた生まれ変われたら……」
そこで、
キクはほんの少しだけ言葉を選ぶみたいに黙った。
「次は、ほんとのお姉ちゃんがいいな」
私は何も言えなかった。
風の音だけが、
縁側の下を通っていく。
キクは膝の上の指先を見ながら、
また小さく笑う。
「そのときの妹は――」
そこまで言って、
言葉が止まる。
止まった、というより、
自分で飲み込んだみたいだった。
私はその横顔を見る。
キクは少しだけ困ったように笑って、
首を振る。
「……ううん。やっぱり、なんでもない」
そしてわざとらしく思いついたように言う。
「そうだ。ねえ、ヒナ。今日はお世話してくれたから疲れたでしょ。こっちおいで」
そう言って、
キクは自分の膝を軽く叩いた。
私は少しだけ目を丸くした。
「……いいの?」
「いいよ」
キクは笑う。
「ヒナも好きでしょ」
その言い方が、
少しだけ昔みたいで。
私は逆らえなくて、
おとなしく隣へ寄った。
そっと頭を乗せる。
やわらかい。
着物の布越しに、
キクの体温が伝わってくる。
前にも何度かこうしてもらったことがある。
髪に触れる指がやさしくて、
どこにも行けなくなるくらい安心した。
「重くない?」
何気なく聞くと、
キクはすぐに答えた。
「軽い」
それも前と同じだった。
私は少しだけ笑って、
目を閉じた。
キクの指が、
髪に触れる。
撫でる、というより、
忘れないように確かめるみたいな触り方だった。
一度触れて、
少し間を置いて、
また触れる。
そのたびに、
胸の奥のざわつきが、
少しずつ静かになっていく。
「ねえ、キク」
「なに?」
「初めてこういうことしてくれたこと覚えてる?」
「うん」
「そのとき、どこにも行かないよねって聞いた」
キクの指が、
一瞬だけ止まる。
でも、
すぐにまた動き出した。
「うん」
「私、行かないって言った」
それだけのやり取りなのに、
なぜか胸の奥が少しだけ痛かった。
私は目を開けないまま、
続ける。
「……キクも、行かないよね」
すぐには返事がなかった。
ただ、
膝の下からかすかな震えが伝わってきて、
私はそこで初めて、
キクが必死に声が出ないように息を止めていたことに気づいた。
やがて髪に落ちた息が、少しだけ湿っていた。
「……キク?」
小さく呼ぶと、
少し遅れて、髪に触れる手がまた動いた。
「うん」
その声は、
思っていたより細かった。
「行かないよ」
言ってから、
キクはほんの少しだけ言葉を探すみたいに黙る。
それから、
私の髪をひとすじすくって、
とても静かな声で続けた。
「私はずっとヒナと一緒にいる」
また少しだけ間が空く。
「何があっても、私はヒナを愛してるよ」
「……うん」
私は小さく答えた。
本当は、
もっと何か言いたかった。
私も愛してるとか。
ずっと一緒だよとか。
もっと話そうよとか。
言いたいことはたくさんあったのに、
そのぬくもりの中にいると、
胸の奥で尖っていたものが、
少しずつ丸くなっていく。
キクの指が、
また髪を撫でる。
一度。
少し間を置いて、
もう一度。
規則的なその動きが、
子守唄みたいに思えた。
「眠い?」
キクが小さく聞く。
私は目を閉じたまま、
少しだけ笑う。
「……ちょっと」
「寝ていいよ」
その声があまりにもやさしくて、
私は逆らえなかった。
呼吸が耳の上で揺れる。
膝のぬくもりが、
じんわり額から沁みてくる。
髪に触れる指先の感覚だけを追っているうちに、だんだんと身体の力が抜けていった。
最後にもう一度だけ、
キクの指が前髪をそっと払う。
そのときの私は、
もう考えることをやめていた。
大丈夫だと思った。
今日はここにいるって、
キクはちゃんと言った。
必ず話すって約束もした。
だから、
少し眠ってしまっても平気だと、
そう思ってしまった。
私はそのまま、
キクの膝の上で眠った。
目を覚ましたとき、
最初に分かったのは、
冷たさだった。
頬の下にあるはずのぬくもりがない。
代わりに、
畳の硬さだけが残っていた。
私はぼんやりしたまま、
一度瞬きをする。
何が違うのか、
すぐには分からなかった。
でも、
次の瞬間、
胸の奥がひやりとした。
「……キク?」
身体を起こす。
返事はない。
さっきまで、
確かにいたはずだった。
膝のぬくもりも、
髪に触れる指も、
呼吸も、
全部、あんなにはっきり感じていたのに。
私はあたりを見回した。
縁側には誰もいない。
「……キク」
もう一度呼ぶ。
やっぱり返事はない。
立ち上がろうとして、
足が少しもつれた。
眠気なんて、
もうどこにも残っていなかった。
胸の奥だけが、
嫌な速さで脈を打っている。
居間。
台所。
奥の部屋。
どこにもいない。
布団はきれいに畳まれていた。
まるで、もう使わないみたいに。
彼女の几帳面さを知っているからこそ、それが余計に怖かった。
今度は、少し大きな声になった。
それでも、
返事はなかった。
視線が、
ふと卓の上で止まる。
そこに、櫛が置かれていた。
朝、私が使ったものだ。
その横に、
細い紐がひとつだけ残っている。
胸の奥が、
不意に強く縮んだ。
私はそれを見ないようにして、
そのまま外へ出た。
風が吹いていた。
さっきまでやわらかいと思っていたのに、
今は妙に冷たい。
私はそこで、
息を止めた。
――自分で出ていったんだ。
そう思った瞬間、
昨日の言葉が頭の奥で鳴る。
明日、必ず話す。
今日はずっとここにいて。
約束したのに。
約束したのに、
どうして。
「……キク」
名前を呼ぶ声が、
自分でも驚くほど頼りなかった。




