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雛代の箱庭  作者: N


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24/25

24話


朝、目を覚ますと、

隣にいるはずのキクはもう起きていた。


それ自体は、いつものことだった。


でも、居間へ行ったとき、

私は少しだけ足を止めた。


キクが髪を下ろしたまま座っていたからだ。


黒い髪が、そのまま肩から背中へ流れている。

見慣れているはずなのに、

きちんと結われていないだけで、

少しだけ別の人みたいに見えた。


「……珍しいね」


そう言うと、

キクは湯呑みに触れたまま、少しだけこちらを見た。


「たまには、こういう日もあるよ」


笑って言う。

でも、いつもならとっくに整えている時間だった。


私は少し不思議に思いながら、

その向かいに座った。


しばらくして、

キクが立ち上がる。


いつものように、

私の着物を持ってくる。


私は何も考えず、座ったまま待った。


キクの指が、襟に触れる。


布を合わせて、

紐を取って、

結ぶ。


手つきは丁寧なのに、

その流れがいつもより少しだけ遅かった。


布を重ねて、

止まる。

帯を引いて、

また止まる。


考えごとをしている、というより、

手順をひとつずつ確かめているみたいだった。


「……眠いの?」


なんとなく聞くと、

キクは一拍遅れて顔を上げた。


「ううん」


笑っている。

でも、その笑い方が少しだけ薄い。


「ちょっと、ぼんやりしてただけ」


そう言って、

また私の肩へ布をかける。


そのときだった。


袖が少しだけずれて、

キクの二の腕の内側に暗い色が見えた。


え、と思って目を向ける。


けれど次の瞬間には、

布が落ちて、もう隠れていた。


「……今」


思わず声が出る。


キクが手を止めた。


「なに?」


「ううん……」


見間違いかもしれない、と思った。


影かもしれない。

着物の重なりがそう見えただけかもしれない。


それに、

もし本当に何かあったなら、

キクが何も言わないはずがない気もした。


私は少し迷ってから、

小さく首を振った。


「なんでもない」


キクは私を見たまま、

ほんの一瞬だけ黙った。


それから、

いつもと同じやさしい顔で笑って、

私の襟を整え直した。


「変なヒナ」


からかうみたいな口ぶりだった。


私はそれ以上、何も言えなかった。


朝の支度が終わるころには、

もうその違和感も薄れていた。


でも、

次に引っかかったのは食事のときだった。


いつもなら、

キクが向かいに座って、

「ほら、あーん」とふざけるみたいに差し出してくる。


私が嫌がるふりをして、

それでも結局受け取って、

キクが楽しそうに笑う。


そういう流れが、

もう当たり前になっていた。


けれどその日は、

卓の上に器だけが並べられていた。


湯気の立つ白いごはん。

汁物の形をした椀。

小皿に載った、きれいなおかず。


キクは自分の前に座っていた。


「……今日は、別々なの?」


そう訊くと、

キクは少しだけ視線を落とした。


「うん。たまには」


それだけ言って、

自分の器を持ち上げる。


おかしくはない。

別に、絶対そうしなければいけない遊びでもない。


でも、

その“たまには”が妙に遠く感じた。


私は器を持ち上げたまま、

しばらく黙ってしまった。


キクはいつものように

「ちゃんと噛んで」とも言わない。


ただ静かに、

どこか遠い目をしているように見えた。


「キク、具合悪い?」


思わずそう訊くと、

キクは少しだけ目を瞬かせた。


「悪くないよ」


「でも……」


言いかけると、

キクは少し困ったみたいに笑った。


「ヒナ、今日はよく見てるね」


からかうみたいな口ぶりだった。

でも、それで誤魔化そうとしていることだけは分かった。


それ以上聞けなくて、

私は器へ視線を落とした。


食べる必要のないものを、

二人で黙って口へ運ぶ。


その静けさが、

いつもより少しだけ寒かった。


昼のあいだも、

キクはいつも通りにふるまっていた。


話しかければ返事をするし、

笑いもする。


でも、

返事がほんの少し遅れることがあった。


名前を呼ぶと、

一拍置いてから「なに?」と返る。


そのたび、

私は小さく首を傾げる。


本当に小さな遅れだった。


でも、

私が寒そうにしているだけで布を持ってくる子だから、その一拍が妙に気になった。


夕方、

縁側へ出ようとして、

キクの身体がわずかに揺れた。


すぐに柱へ手をついて、

何事もなかったみたいに姿勢を戻す。


「……今、ふらついた?」


「大丈夫」


返事が速すぎて、

かえって変だった。


「ちょっと立ち上がるのが急だっただけ」


そう言って笑うけれど、

柱に置いた手はすぐには離れなかった。


「今日はもう休んだほうがいいんじゃない?」


そう言うと、

キクは一瞬だけ黙って、

それからゆっくり首を振る。


「まだ平気」


「ほんとに?」


短い返事のあと、

キクは私のそばに来て、

乱れてもいない髪に触れた。


「ヒナこそ、少し冷えてる」


また、そっちへ戻す。

自分のことじゃなくて、

私を整えるほうへ。


私はそれが少し苦しくて、

でも、払いのけることもできなかった。


夜になると、

キクはいつもより早く布団へ入った。


「今日はもう寝るね」


そう言って、

横になる。


私は少し驚いた。


キクはいつも、

私が眠るまで起きているからだ。


手をつないでくれたり、

髪を撫でてくれたり、

たまに小さな声で何か言ったりして、

私の呼吸がゆっくりになるのを待ってから目を閉じる。


でも、その日は違った。


私が隣へ入って、

少ししただけで、

キクの呼吸が深くなる。


あまりにも早かった。


「……キク?」


小さく呼ぶ。


返事はない。


もう一度呼ぶ。

やっぱり返事はない。


私は少し身体を起こして、

そっとキクの肩に触れた。


いつもなら、

それだけで少し目を開ける。

眠っていても、

指だけは絡め返してくる。


でも、

その日は違った。


肩を揺らしても、

まぶたが少しも動かない。


胸の奥がひやりとする。


頬に触れる。

熱かった。


呼吸はある。

苦しそうでもない。

ただ、

まるで糸が切れたみたいに、

深く沈んでいた。


眠っているというより、

気を失うみたいに落ちている。


そう思ってしまって、

私は少し強く名前を呼んだ。


それでも、

返事はなかった。


私はしばらく、

その頬に触れたまま動けなかった。


こんなに揺すっても起きないことなんて、

今までなかった。


いつもなら、

私が少し咳をしただけでも気づくのに。


「……やっぱり、変だよ」


自分に言うみたいに呟く。


でも、

それ以上どうすればいいのか分からなかった。


布団をかけ直して、

額にもう一度だけ触れる。


熱はある。

でも、それだけだ。


明日になれば、

少しはよくなるかもしれない。

ただ疲れているだけかもしれない。


そう思おうとして、

私はふと、朝のことを思い出した。


袖の奥に、一瞬だけ見えた暗い色。


見間違いかもしれない。

影だったのかもしれない。

そう思って、そのままにした。


でも今は、

どうしても気になった。


私はそっと手を伸ばす。


眠っているキクの袖口に触れると、

布が少しひんやりしていた。


起こさないように、

ほんの少しずつ持ち上げる。


途中で、手が止まった。


こんなふうに確かめるのは、

いけないことのような気がしたからだ。


キクが隠したかったなら、

見ないほうがいいのかもしれない。


でも、

朝から胸の奥に残っているざらつきは、

もう無視できなかった。


私は息をひとつ止めて、

もう少しだけ袖をずらした。


白い腕が、暗がりに浮かぶ。


その内側に、

鈍い色が残っていた。


青、というより、

沈んだ紫に近い。

指先で押さえたみたいに、

いくつかの丸い跡が並んでいる。


一瞬、

何を見ているのか分からなかった。


ただ、

ぶつけただけの痣には見えなかった。


掴まれたような。

強く押さえつけられたような。


そう思った瞬間、

喉の奥がひやりとした。


「……キク」


ほとんど息みたいな声で呼ぶ。


返事はない。


私は袖を持ったまま、

しばらく動けなかった。


指先が、少し震えていた。


これを見てもまだ、

ただの見間違いだと思いたかった。


転んだだけかもしれない。

どこかに挟んだだけかもしれない。


そういう理由を、

頭の中でいくつも探す。


でも、

目の前の痣はそのどれをも否定する。


私はそっと袖を戻した。


隠すみたいに。

見なかったことにしたいみたいに。


戻しながら、

指先がまたキクの肌に触れる。


熱があった。


その熱と、

さっきの痣が、

胸の中でうまく離れてくれなかった。


「……何があったの」


聞いても、

返事はない。


キクは深く沈んだまま、

少しも目を覚まさなかった。


私はそのまま、

しばらく隣に座っていた。


今すぐ起こして問いただすべきなのか、

朝まで待つべきなのか、

何も分からなかった。


ただ、

朝になれば話せる気がした。


ちゃんと聞けば、

キクは答えてくれる気がした。


そのときの私は、

まだそう思っていた。


翌朝、

目を覚ますと、

隣の布団はもう空いていた。


胸の奥が、

小さくざわつく。


居間へ行くと、

キクはいつものように座っていた。


今日は髪をきちんと結っている。


黒髪は丁寧にまとめられていて、

昨日みたいな乱れはどこにもない。


それを見た瞬間、

少しだけ安心してしまった自分がいた。


昨夜のことも、

朝の光の中では

少しだけ夢みたいに思えた。


「おはよう、ヒナ」


キクはいつもの声で言った。


顔色はまだ少し白い気がしたけれど、

昨日みたいな熱っぽさは目立たない。


私は向かいに座って、

しばらく迷ってから口を開く。


「……ねえ、キク」


「なに?」


「昨日、袖のところ……」


そこまで言うと、

キクの目がほんの少しだけ細くなった。


でも、それは一瞬で、

すぐにやわらかい笑みに戻る。


「やっぱり気づいてたんだ」


私は頷いた。


「ちょっとだけ見えたから」


キクは困ったみたいに笑って、

自分の腕を軽くさすった。


「ぶつけただけだよ」


やっぱり同じ答えだった。


「どこで?」


「いろいろ」


「いろいろって……」


言いかけると、

キクは少しだけ首を傾げる。


「ヒナ、今日は朝から厳しいね」


からかうみたいな言い方だった。

でも、その声には疲れが少し混ざっていた。


私は黙ったまま、

キクの顔を見る。


嘘をついている気がした。

でも、問い詰めるほどの確信もない。


キクはそんな私を見て、

小さく笑った。


「ほんとに大丈夫だよ」


そして、

いつものように私の髪へ手を伸ばす。


結い直す必要なんてないのに、

乱れを探すみたいに、

指先が髪を梳いていく。


「心配しすぎ」


その言い方がやさしくて、

私はまたそれ以上言えなくなった。


朝の支度が終わると、

キクは外へ出る準備を始めた。


髪も結ってある。

着物もきちんとしている。

帯の位置も、いつも通りだった。


「今日は休んでたほうがいいんじゃない?」


そう言うと、

キクは振り向いて笑う。


「平気だよ」


「でも昨日……」


「大丈夫」


今度は少しだけ、

言葉を重ねる隙もない返し方だった。


それからすぐ、

やわらかい声に戻る。


「夕方には帰るから」


私はそれを見送るしかなかった。


ちゃんとしているように見えた。

少なくとも、

そう見せようとしているようには見えた。


だから、

少しだけ安心してしまった。


でも、

夕方になって帰ってきたキクを見た瞬間、

その安心は全部消えた。


障子が開いて、

キクが中へ入ってくる。


私は思わず立ち上がった。


髪が下りていた。


朝はきちんと結っていたはずなのに、

今はほどけた黒髪が肩にかかっている。


ただ下ろしているだけじゃない。

急いで結い直すのを諦めたみたいな、

半端な崩れ方だった。


着物も少し乱れていた。


襟元がいつもよりわずかにずれていて、

帯の位置も少し低い。

袖口には土がついている。


そして何より、

歩き方が少し変だった。


いつものように静かに入ってくるのに、

足の運びだけがわずかに重い。


片足をかばっているというほどではない。

でも、

身体のどこかを庇っている歩き方だった。


朝、あんなにきちんと結って出ていったのに。


そう思った瞬間、

胸の奥が冷たくなった。


「……キク」


呼ぶと、

キクは一拍遅れて顔を上げた。


「ただいま」


笑おうとしたのが分かった。

でも、

その笑みは途中で形が崩れた。


私は近づいた。


「どうしたの、その格好」


「え?」


キクは自分の袖を見て、

それから少しだけ困ったように笑う。


「ちょっと、髪がほどけただけ」


「それだけじゃないでしょ」


思っていたより強い声が出た。


キクが少しだけ目を見開く。


私はそのまま、

キクの前で立ち止まった。


「歩き方も変だし、

着物も乱れてるし、

朝の痣だって……」


言いながら、涙腺が刺激されて

喉の奥がひりついた。


「何があったの」


キクはすぐには答えなかった。


視線が少しだけ揺れる。


それから、

疲れたみたいに小さく息を吐いて、

やっと口を開いた。


「……ヒナ」


声がかすれていた。


「ほんとに、なんでもないよ」


「嘘」


自分でも驚くくらい、

はっきり言っていた。


キクの目が、

ほんの少しだけ伏せられる。


私は一歩だけ近づいた。


「もう見過ごせないよ。

昨日だって、起こしても全然起きなかった。

あざもあった。

今日だって、こんなの……」


そこで言葉が詰まる。


うまく言えない。

でも、

このまま流したらだめだということだけは分かった。


「お願いだから、ちゃんと言って」


キクは黙っていた。


沈黙が長くなる。


やがて、

キクはとても静かな声で言った。


「……ごめんね」


その一言で、

胸の奥が嫌な音を立てた。


「ヒナに心配かけたくなかった」


「そんなの……気にしないでよ」


そう返すと、

キクは少しだけ目を細めた。


悲しそうにも見えたし、

困っているようにも見えた。


「知られたくなかったの」


「何を?」


聞いた瞬間、

キクの指先がわずかに動いた。


袖の端を握りしめる。


「……まだ、言えない」


私は息を止めた。


「どうして」


「ヒナが傷つくから」


その答えが、

あまりにもキクらしくて、

余計に苦しかった。


私は何か言い返そうとした。

でも、

キクが先に小さく首を振る。


「明日、必ず話す。ちゃんと伝えられるように整理するから」


その声は弱いのに、

それだけははっきりしていた。


「だから、もう少しだけ待って」


私は黙ったまま、

キクを見つめた。


今すぐ聞きたかった。

聞かないといけない気もした。


でも、

キクの顔色は悪くて、

立っているだけでも無理をしているのが分かった。


「……ほんとに?」


やっとそれだけ言うと、

キクは頷いた。


それから、

今にも倒れそうな子じゃなく、

いつものキクみたいに笑おうとした。


「約束する」


その笑い方が、

ひどく頼りなかった。


私はそれ以上、

何も言えなかった。


ただ、

今度こそ目を離さないようにしようと思った。


そう思ったのに。

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