12話
それから箱庭は、少しずつ“本物”になっていった。
最初はただ形があるだけだったものに、重さが出た。
温度が宿った。
匂いが混じるようになった。
人が増えるたび、誰かの知っている感触や味が、この場所へ少しずつ落ちていくみたいだった。
最初にそれに気づいたのは、食事のときだった。
大きな卓を囲んで、みんなでいつものように座る。
器が並ぶ。湯気が立つ。ごはんの真似をする。
それは前から何度もやっていたことだった。
でもその日、向かいに座っていた若い女の人が、ふと眉を上げた。
「……あれ」
「どうしたの?」とウメが聞く。
その人は器を口元へ寄せたまま、少しだけ目を細めた。
「味……しない?」
みんなが一斉に黙る。
私も器を持ち上げた。
いつも通り白いものが盛られている。
前は見た目だけだった。匂いもなくて、口に入れても何もなかった。
でもその日は違った。
舌の上に、ほんの少しだけ甘さが落ちた。
驚いて顔を上げる。
「……する」
思わず言うと、あちこちで声が重なった。
「え、本当に?」
「うそ」
「ちょっと待って、私も」
ウメが大騒ぎしながら器を抱え、隣の子は慌てて汁椀に口をつける。
「しょっぱい!」
その叫びに、卓が一気にざわついた。
「ほんとだ、なんか分かる」
「前はこんなのなかったのに」
「ねえ、熱いよこれ」
「やけどするほどじゃないけど、ちゃんと熱い」
私はもう一度、ごはんを口へ運ぶ。
粒がある。
やわらかさがある。
噛むと、少しだけ甘い。
たったそれだけのことなのに、胸の奥が静かに揺れた。
ちゃんと食べものなのだと思った。
真似じゃない。
ただの形だけじゃない。
ちゃんと、食べている。
「ヒナ?」
呼ばれて顔を上げると、キクがこちらを見ていた。
表情は静かだったけれど、目だけがいつもより少しやわらかい。
「……おいしい?」
私は少し考えてから頷く。
「うん」
その返事を聞いたあと、キクが小さく笑った。
それを見て、なぜか少しだけ安心した。
それから箱庭では、お茶に香りが出た。
干した布には日なたの匂いが残るようになった。
焼いた木の実は、ちゃんと香ばしくなった。
ある日、みんなで卓を囲んでいたとき、年下の子が丸い菓子を差し出してきた。
「ヒナ、これ食べてみて」
受け取ると、指先に少しだけ油の感触が残る。
口に入れると、外は少しかたくて、中はほろっと崩れた。
甘い。ほんの少しだけ、麦みたいな香りがする。
「……おいしい」
思わずそう言うと、その子の顔がぱっと明るくなった。
「ほんと?」
私は頷く。
「うん。ちゃんと甘い」
その瞬間、向こうで見ていたウメが「やった!」と声を上げた。
子どもは照れくさそうに笑って、それでも嬉しそうにもう一度、皿を私のほうへ押した。
「もう一個食べる?」
そのやりとりを、少し離れたところからキクが静かに見ていた。
何も言わなかったけれど、目が合うとほんの少しだけやわらかく笑った。
――――
大人も増えた。
若い人もいれば、もっと年上の人もいた。
みんな事情は違うのに、ここへ来ると自然に役割のようなものが生まれる。
髪をひとつに束ねた女の人は、いつの間にか台所みたいな場所に立つことが増えた。
本当に台所があったわけじゃない。
でも、囲炉裏のそばに鍋が置かれ、棚ができ、器が並ぶようになると、そこは自然に“そういう場所”になった。
「ああ、ヒナ、これ運んでくれる?」
ある夕方、その人が湯気の立つ椀を差し出した。
思わず両手で受け取る。
「あつ」
「ああ、ごめん。熱かった? 気をつけな。落とすと危ないよ」
その言い方が、あまりにも当たり前だった。
特別扱いじゃない。
雛としてじゃない。
ヒナとして、ただ近くにいたから頼んだだけみたいな声だった。
私は少しだけ目を丸くしたまま、頷いた。
「……うん」
「一回置いて、両手で持てば大丈夫」
そう言って持ち方を見せてくれる。
私は真似をする。
うまくできると、「そうそう」と軽く褒められた。
たったそれだけのことが、なぜか妙に嬉しかった。
ある日、私は部屋にある机の前に座って、上にそっと紙を広げた。
まわりはまだ少し賑やかで、遠くでは誰かが器を重ねる音がしている。
けれど、ここだけは日なたが静かで、筆を持つにはちょうどよかった。
私は小さく息を吐いて、見本もないまま筆を置く。
“きく”。
夜に教わった形を思い出しながら書くけれど、線はすぐに曲がるし、丸いところは少し潰れる。
書き終わって見下ろすと、やっぱり少し変だった。
「……むずかしい」
ひとりごとのつもりだったのに、すぐ近くで声がした。
「ヒナ、なにしてるの?」
顔を上げると、年下の子が二人、こちらを覗き込んでいた。
「字の練習」
そう答えると、二人はそろって紙を見下ろす。
「読めない」
「私も」
「うん。私もまだちゃんとは読めないの」
そう言うと、なぜか二人は少し安心したみたいな顔をした。
「でも、もっと上手く書けたのキクに見せたら、たくさん褒めてくれるから」
二人は一瞬きょとんとして、それから顔を見合わせた。
「じゃあ、もっとがんばらなきゃ」
「うん。すごいやつ書かなきゃ」
真面目な声で言われて、私は思わず笑ってしまう。
「すごいやつかぁ……書けるかな」
私はもう一度筆を持つ。
「じゃあ、見るだけ見てて」
「うん!」
「がんばれ、ヒナ」
その応援が妙に嬉しくて、私は少しだけ背筋を伸ばした。
今度はさっきより、線がましに見えた。
それを見て私は次の夜が楽しみになる。
⸻
人が増えるにつれて、私は前よりずっと忙しくなっていた。
忙しいといっても、何か大変なことをしているわけじゃない。
朝になれば誰かに呼ばれて、
昼には別の誰かのところへ行って、
夕方にはまた別の家で笑っている。
それだけのことだった。
でも、その“それだけ”が毎日のあちこちに散らばるようになった。
「ヒナ、一緒に来て」
「ヒナ、この子の話ちょっと聞いてくれる?」
「ヒナ、これ見て」
「ヒナ、昨日の続きして」
名前を呼ばれて、手を引かれて、気づけばまた誰かの隣にいる。
そんな日が続いた。
前は、一日のどこかで必ず、キクと二人きりになる時間があった気がする。
縁側で並ぶ時間。
髪を結ってもらう時間。
文字を教えてもらう時間。
何も話さなくても落ち着ける、静かな時間。
でも今は、それが少しずつ減っていた。
なくなったわけじゃない。
ただ、“あとで”に回ることが増えた。
「ヒナ、あとでね」と誰かに言われることもあれば、
私が「あとで行く」と返すこともある。
そして“あとで”は、たいてい別の誰かの声で埋まった。
ある夕方、私は縁側でやっと一息ついていた。
通りの向こうでは、誰かが器を洗っている。
どこかの家からは、味噌みたいな匂いが薄く流れてくる。
膝の上に手を置いて、少しだけ肩を回したとき、後ろで衣擦れの音がした。
振り返ると、キクがいた。
「……疲れてる?」
そう聞かれて、私は少しだけ笑う。
「ちょっとだけ」
キクは私の隣に座った。
前みたいに、ごく自然に。
何も特別じゃないみたいに。
その距離に、私は少しほっとした。
「最近、ずっと動いてる」
キクは静かに言う。
それから私の髪に手を伸ばした。
指先が耳のあたりをそっと撫でる。
「葉っぱ」
「あ」
いつの間にか、小さな葉が一枚絡んでいたらしい。
キクはそれを取って、私の膝の上に置いた。
「ありがとう」
「うん」
そこで会話は途切れた。
でも、その沈黙は嫌じゃなかった。
むしろ、ようやく戻ってきたみたいで、私は少しだけ息を深くした。
そのとき、向こうから声が飛んできた。
「ヒナー!」
ウメだった。
「ごめん、ちょっと来て! これ味変なんだけど!」
「味変ってなに」
思わずそう返すと、ウメが遠くで笑う。
「いいから早く!」
私はそちらを見て、それから隣のキクを見る。
「……行ってくる」
そう言うと、キクは一瞬だけ私を見た。
ほんの一瞬だった。
「うん」
小さく頷く。
「いってらっしゃい」
声はやわらかい。
ちゃんと笑ってもいる。
だから私は、何も気にせず立ち上がった。
でも歩き出す前に、袖が少しだけ引かれた。
振り返ると、キクの指先が私の袖口をつまんでいる。
「キク?」
呼ぶと、キクはまるで今気づいたみたいに手を離した。
「……ごめん」
「どうしたの?」
「なんでもない」
そう言って、また笑う。
さっきより少しだけきれいな、崩れない笑い方だった。
私は少しだけ不思議に思ったけれど、それ以上は聞かなかった。
――――
小さい子たちの世話が済んで、私がようやく行けた頃には、もう夜が深くなっていた。
「遅くなってごめん」
そう言うと、キクは私を見て頷く。
「ううん」
「待ってた?」
聞くと、少しだけ考えてから言った。
「全然」
その答えがあまりにも静かで、私はなぜか前よりうまく笑えなかった。
紙も、筆も、水を入れた器も、いつも通りに揃っている。
その横の小皿には、笹の葉に包まれた餅菓子が置かれていた。
手に取ると、少し硬い。
つきたてみたいなやわらかさはもうなくなっていて、時間が経ったのだとすぐに分かった。
もしかして、ずっと前から用意してくれていたのだろうか。
そう思うと、余計に申し訳なくなる。
「……これも、作ってくれてたの?」
聞くと、キクは少しだけ目を伏せた。
「うん。甘いの好きかなって。でも、失敗して硬くなっちゃったからまた作るね。」
キクが失敗したものを出すとは思えず、私は返事に詰まる。
それでも座れば、キクはちゃんと教えてくれた。
「今日はここまで」
「……もう終わり?」
「ヒナ、眠そうだから」
実際、少し眠かった。
でも、そう言われると余計に申し訳ない。
もっと見て欲しかった。
その夜、結局書けたのはたった一文字だけだった。
“菊”。
前よりは上手に書けていたのに、紙の上のひとりぼっちの文字を見ていると、なぜか少し寂しかった。
――――
ある日は、年下の子に頼まれた。
「ヒナ、やって」
「私?」
「うん。キクみたいにして」
その名前に、私は少しだけ目を瞬いた。
キクみたいに。
そう思いながら、櫛を受け取る。
引っ張らないように。
先に指でほどいてから。
絡まりをなだめるみたいに。
「いたくない?」
「うん」
小さな声が返る。
ほっとして、私はまた櫛を通した。
「ヒナ、上手」
「ほんと?」
「うん。やさしい」
その言葉に、胸の奥が少しだけくすぐったくなる。
顔を上げると、少し離れたところにキクが立っていた。
何も言わない。
ただこちらを見ている。
怒っているわけじゃない。
嫌そうでもない。
でも、その視線の静かさに、私はなぜか櫛を持つ手を少しだけ慎重にした。
結び終わると、その子が嬉しそうに振り向いた。
「ありがとう!」
「どういたしまして」
向こうからウメが拍手する。
「すごい。ほんとにできてる」
「ヒナ、もう誰にでもできるね」
“誰にでも”。
その言葉が、なぜか少しだけ引っかかった。
そのとき、キクがようやく近づいてきた。
「……上手だったよ」
静かな声で言う。
それだけ言って、私の手の中の櫛を受け取る。
指先が少し触れた。
短い、ほんの一瞬の接触だったのに、そこだけ妙に熱く感じた。
「ヒナ」
キクが続ける。
「今度は私のもやって」
「キクの?」
「うん」
私は少しだけ笑う。
「いいけど、キクみたいに上手くできないかもよ?」
キクは小さく頷いた。
その顔が、少しだけ安心したように見えた。
でも結局、その“今度”は、なかなか来なかった。
夜になれば、眠れない子が私を呼ぶ。
昼には、話を聞いてほしいと言う子がいる。
ごはんの時間には、「ヒナ、こっち座って」と両側から声がかかる。
私はそのたび、悪いことだとは思わずに、呼ばれたほうへ行った。
みんな、ここへ来たばかりの頃は不安そうだった。
だから、ひとりにしたくなかった。
ただそれだけだった。
――――
ある夜、ようやく皆が寝静まったあとで、私はひとり縁側に出た。
少しだけ風に当たりたかった。
昼間の熱がまだ木に残っていて、座るとじんわりとしたぬくもりがあった。
「……寝ないの?」
後ろから声がして、振り向く。
キクだった。
「すぐ寝るよ。ただ、ちょっとだけ」
キクは何も言わず、私の隣に座った。
夜の箱庭は静かだった。
遠くで誰かの寝返りの音がする。
家のどこかで、木が小さく鳴る。
そういう小さな音の中で、二人きりになるのは久しぶりだった。
私はそれに気づいて、少しだけ不思議な気持ちになる。
「ごめん、最近こういう時間少なかったね」
何気なくそう言うと、キクは少しだけ黙った。
それから、静かに答える。
「そうだね」
その一言が、なぜかやけに重く聞こえた。
夜の風が、髪の端を揺らした。
次の瞬間、キクの指がそれを押さえる。
耳の後ろへ流すみたいに、そっと髪を整える。
その仕草はいつも通りだった。
知っている触れ方のはずだった。
でも、今夜は少しだけ違った。
丁寧すぎるくらい丁寧で、まるで何かを確かめるみたいだった。
「……キク?」
呼ぶと、キクは手を止めないまま答える。
「なに?」
「どうしたの?」
そう聞くと、キクは少しだけ笑った。
「ヒナが、ちゃんとここにいるか見てる」
冗談みたいな言い方だった。
でも私は、うまく笑い返せなかった。
「いるよ」
そう答えると、キクの指先が一瞬だけ止まる。
「……うん」
それから、髪を整える手がようやく離れた。
でも、離れたあとも、そのぬくもりだけがしばらく残った。
二人のあいだに沈黙が落ちる。
前なら、それは落ち着く沈黙だった。
今も嫌ではない。
嫌ではないのに、何かが少しだけ違う。
その違いの名前を、私は知らなかった。
「……ねえ、ヒナ」
しばらくして、キクが小さな声で言う。
「明日、少しだけ時間ある?」
私は振り向いた。
「あると思う」
「よかった」
キクはそれだけ言って、少しだけ目を細めた。
安心したみたいにも見えたし、まだ足りないみたいにも見えた。
その夜、私は久しぶりに、キクと並んで部屋へ戻った。
それだけのことなのに、なぜか少しだけ胸が落ち着いた。




