20話
人口も増えて、私の仕事も落ち着いた頃のことだった。
村の中央で、キクが誰かと話していた。
私は少し離れた場所で、それを眺めていた。
内容は聞いていない。
ただ、声が楽しそうだと思った。
——そのはずなのに。
胸の奥が、少しだけ落ち着かなかった。
知らない顔だった。
その人は笑っていて、キクも笑っていた。
それだけのことなのに、
自分の知らない時間が、そこにある気がした。
用事があったわけでもないのに、
気づけば私はキクのほうへ歩いていた。
呼ぶほどでもない距離で立ち止まって、
でも戻る理由も見つからなくて。
会話が終わるのを待つでもなく、
ただ、その袖を指でつまんだ。
キクが振り向いた。
「あれ、ヒナ?」
少し驚いた顔だった。
呼ばれたわけでもないのに来た私を、不思議そうに見ている。
私は、自分がなぜここにいるのか分からなくなった。
来たかったわけじゃない。
……でも、来ないといけない気がした。
「……終わった?」
「うん、今ちょうど」
キクはそう言って、相手に軽く手を振った。
その人は何か言いかけて、
でもすぐに「また後で」と笑って離れていった。
——“また後で”。
その言葉が、なぜか少し引っかかった。
胸の中のざわつきが、
キクがこちらへ歩いてくるだけで、すっと静かになる。
理由は分からない。
ただ、キクが私のほうへ来ただけなのに。
「どうしたの?」
そう聞かれて、私は少し考えてから答えた。
「……別に。なんでもない」
本当になんでもなかった。
ただ少しだけ、さっきより息がしやすくなっただけだった。
でも——
キクはさっきまで笑っていた顔のままじゃなかった。
「何か困ったことある?」
ほんの少しだけ、
私を見る目がやさしくて、
少しだけ困っているようにも見えた。
「……さっきの人、気になる?」
「……別に」
「ふうん」
キクは笑いそうなのをこらえるみたいに口元を曲げて、
わざとらしく私の袖を見た。
「じゃあ、これ。なに?」
つまんでいた私の指を、キクが自分の指でそっと挟む。
ほどくでもなく、握るでもなく、逃げない程度に。
「……」
キクが小さく笑って、近づいてくる。
「もしかしてヒナ、妬いてる?」
「妬いてない」
即答しすぎて、逆に怪しかった。
キクは嬉しそうに目を細めた。
「私が誰かと話してるの、嫌だった?」
「嫌っていうか……」
言葉が詰まる。
嫌、ではない。
でも、嫌に似ている。
「……私の知らないところで、キクが楽しそうなのが」
言ってしまってから喉の奥が痛くなる。
そんなこと、言うつもりはなかったのに。
キクの指が、私の指の間に滑り込んでくる。
一本ずつ、隙間を埋めるみたいに絡め取って。
「……そっか」
キクの声が、少しだけ低くなる。
「じゃあ、こっち見て」
そう言って、私の手を軽く引く。
子どもみたいな仕草なのに、話し方だけはどこか大人びている。
私は視線を落としたまま、小さく言った。
「……キクが、遠くに行きそうで」
言った瞬間、自分の言葉があまりに幼くて、恥ずかしくなる。
百年生きて、まだこんなことを言うのか、と。
キクは少し息を吸って、
それから、笑った。
「行かないよ」
「……ほんと?」
「ほんと」
キクは握った手を一度だけ強くする。
大丈夫って、手の形で言うみたいに。
「だって、ヒナがいないと私、生きていけないもん」
「……それは、私も同じ」
私がぼそっと言うと、キクがふふっと笑った。
「じゃあ一緒。可愛いね」
キクは言い切って、さらに小さな声で続ける。
「ヒナになら、ちょっと困らされるくらいが好き」
「……ちょっと、ってどのくらい?」
「うーん」
キクはわざと考えるふりをして、私の指を一本、また一本と絡め直す。
ほどけない形を作り直すみたいに。
「ヒナが思ってるより、いっぱい」
「……」
黙った私を見て、キクが楽しそうに目を細めた。
「試してみる?」
軽い声なのに、逃げ道だけをきれいに塞ぐ言い方で、頬が熱くなる。
「……人がいるところで、そういう話はやめて」
「そういう話って?」
キクはからかうように言って、わざと私の口元を覗き込む。
私は言葉に詰まって、視線を逸らした。
「……キクが、へんなこと言うから」
「へんなこと?」
「……もう」
肩を押すみたいに手を動かすと、キクは素直に一歩だけ引いた。
でも、手は離さない。
「ごめんごめん」
口では謝りながら、笑みだけは消えない。
「じゃあ、家で言う」
キクは少しだけ真面目な顔をして、私の指をもう一度ぎゅっと結ぶ。
その締め付けが、妙に落ち着く。
私は返事の代わりに握り返した。
キクが満足そうに笑った、そのとき。
遠くから、キクを呼ぶ声が飛んできた。
「菊様ー!」
私は小さく顎を上げる。
「……呼ばれてるよ」
「うん」
キクは短く頷いて、息をひとつ整える。
さっきまでの甘い温度を、きちんと畳むみたいに。
「人が増えたから、私の仕事も増えちゃった」
「手伝おうか?……もう、増やすには多すぎるし……」
そう言うとキクは首を振った。笑みは柔らかいのに、譲らない。
「いいの。ヒナがくれた役目だもん。私に任せて。」
それから、少しだけ声を落とす。
「ヒナはあれと関わらなくていいよ」
「……あれ?」
聞き返した瞬間には、もう遅かった。
キクは私の手を名残惜しそうにほどき、声のする方へ向かっていく。
揺れる袖。ほどけないように丁寧に結われた髪。
残った指先の形だけが、まだ残ったままだった。
胸の奥が少しだけざわつく。
“あれ”って、なに。
私は箱庭へ魂を入れる。
キクは箱庭を整えて、村を回す。
魂を探さないといけないので箱庭から出る時間が増え、しばらく二人で過ごす時間が減っていた。
役割分担は綺麗だった。
うまくできている。
うまく、できているはず。
でも時々、キクが私を呼ばない時間がある。
私の名が祈りに混じって響いても、キクは振り向かない。
——これでいい。キクのためにも。




