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雛代の箱庭  作者: N


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16話

16話

着物を脱ぐ。


帯をほどくと、きしんだ音がした。


肩から滑り落ちた布が、足元に溜まる。


私は一糸纏わぬ姿になる。


皮膚に触れる空気が、やけに冷たかった。

何も背負っていない体は、こんなにも頼りないのかと思う。


足を入れる。


水は冷たい。

——それだけじゃない。


肌に刺さるのは、水の刃と、魂の声だった。


恨み。恐怖。疑念。


「どうして」

「助けて」

「やめて」


私は息を吸う。喉が痛む。


そのとき、背後で小さな音がした。


振り返ると、脱ぎ捨てたはずの儀式の着物が、川へ引かれていた。


深紅の布が、水を吸ってゆっくり沈んでいく。

金の麻の葉が、水面で揺れた。


——これで終わりだ。

もう、あの役目は私じゃない。


そう思った。


思った、のに。


着物は沈まなかった。


布は水に呑まれながら、ふわりと広がった。

まるで、水の中で形を保とうとするみたいに。


袖が開く。

裾が揺れる。

誰も着ていないのに、そこに“人の形”だけが残る。


川の流れに逆らうように、赤がゆっくり漂った。


——まだ、役目は終わってない


そう言われているみたいだった。


私は目を逸らした。


見なかったことにするみたいに、さらに深く水へ入る。


役目は終わった。

終わらせたのだ。


水は胸まで満ち、やがて喉元に届く。


それでも、背後で布の擦れる音だけが、いつまでも追いかけてきた。


まるで川そのものが、私を覚えているみたいに


私は息を吸った。そして潜る。

せめて全身で魂の声を受け止めて、思い出す。

自分がやったことを。たくさんの人の命を奪ったことを。


山を鎮めるための鎮撫が、

結局、私たちを殺したのだ。

——神のためじゃない。人の恐怖のために。


それでも私は、戻った。

ひとりで耐え続けるには、もう遅すぎた。


私は裸のまま箱庭へ戻る。

キクは何も言わずに抱きしめる。

その温もりに、私の胸が熱くなってしまう。


私はキクに口づけをした。

キクも何も言わずに受け入れて、少しだけ笑った。


「おかえり、ヒナ」

その言葉が、胸のいちばん柔らかいところに触れた。


「お願い、キク」

声は震えていた。

「……あの子たちの村を、箱庭の中だけでも元に戻すの、手伝って」


キクは嬉しそうに頷く。

「うん。ヒナが言うなら、なんでも」


それから、私の頬を親指で拭った。

涙なのか水なのか、どっちか分からなかった。


「ヒナは優しいね」


すぐに箱庭の火は消えた。

焦げた匂いが引き、黒い灰が白へ戻っていく。

崩れた家々は、ひとつずつ立ち上がる――はずだった。


けれど、集まった。

家の形が、道が、広場が、全部。

まるで「離れたくない」とでも言うみたいに。


「ヒナ、終わったよ」

キクは子どもを寝かしつけるみたいな声で言った。


そこにあったのは、小さな村じゃない。

大きな家が、ひとつだけだった。


キクは満足そうに息を吐いて、私の指を絡め取る。

「ヒナの居場所は、ここだよ」


耳元で甘い声が落ちた。

「外の声なんて、聞かなくていい。

私だけ見て。

ヒナは、私が大事にするから」


そして、微笑む。

「行こ。私たちには、これだけで十分だよね」


大きな家の中は、驚くほど静かだった。

外にあったはずの風も、川の音も、ここまでは届かない。


「寒くない?」

キクが背後から布をかける。


それは、いつ用意したのか分からない着物だった。


黒——けれど、ただの黒じゃない。

夜の底みたいに深くて、光を吸い込む色。

動くたび、織りの角度がわずかに変わって、内側から淡い青が浮かび上がる。


触れると、驚くほど柔らかかった。

儀式の衣みたいな硬さはなくて、指に吸いつくように馴染む。

まるで布のほうから寄り添ってくるみたいだった。


「平気だよ」


そう答えたのに、キクは納得しない。


袖を通させ、前を合わせ、帯を結ぶ。

帯は濃い青で締められていて、結び目の奥に細い朱が一筋だけ覗いていた。


着物の裾には、赤と青の糸が絡み合う模様が入っていた。

二本の糸は離れず、ところどころで小さな結び目を作っている。


まるでほどけないように、ずっと結ばれているみたいに。


「ヒナはすぐ我慢するから」

キクは私の襟を整えながら言う。

指先が、布越しに体温を確かめるみたいに止まった。


「ちゃんと、大事にしないと」


まるで壊れ物を扱うみたいな手つきだった。


それから数年、毎日同じ布団で寝るようになった。


「……おやすみ」


小さな声がして、

そのあと、布がわずかに擦れる音がした。


今では同じ布団で寝るのが当たり前になった。


腕が触れる。

指が、ためらうみたいに私の手を探して、

ゆっくり絡んできた。


——それだけのことなのに、

胸の奥が静かに熱を持つ。


私は目を閉じたまま、

その手を握り返す。


キクは何も言わない。

ただ、確かめるみたいに、

指先の位置を少しだけ直した。


布団の中で、

互いの呼吸が重なる。


しばらくして、

キクの唇が触れた。


それも、

もう珍しいことじゃない。


「……ヒナ」


眠る前の声は、

いつもより少しだけ低い。


「なに?」


「……なんでもない」


そう言って、

また静かになる。


その沈黙が、

不思議と満ち足りていて、

私はもう何も聞かなかった。


やがて眠気が落ちてくる頃、

衣服の合わせが少しだけ崩れているのに気づいた。


直そうとして手を動かすと、

キクが先にそっと整えた。


暗がりの中で、

指先だけが分かる。


慣れた手つきだった。


——いつから、こうなったんだろう。


考えかけて、

そのまま眠ってしまった。


キクは何も言わず、私の体をゆっくり撫でた。

そうしていると、私の中のざわめきが少しずつ静まっていった。


朝、布が湿った肌に張り付いた感覚で目を覚ますと、キクの指がまだ私の手を握っている。


眠っている間に、どこかへ行かないようにするみたいに。


けれど、その温度が残っていることに

私は不思議と満たされた気持ちになる。


キクが起きると、私はしばらくは恥ずかしくて目を合わせられない。

でも私の髪を整え、衣服の乱れを直し、着物を着せてくれた。

いつも同じ順番で、確かめるように。


「この着物……ありがとう」

キクは紐を結びながら、小さく頷いた。

私が袖を見下ろすと、キクは襟元をもう一度だけ整える。

声が少しだけ低くなった。


「裸で歩いてたの、びっくりした」


「……ごめん」


「はしたないよ。……私の前ならいいけど」

その言葉のあと、キクは何事もなかったみたいに帯をきゅっと締めた。



家の中には、いつも小さな卓が用意されていた。

湯気の立つ茶碗。

本当は必要のないはずの食事。

それでもキクは、毎日きちんと並べた。

私が“人”でいられるように。


「ほら、あーん」


キクは楽しそうに笑う。

その顔を見ていると、断る理由が分からなくなった。

以前のような味は消え、ただのフリに戻った。


箱庭の空は、ずっと同じ色だった。

朝も夜も曖昧で、時間はゆっくり溶けていく。


二人で縁側に座って、

作ったばかりの庭を眺めたり、

昔の話をしたり、文字を書いたり、

何も話さずに寄り添ったりした。


「静かでいいね」


キクがそう言って、私の肩に頭を預ける。


「誰も来ないし、誰もヒナを連れていかない」


その言葉は、願い事みたいだった。



「……うん」

私もそう返した。


それ以上の言葉はいらなかった。


キクの指が、私の指を探して絡めてくる。

確かめるみたいに、何度も。

一本ずつ、隙間を埋めるみたいに。

指先の体温を数えるみたいに。


「冷えてる」

キクは小さく言った。両手で包んで、息を吹きかけた。


私は笑ってしまう。

そんなことで、なぜか泣きたくなるくらい満たされる。


キクは満足そうに頷いて、もう一度だけ私の指を絡め直す。


「ずっと、ここにいようね」


小さな声だったのに

広い家の中でそれが、やけにはっきり響いた。


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