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雛代の箱庭  作者: N


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17/25

17話

あの日のことを私はいまでも覚えている。


箱庭の空はいつも曖昧な色なのに、なぜかその日は朝の空気がやけに柔らかかった。


目を覚ますと、隣にいるはずのキクがいなかった。


珍しい、と思った。

あの子はいつも、私より先に起きていても必ず手だけは繋いだままにしているのに。


起き上がって居間へ行くと、キクが座っていた。


……ぼんやりと。


何をするでもなく、庭を見ている。


「キク?」


声をかけると、ゆっくり振り向いた。


少し遅れて、笑う。


「……おはよう、ヒナ」


その声が、いつもより少しだけ低かった。


具合が悪いのかと思って近づくと、

キクは私の袖を軽く引いた。


強くない。


「ねえ、ヒナ」


「うん?」


少しだけ迷うような間があって、

キクは少し震えて小さく言った。


「……今日は、なにもしなくていい?」


その言葉が、すぐには理解できなかった。


そんなこと、今まで一度も言ったことがなかったから。


「……いいよ」


そう答えると、キクはほっとした顔をした。


本当に、ほっとしたみたいに。


その顔を見て、

私は初めて気づいた。


ああ、この子も疲れることもあるんだ。


「じゃあ今日は、私がやるね」


そう言ったら、

キクは少しだけ驚いた顔をした。


でも、抵抗はしなかった。


素直に、座る。


いつも私にしてくれているみたいに、

背筋を伸ばして、じっと待っている。


それがなんだか可笑しくて、私は少し笑った。


「……そんなに緊張しなくていいのに」


「ヒナがやってくれるんだから、ちゃんとしないと」


「楽にしてていいよ」


櫛を手に取って、後ろに回る。


キクの髪に触れる。


遊びで何度も触れてきたはずなのに、

こうして“整える側”になるのは初めてだった。


指を入れると、さらりとほどける。


「……ほんときれい」


思わず呟いてしまう。


キクが小さく笑った。


「ヒナが触るから、ちゃんとしてるんだよ」


前にも聞いた言葉だ。


でも、今日は少しだけ違って聞こえた。


私はゆっくり櫛を通す。

絡まないように、痛くないように。


……こんなに気を使ってくれてたんだな、って思いながら。


結い方は、教えてもらった通りにやってみた。


途中で崩れて、

やり直して、

また崩れて。


そのたびにキクが小さく笑う。


「難しいでしょ」


「難しい……いつもこんなことしてたの?」


「うん」


「すごいね」


そう言うと、

キクは何も答えなかった。


ただ、少しだけ肩の力が抜けた。


着物も私が着せた。


「……ほんとに、私、何もしなくていいの?」


「いいから、私に任せて」


襟を合わせて、

帯を締めて、

皺を伸ばして。


全部、キクがいつもやってくれている順番を真似する。


「……こんな感じ?」


「うん」


「苦しくない?」


「大丈夫、上手だよ」


そのやり取りが、

妙に新鮮で、

少しだけ照れくさかった。


食事の真似事もした。


食べる必要なんてないのに、

ちゃんと並べて、

二人並んで座る。


「ほら、口開けて、あーん」


やってみたら、

キクが目を丸くした。


「ヒナがやると、変な感じ」


「文句言わない」


「言ってないよ」


でもちゃんと口を開ける。


そんなことを続けていると、

キクがふと、自分の胸に手を当てた。


「……どうしたの?」


そう聞くと、

キクは少しだけ首を傾げる。


「わかんない」


声は静かだった。


苦しそうではない。

でも、胸の奥で何かを確かめるみたいに、

着物の上からそこを押さえている。


「なんか、変」


そう言って笑うけれど、

その目だけが少し戸惑っていた。


私は少し気になったけれど、

顔色が悪いわけでもなかったから、

深くは聞かなかった。


その様子が、なんだか可愛くて。


私は、つい言ってしまった。


「……キク、今日はなんだか可愛いね」


言った瞬間

しまった、と思った。


キクはしばらく止まった後、

ゆっくり笑った。


本当に、ゆっくり。


「ほんと?」


「うん。いつもと逆で新鮮だからかな」


少し考えてから、

キクは答えた。


「……じゃあ、たまにはいいね」


眠くなって、同じ布団に入る。


いつもはキクが私の手を取るのに、

その日は私のほうから握った。


キクは何も言わなかった。


ただ、指を少しだけ絡め返してきた。


「今日はありがと」


小さな声だった。


「ううん。たまにはこういうのもいいね」


そう言うと、

キクは目を閉じながら、ぽつりと呟いた。


「……ねえ、ヒナ」


「なに?」


「私、忘れないから」


「え?」


「寝る前に、毎日思い出せるように」


私は少し笑った。


「大げさだよ」


「ううん」


キクは目を開けないまま言った。


「ヒナが可愛いって言ってくれたんだもん」


あれから、

本当にキクはときどき言う。


眠る前。

手を繋いだまま。


「ねえヒナ、あの日のこと覚えてる?」


そして、

必ず同じことを言う。


「ヒナが可愛いって言ってくれた日」


私はそのたび、

少し困って、

少し笑って、

同じように手を握り返す。


あの一日は、

長い長い時間の中の、

ほんの小さな出来事だったのに。


なぜか、今でも鮮明に残っている。


あの日の小さな違和感を、可愛いで済ませなければ。

私たちは、少しだけ違う未来を選べたのかもしれない。

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