13話
次の日の夕方、私は思ったより早く手が空いた。
年下の子たちは昼のうちにはしゃぎ疲れて、もう半分眠そうだったし、大人たちも今日はそれぞれの家へ戻るのが早かった。
通りにはまだ灯りが残っている。
どこかの窓からは煮える匂いがして、遠くで器を重ねる音が小さく響いていた。
私は縁側の柱にもたれて、少しだけ息をつく。
そのとき、背後で戸が静かに鳴った。
振り向くと、キクが立っていた。
「ヒナ」
呼ぶ声はやわらかい。
いつもと同じはずなのに、今日はなぜか少しだけ静かすぎる気がした。
「うん?」
返すと、キクは一歩だけ近づく。
「今日、こっちで寝ない?」
「こっち?」
「うん」
そう言って、通りの端のほうへ目をやる。
そこには、みんなが集まる家々から少し離れたところに、一軒の家があった。
「前に少し片づけたところ。静かだから、ヒナも落ち着くかなって」
私は少しだけ目を瞬いた。
そんな話、前に聞いていただろうか。
「……二人で?」
そう聞くと、キクは少しだけ黙った。
それから、ごく自然な顔で頷く。
「久しぶりだから」
その言い方に、私はすぐには返事ができなかった。
久しぶり。
たしかにそうだった。
ずっと同じ箱庭にいるのに、二人きりで落ち着いて話す時間は、もうずいぶん減っていた。
「だめ?」
キクが聞く。
責める声じゃない。
困らせるような言い方でもない。
ただ、静かに手を差し出すみたいな聞き方だった。
私は少しだけ迷ってから、首を振る。
「……だめじゃないよ」
その返事を聞くと、キクは小さく笑った。
ほっとしたみたいに。
でもそれを見せすぎないようにするみたいに、控えめに。
「じゃあ、来て」
そう言って、先に歩き出す。
私はその背中を追った。
通りの灯りを離れるほど、まわりの気配が薄くなっていく。
人の笑い声も、話し声も、少しずつ遠のく。
同じ箱庭の中のはずなのに、そこだけ別の夜みたいに静かだった。
家の前まで来ると、私は思わず足を止めた。
きれいだった。
新しいわけじゃない。
でも、ちゃんと手が入っているのが分かる。
戸は歪みなく閉まり、縁側の端には埃がたまっていない。
窓の桟も拭かれていて、障子は破れたところが見当たらなかった。
庭は小さいけれど、伸びすぎた草だけがきれいに払われていて、石の位置も妙に整っている。
誰かが、ここを使うつもりで整えたのだと分かる。
「……これ、キクが?」
聞くと、キクは戸に手をかけたまま振り向く。
「少しだけ」
少しだけ、という整い方じゃなかった。
家の中に入ると、もっとはっきり分かった。
布団はもう敷いてある。
囲炉裏には火が入っていて、炭の赤が静かに息をしている。
卓の上には湯飲みが二つ。
窓際には小さな花まで置いてあった。
花瓶らしい花瓶ではない。
素朴な器に挿しただけの花。
でも、それがあるだけで、この家が“今日のための場所”になっていた。
私はしばらく何も言えなかった。
「……すごいね」
ようやくそう言うと、キクは少しだけ視線を落とした。
「ヒナが、静かなところ好きかなって思って」
その答えが、まっすぐでやさしくて、私のために用意してくれたのだと思うと胸の奥がきゅっとした。
嬉しい、のだと思う。
でもそれだけじゃなくて、どうしてこんなに準備していたんだろう、という気持ちも混ざる。
「前から、使ってたの?」
「ううん」
キクは首を振る。
「今日、使いたくて整えた」
その言い方は静かだった。
けれど、“今日”のために整えたというより、“今日が来たら使えるように”整えていたみたいにも聞こえた。
私はその違いを、うまく言葉にできないまま、ただ家の中を見回した。
布団の端まできれいに揃っている。
湯飲みの向きも、卓の位置も、火の加減も、どこもかしこも落ち着きすぎていた。
まるで、キクの手が隅々まで届いているみたいだった。
「座って」
言われて、私は囲炉裏のそばへ腰を下ろす。
すぐ向かいではなく、キクは私の隣に座った。
ほどよく近い。
肩は触れない。
でも、火のぬくもりより先に、隣の体温が分かる距離だった。
しばらくは、何も話さなかった。
ぱち、と炭が小さく鳴る。
その音が妙に近い。
通りのにぎやかさから離れているせいか、ここでは火の音と呼吸の音だけがはっきりしていた。
「……静かだね」
私が言うと、キクは頷いた。
「うん」
「みんなのところも楽しいけど」
その続きが、なぜか少し言いにくい。
けれどキクは急かさない。待っているのが分かる。
「こういうの、久しぶりかも」
そう言うと、キクの睫毛が少しだけ揺れた。
「そうだね」
その返事は短かった。
でも、その短さの中にいろんなものが詰まっている気がした。
私は火を見るふりをして、その気配から少しだけ目を逸らした。
「……最近、忙しかったから」
言い訳みたいに聞こえて、自分でも少しおかしくなる。
「うん」
キクは否定しない。
「ヒナずっと呼ばれてた」
「そんなに?」
「そんなに」
その答えが妙に正確で、思わず笑ってしまう。
「見てたの?」
「見てたよ」
あっさり言う。
私はまた少し笑って、でもそのあと、なぜだか黙ってしまった。
見ていた。
たぶん本当に、ずっと見ていたのだろう。
私が誰に呼ばれて、どこへ行って、どんな顔をしていたのか。
そのことが不思議に思えるのと同時に、少しだけ落ち着かなくもあった。
キクは立ち上がると、卓の上の湯飲みをひとつ私に渡した。
「飲めるよ」
そう言われて、私はそっと受け取る。
湯気が立っている。
両手で持つと、ちゃんとあたたかい。
口をつけると、少し苦くて、でもそのあとにやわらかい香りが広がった。
「……おいしい」
小さく言うと、キクが笑う。
「よかった」
その言い方が、まるで私がおいしいと言うのを待っていたみたいで、私は湯飲みを見下ろしながら少しだけ頬を緩めた。
「こういうの、好き」
ぽつりと零すと、キクはすぐには返事をしなかった。
それから、本当に小さな声で言う。
「知ってる」
その返事が、前ならただ嬉しかったはずなのに、今日は少しだけ胸に残った。
どうしてそんなに知っているのだろうと思う。
どうしてそんなに、私の“好き”を覚えているのだろうと思う。
でも同時に、それが嫌じゃないと思ってしまう。
囲炉裏の火が、また小さく鳴る。
しばらくしてキクが呼ぶ。
「ヒナ」
「なに?」
「今日は、ここにいて」
その言い方に、私は思わずそちらを見た。
“今日はここで寝て”と同じ意味のはずなのに、今の言葉は少し違って聞こえた。
どこにも行かずに。
呼ばれても振り向かずに。
今夜だけは、ここに。
そんなふうに言われた気がした。
「うん」
気づけば、そう答えていた。
キクはそれを聞いて少しだけ目を伏せる。
安心したのか、それともまだ何か足りないのか、その表情はよく分からなかった。
やがて、私たちは布団のほうへ移った。
並んで敷かれた二組の布団。
間は近いけれど、触れないくらい。
それもたぶん、キクが考えて置いたのだろうと思う。
「……ほんとに、ちゃんとしてるね」
私が言うと、キクは布団の端を直しながら答える。
「ヒナが来るから」
その一言に、私はまた言葉を失う。
火の気であたたまった部屋。
きれいに整えられた布団。
窓の外の静かな夜。
隣にいるキク。
ここは、ただ寝るための場所じゃなくて、“二人でいるための場所”なんだと、遅れて気づいた。
それがどういう意味を持つのか、そのときの私はまだはっきり分かっていなかった。
ただ、この静けさがやけに深くて、少し怖いくらい落ち着くと思った。
「おやすみ、ヒナ」
先にキクが言う。
その声は、いつもより少し低くて、近かった。
「……おやすみ」
返して、目を閉じる。
でも、なかなか眠れなかった。
隣にキクの気配がある。
同じ部屋に、二人しかいない。
昼のにぎやかさはもう遠くて、ここには火の残り香と、きれいに整えられた夜だけがあった。
私は薄く目を開ける。
暗がりの向こうで、キクがこちらを向いていた。
眠っていない。
「キク?」
小さく呼ぶと、すぐに返事が来た。
「なに?」
声はやわらかい。
でも、起きていたことを隠さない。
私は少し迷ってから、結局思ったままを口にした。
「……なんか、今日のキク、変」
沈黙が落ちる。
でもそれは気まずい沈黙じゃなかった。
もっと静かで、もっと深い何かだった。
やがてキクが、ほんの少しだけ笑う。
「そうかも」
あっさり認めるから、私は返す言葉を失った。
「どうして?」
そう聞くと、キクはすぐには答えない。
暗い中で、布がかすかに鳴る。
少しだけ、こちらへ近づいた気配がした。
「……ヒナと、ちゃんといたかったから」
その声は小さかった。
けれど、聞き間違えようのない真っ直ぐさがあった。
私は息を止める。
ちゃんといたかった。
それはたぶん、ただ隣に座るとか、一緒にごはんを食べるとか、そういう意味だけじゃない。
でも、その先を考えようとすると、胸の奥が落ち着かなくなる。
「今日は、いてくれるって言ったでしょ」
キクが続ける。
責める声ではない。確認するみたいな声。
「……うん」
「だから、嬉しい」
それだけだった。
それだけなのに、私はどうしてか目を逸らせなかった。
その夜が、何かの境目みたいだと思った。
この境目を過ぎたら、大きく変わってしまうような。
そんな気がした。
暗い部屋の中で、囲炉裏の炭だけが小さく赤く残っている。
そのかすかな明かりで、キクの輪郭がぼんやり見えた。
「……眠くないの?」
私が小さく聞くと、キクは少しだけ首を振った。
「まだ」
声は落ち着いている。
でも、どこか静かすぎる。
私は布団の上で少し体を動かした。
手を伸ばせば触れそうな距離。
こんなに近くで寝るのも、久しぶりかもしれない。
さっきから、なぜか胸の奥が落ち着かない。
嫌な感じではない。
むしろ逆で、少しだけ温度が上がっているみたいだった。
私は布団の端を少し握る。
「キク」
呼ぶと、すぐに返事が来る。
「なに?」
「さっき言ってたこと」
「どれ?」
「ちゃんとここにいるか見てるって」
キクは少しだけ黙った。
それから、静かに言う。
「……うん」
否定しない。
私は少しだけ首を傾げた。
「なんで?」
その質問は、本当にただの疑問だった。
でも、その瞬間、キクの指先が動いた。
布団の中で、私の手に触れる。
軽く。
「最近」
キクが言う。
「いろんなところに行くから」
その言い方は穏やかだった。
でも私は、その言葉の意味をうまく掴めない。
「だめだった?」
「だめじゃない」
すぐに返ってくる。
「ヒナが求められてるのは分かってる」
それから、少しだけ声が小さくなる。
「……でも」
その“でも”のあとが、なかなか続かなかった。
私は待った。
静かな部屋で、炭が小さく鳴る。
やがて、キクがぽつりと言う。
「ちゃんとここにいるか知りたくなる」
私は瞬きをする。
「いるよ」
キクは頷く。
「分かってる」
それから、ゆっくり私のほうへ少し近づいた。
布団がかすかに鳴る。
距離が縮まる。
私は動かなかった。
怖いわけじゃない。
ただ、何をするのか分からないから。
キクが呼ぶ。
「ヒナ」
「なに?」
「少しだけ」
一瞬、間がある。
そして、キクは続けた。
「ごめんね」
何が、とは言わない。
でも、断る理由も思いつかなかった。
私は少しだけ頷く。
「……うん」
次の瞬間、キクの指が私の頬に触れた。
そっと。
驚くほど丁寧に。
髪を耳の後ろへ流すみたいに、顔の横に触れる。
キクの顔が近づく。
私は目を開いたまま、それを見ていた。
止めようとは思わなかった。
逃げたいとも思わなかった。
ただ、少しだけ息が浅くなる。
そして、唇が触れた。
本当に、触れただけだった。
軽く。
ほんの一瞬。
まるで、そこにあるか確かめるみたいに。
すぐに離れる。
キクは何も言わない。
私は数秒、そのまま固まっていた。
唇に残った温度を、うまく理解できない。
「……キク?」
ようやく声が出る。
キクは少しだけ目を伏せていた。
それから、いつもの穏やかな声で言う。
「うん」
「今の……なに?」
正直に聞くと、キクは少しだけ困った顔をした。
でも、すぐに小さく笑う。
「確認」
私は首を傾げる。
「ヒナがここにいるって」
私は少しだけ考える。
口付け。
そういう言葉は聞いたことがある。
でも、それがどういう意味を持つのかは、まだよく分からない。
ただ、嫌ではなかった。
むしろ、さっきまで胸の奥にあった落ち着かない感じが、少し静かになっている。
「……変」
思わず言うと、キクが小さく笑った。
「そうだね」
それを否定しない。
私は唇を指で軽く触る。
まだ少し温かい。
「これ、恋人がするやつ?」
ふと思い出して聞く。
前にウメがそんな話をしていた。
キクは一瞬だけ止まった。
それから、静かに答える。
「……そうかも」
私は少しだけ考える。
でも、よく分からない。
ただ、今のは嫌じゃなかった。
「ヒナ」
キクがもう一度呼ぶ。
「なに?」
「嫌じゃなかった?」
その聞き方は、少しだけ慎重だった。
私はすぐに首を振る。
「ううん」
それから正直に言う。
「ちょっと安心した」
自分でも理由は分からない。
でも、そう思った。
その言葉を聞いた瞬間、キクの目が少しだけ揺れた。
でも、それは嬉しそうというより、苦しそうであった。
「……そっか」
キクはそう言って、もう一度だけ小さく笑う。
それから、布団の上で少し距離を戻した。
さっきより、ほんの少しだけ遠くなる。
「もう寝よ」
そう言う。
声はまた、いつもの落ち着いたキクに戻っていた。
「うん」
私も目を閉じる。
部屋はまた静かになった。
でも、さっきまでとは少し違う静けさだった。
私はすぐに眠くなった。
さっきの口付けのことも、深く考える前に、まぶたが重くなる。
「……おやすみ」
ぼんやり言うと、隣からすぐに返事が来た。
「おやすみ、ヒナ」
その声は、とてもやさしかった。
私はそのまま眠ってしまった。
でもキクは、しばらく眠らなかった。
暗い部屋の中で、静かに天井を見ている。
さっき触れた唇に、まだわずかに残る温度を思い出しながら。
そして、誰にも聞こえないくらい小さな声で呟いた。
「……大丈夫」




