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雛代の箱庭  作者: N


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13/25

13話


次の日の夕方、私は思ったより早く手が空いた。


年下の子たちは昼のうちにはしゃぎ疲れて、もう半分眠そうだったし、大人たちも今日はそれぞれの家へ戻るのが早かった。


通りにはまだ灯りが残っている。

どこかの窓からは煮える匂いがして、遠くで器を重ねる音が小さく響いていた。


私は縁側の柱にもたれて、少しだけ息をつく。


そのとき、背後で戸が静かに鳴った。


振り向くと、キクが立っていた。


「ヒナ」


呼ぶ声はやわらかい。

いつもと同じはずなのに、今日はなぜか少しだけ静かすぎる気がした。


「うん?」


返すと、キクは一歩だけ近づく。


「今日、こっちで寝ない?」


「こっち?」


「うん」


そう言って、通りの端のほうへ目をやる。

そこには、みんなが集まる家々から少し離れたところに、一軒の家があった。


「前に少し片づけたところ。静かだから、ヒナも落ち着くかなって」


私は少しだけ目を瞬いた。

そんな話、前に聞いていただろうか。


「……二人で?」


そう聞くと、キクは少しだけ黙った。

それから、ごく自然な顔で頷く。


「久しぶりだから」


その言い方に、私はすぐには返事ができなかった。


久しぶり。

たしかにそうだった。

ずっと同じ箱庭にいるのに、二人きりで落ち着いて話す時間は、もうずいぶん減っていた。


「だめ?」


キクが聞く。


責める声じゃない。

困らせるような言い方でもない。

ただ、静かに手を差し出すみたいな聞き方だった。


私は少しだけ迷ってから、首を振る。


「……だめじゃないよ」


その返事を聞くと、キクは小さく笑った。

ほっとしたみたいに。

でもそれを見せすぎないようにするみたいに、控えめに。


「じゃあ、来て」


そう言って、先に歩き出す。

私はその背中を追った。


通りの灯りを離れるほど、まわりの気配が薄くなっていく。

人の笑い声も、話し声も、少しずつ遠のく。


同じ箱庭の中のはずなのに、そこだけ別の夜みたいに静かだった。


家の前まで来ると、私は思わず足を止めた。


きれいだった。


新しいわけじゃない。

でも、ちゃんと手が入っているのが分かる。


戸は歪みなく閉まり、縁側の端には埃がたまっていない。

窓の桟も拭かれていて、障子は破れたところが見当たらなかった。

庭は小さいけれど、伸びすぎた草だけがきれいに払われていて、石の位置も妙に整っている。


誰かが、ここを使うつもりで整えたのだと分かる。


「……これ、キクが?」


聞くと、キクは戸に手をかけたまま振り向く。


「少しだけ」


少しだけ、という整い方じゃなかった。


家の中に入ると、もっとはっきり分かった。


布団はもう敷いてある。

囲炉裏には火が入っていて、炭の赤が静かに息をしている。

卓の上には湯飲みが二つ。

窓際には小さな花まで置いてあった。


花瓶らしい花瓶ではない。

素朴な器に挿しただけの花。

でも、それがあるだけで、この家が“今日のための場所”になっていた。


私はしばらく何も言えなかった。


「……すごいね」


ようやくそう言うと、キクは少しだけ視線を落とした。


「ヒナが、静かなところ好きかなって思って」


その答えが、まっすぐでやさしくて、私のために用意してくれたのだと思うと胸の奥がきゅっとした。


嬉しい、のだと思う。

でもそれだけじゃなくて、どうしてこんなに準備していたんだろう、という気持ちも混ざる。


「前から、使ってたの?」


「ううん」


キクは首を振る。


「今日、使いたくて整えた」


その言い方は静かだった。

けれど、“今日”のために整えたというより、“今日が来たら使えるように”整えていたみたいにも聞こえた。


私はその違いを、うまく言葉にできないまま、ただ家の中を見回した。


布団の端まできれいに揃っている。

湯飲みの向きも、卓の位置も、火の加減も、どこもかしこも落ち着きすぎていた。


まるで、キクの手が隅々まで届いているみたいだった。


「座って」


言われて、私は囲炉裏のそばへ腰を下ろす。

すぐ向かいではなく、キクは私の隣に座った。


ほどよく近い。

肩は触れない。

でも、火のぬくもりより先に、隣の体温が分かる距離だった。


しばらくは、何も話さなかった。


ぱち、と炭が小さく鳴る。

その音が妙に近い。


通りのにぎやかさから離れているせいか、ここでは火の音と呼吸の音だけがはっきりしていた。


「……静かだね」


私が言うと、キクは頷いた。


「うん」


「みんなのところも楽しいけど」


その続きが、なぜか少し言いにくい。

けれどキクは急かさない。待っているのが分かる。


「こういうの、久しぶりかも」


そう言うと、キクの睫毛が少しだけ揺れた。


「そうだね」


その返事は短かった。

でも、その短さの中にいろんなものが詰まっている気がした。


私は火を見るふりをして、その気配から少しだけ目を逸らした。


「……最近、忙しかったから」


言い訳みたいに聞こえて、自分でも少しおかしくなる。


「うん」


キクは否定しない。


「ヒナずっと呼ばれてた」


「そんなに?」


「そんなに」


その答えが妙に正確で、思わず笑ってしまう。


「見てたの?」


「見てたよ」


あっさり言う。


私はまた少し笑って、でもそのあと、なぜだか黙ってしまった。


見ていた。

たぶん本当に、ずっと見ていたのだろう。

私が誰に呼ばれて、どこへ行って、どんな顔をしていたのか。


そのことが不思議に思えるのと同時に、少しだけ落ち着かなくもあった。


キクは立ち上がると、卓の上の湯飲みをひとつ私に渡した。


「飲めるよ」


そう言われて、私はそっと受け取る。


湯気が立っている。

両手で持つと、ちゃんとあたたかい。


口をつけると、少し苦くて、でもそのあとにやわらかい香りが広がった。


「……おいしい」


小さく言うと、キクが笑う。


「よかった」


その言い方が、まるで私がおいしいと言うのを待っていたみたいで、私は湯飲みを見下ろしながら少しだけ頬を緩めた。


「こういうの、好き」


ぽつりと零すと、キクはすぐには返事をしなかった。

それから、本当に小さな声で言う。


「知ってる」


その返事が、前ならただ嬉しかったはずなのに、今日は少しだけ胸に残った。


どうしてそんなに知っているのだろうと思う。

どうしてそんなに、私の“好き”を覚えているのだろうと思う。

でも同時に、それが嫌じゃないと思ってしまう。


囲炉裏の火が、また小さく鳴る。


しばらくしてキクが呼ぶ。


「ヒナ」


「なに?」


「今日は、ここにいて」


その言い方に、私は思わずそちらを見た。


“今日はここで寝て”と同じ意味のはずなのに、今の言葉は少し違って聞こえた。


どこにも行かずに。

呼ばれても振り向かずに。

今夜だけは、ここに。


そんなふうに言われた気がした。


「うん」


気づけば、そう答えていた。


キクはそれを聞いて少しだけ目を伏せる。

安心したのか、それともまだ何か足りないのか、その表情はよく分からなかった。


やがて、私たちは布団のほうへ移った。


並んで敷かれた二組の布団。

間は近いけれど、触れないくらい。


それもたぶん、キクが考えて置いたのだろうと思う。


「……ほんとに、ちゃんとしてるね」


私が言うと、キクは布団の端を直しながら答える。


「ヒナが来るから」


その一言に、私はまた言葉を失う。


火の気であたたまった部屋。

きれいに整えられた布団。

窓の外の静かな夜。

隣にいるキク。


ここは、ただ寝るための場所じゃなくて、“二人でいるための場所”なんだと、遅れて気づいた。


それがどういう意味を持つのか、そのときの私はまだはっきり分かっていなかった。


ただ、この静けさがやけに深くて、少し怖いくらい落ち着くと思った。


「おやすみ、ヒナ」


先にキクが言う。

その声は、いつもより少し低くて、近かった。


「……おやすみ」


返して、目を閉じる。


でも、なかなか眠れなかった。


隣にキクの気配がある。

同じ部屋に、二人しかいない。

昼のにぎやかさはもう遠くて、ここには火の残り香と、きれいに整えられた夜だけがあった。


私は薄く目を開ける。


暗がりの向こうで、キクがこちらを向いていた。

眠っていない。


「キク?」


小さく呼ぶと、すぐに返事が来た。


「なに?」


声はやわらかい。

でも、起きていたことを隠さない。


私は少し迷ってから、結局思ったままを口にした。


「……なんか、今日のキク、変」


沈黙が落ちる。


でもそれは気まずい沈黙じゃなかった。

もっと静かで、もっと深い何かだった。


やがてキクが、ほんの少しだけ笑う。


「そうかも」


あっさり認めるから、私は返す言葉を失った。


「どうして?」


そう聞くと、キクはすぐには答えない。

暗い中で、布がかすかに鳴る。

少しだけ、こちらへ近づいた気配がした。


「……ヒナと、ちゃんといたかったから」


その声は小さかった。

けれど、聞き間違えようのない真っ直ぐさがあった。


私は息を止める。


ちゃんといたかった。

それはたぶん、ただ隣に座るとか、一緒にごはんを食べるとか、そういう意味だけじゃない。


でも、その先を考えようとすると、胸の奥が落ち着かなくなる。


「今日は、いてくれるって言ったでしょ」


キクが続ける。

責める声ではない。確認するみたいな声。


「……うん」


「だから、嬉しい」


それだけだった。

それだけなのに、私はどうしてか目を逸らせなかった。


その夜が、何かの境目みたいだと思った。


この境目を過ぎたら、大きく変わってしまうような。

そんな気がした。


暗い部屋の中で、囲炉裏の炭だけが小さく赤く残っている。

そのかすかな明かりで、キクの輪郭がぼんやり見えた。


「……眠くないの?」


私が小さく聞くと、キクは少しだけ首を振った。


「まだ」


声は落ち着いている。

でも、どこか静かすぎる。


私は布団の上で少し体を動かした。

手を伸ばせば触れそうな距離。

こんなに近くで寝るのも、久しぶりかもしれない。


さっきから、なぜか胸の奥が落ち着かない。

嫌な感じではない。

むしろ逆で、少しだけ温度が上がっているみたいだった。


私は布団の端を少し握る。


「キク」


呼ぶと、すぐに返事が来る。


「なに?」


「さっき言ってたこと」


「どれ?」


「ちゃんとここにいるか見てるって」


キクは少しだけ黙った。

それから、静かに言う。


「……うん」


否定しない。


私は少しだけ首を傾げた。


「なんで?」


その質問は、本当にただの疑問だった。


でも、その瞬間、キクの指先が動いた。

布団の中で、私の手に触れる。

軽く。


「最近」


キクが言う。


「いろんなところに行くから」


その言い方は穏やかだった。

でも私は、その言葉の意味をうまく掴めない。


「だめだった?」


「だめじゃない」


すぐに返ってくる。


「ヒナが求められてるのは分かってる」


それから、少しだけ声が小さくなる。


「……でも」


その“でも”のあとが、なかなか続かなかった。

私は待った。


静かな部屋で、炭が小さく鳴る。


やがて、キクがぽつりと言う。


「ちゃんとここにいるか知りたくなる」


私は瞬きをする。


「いるよ」


キクは頷く。


「分かってる」


それから、ゆっくり私のほうへ少し近づいた。

布団がかすかに鳴る。

距離が縮まる。


私は動かなかった。


怖いわけじゃない。

ただ、何をするのか分からないから。


キクが呼ぶ。


「ヒナ」


「なに?」


「少しだけ」


一瞬、間がある。


そして、キクは続けた。


「ごめんね」


何が、とは言わない。

でも、断る理由も思いつかなかった。


私は少しだけ頷く。


「……うん」


次の瞬間、キクの指が私の頬に触れた。


そっと。

驚くほど丁寧に。

髪を耳の後ろへ流すみたいに、顔の横に触れる。


キクの顔が近づく。

私は目を開いたまま、それを見ていた。


止めようとは思わなかった。

逃げたいとも思わなかった。

ただ、少しだけ息が浅くなる。


そして、唇が触れた。


本当に、触れただけだった。

軽く。

ほんの一瞬。

まるで、そこにあるか確かめるみたいに。


すぐに離れる。


キクは何も言わない。

私は数秒、そのまま固まっていた。

唇に残った温度を、うまく理解できない。


「……キク?」


ようやく声が出る。


キクは少しだけ目を伏せていた。

それから、いつもの穏やかな声で言う。


「うん」


「今の……なに?」


正直に聞くと、キクは少しだけ困った顔をした。

でも、すぐに小さく笑う。


「確認」


私は首を傾げる。


「ヒナがここにいるって」


私は少しだけ考える。


口付け。

そういう言葉は聞いたことがある。

でも、それがどういう意味を持つのかは、まだよく分からない。


ただ、嫌ではなかった。

むしろ、さっきまで胸の奥にあった落ち着かない感じが、少し静かになっている。


「……変」


思わず言うと、キクが小さく笑った。


「そうだね」


それを否定しない。


私は唇を指で軽く触る。

まだ少し温かい。


「これ、恋人がするやつ?」


ふと思い出して聞く。

前にウメがそんな話をしていた。


キクは一瞬だけ止まった。

それから、静かに答える。


「……そうかも」


私は少しだけ考える。

でも、よく分からない。

ただ、今のは嫌じゃなかった。


「ヒナ」


キクがもう一度呼ぶ。


「なに?」


「嫌じゃなかった?」


その聞き方は、少しだけ慎重だった。


私はすぐに首を振る。


「ううん」


それから正直に言う。


「ちょっと安心した」


自分でも理由は分からない。

でも、そう思った。


その言葉を聞いた瞬間、キクの目が少しだけ揺れた。

でも、それは嬉しそうというより、苦しそうであった。


「……そっか」


キクはそう言って、もう一度だけ小さく笑う。

それから、布団の上で少し距離を戻した。

さっきより、ほんの少しだけ遠くなる。


「もう寝よ」


そう言う。

声はまた、いつもの落ち着いたキクに戻っていた。


「うん」


私も目を閉じる。


部屋はまた静かになった。

でも、さっきまでとは少し違う静けさだった。


私はすぐに眠くなった。

さっきの口付けのことも、深く考える前に、まぶたが重くなる。


「……おやすみ」


ぼんやり言うと、隣からすぐに返事が来た。


「おやすみ、ヒナ」


その声は、とてもやさしかった。


私はそのまま眠ってしまった。


でもキクは、しばらく眠らなかった。


暗い部屋の中で、静かに天井を見ている。

さっき触れた唇に、まだわずかに残る温度を思い出しながら。


そして、誰にも聞こえないくらい小さな声で呟いた。


「……大丈夫」

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