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雛代の箱庭  作者: N


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21/25

21話

 数日後、私は村の井戸のそばで桶を洗っていた。


新しく来た人たちが増えて、

村はいつもより賑やかだった。


その中に、ひとりだけ妙に目につく男がいた。


「雛様、今日はお一人なんですね」


最初は、ただの挨拶だった。


けれどそのあとも、

男は少し離れた場所から、ずっとこちらを見ていた。


何か用事があるのかと思って声をかけても、

返ってくるのは曖昧な相槌ばかりだった。


最初は、ぼんやりこちらを見ているだけなのだと思った。


でも、

桶の水を替えるたび、

袖が少し落ちたり、

屈んで着物の合わせがずれたりすると、

そのたびに男の視線が遅れて動く気がした。


気のせいかもしれない。


そう思って何度か顔を上げたけれど、

目が合うと、男はすぐに視線を逸らした。


悪い人ではないのだと思う。


何か言うわけでもないし、

手を出してくるわけでもない。


でも、

視線だけが妙に落ち着かなかった。


その日の夜。


縁側に座っていると、

キクが私の隣へ来た。


「ヒナ」


柔らかい声だった。


「なにか困ってることない?」


キクは、私の髪を指で梳きながら言った。


「嫌なこととか。

変なこととか。

誰かに何かされたりとか」


私は少し考えた。


特に大きなことはない。


でも、昼間のことが少しだけ引っかかった。


「……井戸のところでね」


ぽつり、と言う。


「男の人がずっと見てきて」


キクの指がほんの一瞬だけ止まった。


「嫌だった?」


「うーん……」


私は首を傾げた。


「嫌ってほどじゃないけど……

なんか、ちょっとだけ落ち着かなかった」


「そっか」


キクはやさしく笑った。


「教えてくれてありがとう」


それだけだった。


それ以上、何も言わない。


私はそのまま、

キクと一緒に眠った。


翌朝。


井戸のほうが、妙に騒がしかった。


人が集まっている。

ざわめきが低く重なっていた。


胸の奥が少しだけざわつく。


近づくと、

誰かが振り返って言った。


「人が落ちたんです」


私は思わず井戸を覗き込んだ。


底に人が見えた。


咄嗟に糸を伸ばして、身体を引き上げる。


濡れた髪。

青ざめた顔。

閉じた瞼。


昨日のあの男だった。



その日の夜。


縁側に座ると、

キクがいつものように隣へ来た。


「どうしたの、ヒナ。

元気ないね」


「……うん」


少し迷ってから言う。


「井戸に、昨日の人が落ちてて……」


キクは驚かなかった。


ただ、

私の髪をひと撫でして、


「そっか」


とだけ言った。


「私がもう少し早く行ってたら……

助けられたのかな」


そう言うと、

キクは静かに首を振る。


「ヒナのせいじゃないよ」


声はやわらかかった。


「ヒナが気にすることじゃない」


その言い方に、

少しだけ胸がざわついた。


けれど、

うまく言葉にできなかった。


「……ありがとう」


そう返すと、

キクは小さく笑った。


「うん」


それから、

何でもないことみたいに訊く。


「ねえ、ヒナ」


「なに?」


「なにか困ったことある?」


その瞬間、

背筋がひやりとした。


頭の奥に、

一瞬だけ浮かぶ想像。


でも私は、

すぐにそれを打ち消した。


そんなふうに考えるなんて、

ひどい気がしたから。


それからしばらくして、

また、似たことがあった。


昼すぎ。

村の中央で小さな祈りの席が開かれていた。


新しく来た人たちの中に、

私へ挨拶をしたいと言う者が何人かいて、

キクが「少しだけなら」と通したのだ。


そういうのは堅苦しくて苦手だった。

でも、断るほどのことでもないと思って受け入れた。


ひとりずつ、

前へ出てくる。


頭を下げて、

供え物を置いて、

短い言葉を残して去っていく。


その中に、ひとりの女がいた。


年は私たちより少し上に見えた。

笑うとやわらかい顔になる人で、

声も落ち着いていた。


「雛様にお会いできてうれしいです」


そう言って、

白い小皿に載せた花を差し出してくる。


私は受け取ろうとして、手を伸ばした。


そのとき。


女の指が私の指先に触れた。


ただ渡すだけなら、

そんなふうには触れないはずだった。


でも、

女の手はすぐには離れなかった。


指先から、

するりと撫でるみたいに滑って、

爪の先まで確かめるみたいに残る。


私は思わず、

手を引いてしまった。


「あ……ごめんなさい」


女はすぐに頭を下げた。


「雛様のお手が、あんまり綺麗で」


その声は褒めるというより、触れた理由を後から探しているみたいだった。


その場では何も言えなかった。


女はすぐに下がって、

ほかの人たちも挨拶を済ませた。


それだけのことだった。


その夜。


私は縁側に座って、

昼間にもらった花をなんとなく眺めていた。


隣に来たキクが、

その花を見る。


「それ、今日もらったの?」


「うん」


キクは花を気にする様子もなく、

そのまま私の横顔を見る。


「……何かあった?」


やさしい声だった。


私は少し迷った。


言うほどのことじゃない。

でも、言わないでいると、

指先に残った感触ばかり思い出す。


「……変なことってほどじゃないんだけど」


「うん」


「挨拶に来た人がね、

花を渡すとき、ちょっとだけ手を……」


そこまで言うと、

キクの目が静かに細くなった。


でも、

口元は笑ったままだった。


「嫌だった?」


私は指先を見下ろした。


「びっくりしただけ」


それから、

少し考えて言い直す。


「……ううん。

やっぱり、ちょっと嫌だったかも」


キクは何も言わなかった。


ただ、

私の手を取って、

その指先をそっと包む。


「そっか」


それだけ言って、

親指で一度だけ私の指を撫でた。


「もう大丈夫だよ」


私はなぜか、

その言葉にうまく返事ができなかった。


翌日。


その女は川で見つかった。


流れのゆるい浅瀬だった。


溺れるような場所じゃない。


村の人たちは首をひねっていた。


「足でも滑らせたのか」

「具合でも悪かったのか」


皆が好き勝手に言う。


私は少し離れた場所で、

その声を聞いていた。


女の髪は水草に絡んで、

顔半分が隠れていた。


でも、白い指先だけは見えた。


昨日、私に触れた指だった。


その夜。


私はなかなか縁側へ行けなかった。


でも、

行かない理由も見つからなくて、

結局いつもの場所に座った。


少しして、

キクが隣へ来る。


何も変わらない足音。

何も変わらない気配。


「ヒナ」


いつもの声だった。


「今日はどうしたの?」


私はすぐには答えられなかった。


キクは急かさない。


「……昨日の人」


やっと、それだけ言う。


「川で見つかって」


「うん」


キクは驚かなかった。


私はそこで、

胸の奥がすうっと冷えていくのを感じた。


「……ねえ、キク」


呼ぶと、

キクはやわらかく笑った。


「なに?」


訊けばいいのに、と思った。


知ってるの、と。

まさか、と。


でも、

言葉が喉の途中でほどけてしまう。


その代わりに出たのは、

まるで違う言葉だった。


「……今日は、困ったことないよ」


言った瞬間、

自分でも少し驚いた。


キクはほんの少しだけ目を細めた。


安心したみたいに。


「そっか」


そう言って、

私の肩へ静かに寄りかかる。


「それならよかった」


私は何も言えなかった。


キクの体温は

いつもと同じだった。


それなのに、

指先だけがずっと冷えていた。


それから私は、

村の誰かに少しでも違和感を覚えても、

キクには言わないようになった。


見られている気がしても。

話しかけられて、少しだけ落ち着かなくても。

手が触れて、胸の奥がざらついても。


気のせいかもしれないことを、

わざわざ言葉にするのが怖くなった。


言ってしまえば、

何かが起きる気がした。


以前なら少し気になっても、自分から声をかけて確かめられた。

今はそれをしたあと夜に何を訊かれるのか分からなくて、先に足が止まるようになった。


でも、

黙っていることにも、うまく慣れなかった。


キクは相変わらずやさしかった。


夜になれば隣に来て、

私の髪を梳いて、

「今日はどうだった?」と訊く。


声も、手つきも、

何ひとつ変わらない。


だからこそ、

私だけが勝手に身構えているみたいで、

たまにひどく苦しくなった。


「困ったことない?」

そう聞かれるたび、

私は少しだけ考えるふりをしてから、

首を振るようになった。


「うん。大丈夫」


そう答えると、

キクは安心したみたいに笑う。


その顔を見るたびに、

胸の奥が小さく痛んだ。


疑いたくないのに、

何も知らないままでもいられない。


そんな中途半端な気持ちのまま、

日だけが過ぎていった。


一方で、

村のほうは少しずつ変わっていった。


キクが村人に話しかけられているところを、

前よりよく見かけるようになった。


最初は、

家のことや畑のことを相談されているのだと思っていた。


でも、

それだけではなかった。


誰がどこに住むか。

誰に何を任せるか。

何をしてよくて、

何をしてはいけないか。


そういうことまで、

キクが決めるようになっていた。


村人たちは、

それを自然に受け入れていた。


むしろ、

指示をもらうことに安心しているみたいだった。


私は少し離れたところから、

その様子を見ていた。


キクは落ち着いていて、

やわらかくて、

誰よりも丁寧だった。


怒鳴ったりしない。

脅したりもしない。


気づけば、

村の中には小さな決まりごとが増えていた。


夜はこの道を通らない。

ここから先はひとりで行かない。

私に会うときは必ずキクを通す。


最初は、

村を整えるためのルールなのだと思った。


でも、

そのいくつかは明らかに

“私に近づきすぎないため”の形をしていた。


「少し厳しすぎない?」


ある日そう言うと、

キクはきょとんとした顔をしてから、

やさしく笑った。


「そうかな」


「だって、そんなにしなくても……」


言いかけた私の髪を、

キクがそっと耳にかける。


「ヒナは分からなくていいの」


その言い方が、

なぜか胸に引っかかった。


分からなくていい。


私はそれ以上、

強く言えなかった。


言えばまたあのやさしい顔で、

納得させられてしまいそうだったから。


そうしているうちに、

村人たちの私を見る目も、

少しずつ変わっていった。


前より静かで、

前より低い。


親しさというより、

距離を測るような目。


私が話しかけると笑う。

でも、その笑顔はどこか揃いすぎていた。

誰かが笑うと、周りも少し遅れて同じように笑った。


 

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