表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
雛代の箱庭  作者: N


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

11/25

11話


それから毎晩、キクは私に文字を教えてくれた。


最初の日、部屋へ行くと、そこにはもう小さな灯りが置かれていた。

紙も、筆も、水を入れた器も、きれいに並んでいる。


灯りは明るすぎず、でも紙の上を見るにはちょうどよかった。

筆も私が持ちやすいように細いものが選ばれていて、紙の端には小石が置かれていた。

風でめくれないように、ということらしい。


その横には、手本が書かれた紙まである。


「……これ、全部キクが?」


「うん」


キクは当たり前みたいに頷いた。


「難しいのは無理でも、形を覚えるくらいならできるかなって」


どれも小さいことばかりだった。

でも、小さいからこそ、その全部が私のために整えられているのだと分かった。


「……すごい」


そう言うと、キクは少しだけ目を伏せた。

けれど、その口元はほんの少しだけやわらいでいた。


「ヒナ、たぶん途中で紙ずらすから」


褒め言葉を受け取る代わりみたいに言って、小石の位置を直す。


私は少し可笑しくなって腰を下ろした。


「何からやるの?」


「簡単なのから」


キクも隣に座る。


「まず、自分の名前」


そう言って、紙の上にさらりと筆を走らせた。


止まらない。

迷わない。

細い線が、息をするみたいに紙の上へ落ちていく。


「……きれい」


思わずそう言うと、キクが少しだけ笑った。


「ヒナも、そのうちできるよ」


書き上がった文字を、キクが指で示す。


「これが“神巫 雛”」


私は紙の上を覗き込んだ。そこには昔、石碑に刻まれていた文字が書かれていた。


「……これが、私?」


「うん」


ただの線の集まりなのに、それが自分だと言われると少しだけくすぐったい。


「書いてみる?」


そう言われて、私はおそるおそる筆を持った。


思ったよりずっと難しかった。

力を入れすぎると太くなる。

止めると滲む。

跳ねるところで引っかかる。

文字が大きくなって、紙に収まりきらない。


「変になった」


キクは紙を覗き込んだ。


「だめ?」


「だめじゃない」


そう言って、私の手にそっと自分の手を添える。


「ここ、もう少し軽く」


そのまま一緒に筆を動かす。

肩は触れていないのに、手から伝わる温度だけが妙にはっきりしていた。


「……こう?」


「うん」


少しいびつな“雛”が紙の上に残る。

まっすぐじゃない。

でも、ちゃんと自分の名前の形をしていた。


私はそれを見て、なんだか妙に誇らしくなった。


そのとき、キクが少しためらうように間を置いてから言った。


「ねえ、次は私の名前も書いてみて」


見ると、少し頬が赤い。


嬉しそうなのに、言い出すのが少し恥ずかしいみたいな顔だった。


「キクの?」


「うん。雛より簡単だよ」


そう言って、新しい紙を前に置く。

さら、とまた筆が動いた。


「“神巫 菊”」


私はその文字を見て、思わず声を漏らした。


「……あ」


「どうしたの?」


「同じ」


私は紙の上を指さした。


「神巫、同じだ」


キクは一瞬だけ黙って、それから小さく頷いた。


「うん」


「キクも、神巫なんだ」


自分でも変な言い方だと思った。

でも、どう言えばいいのか分からなかった。


分かっていたはずなのに、文字として並ぶと急にそれがはっきりした。


「……みんな、同じなの?」


そう聞くと、キクは少しだけ視線を落とした。


「雛代の子は、たぶんみんなそう。本当の家の名前じゃなくて、こっちの名前をつけられる」


私は紙の上の“神巫”を見つめる。


「どうして?」


「村が分かりやすいからじゃないかな。誰が雛代だったか、忘れないように」


忘れないように。

その言葉は優しいはずなのに、なぜか少しだけ冷たく聞こえた。


私はもう一度、自分の名前とキクの名前を見比べる。


“神巫 雛”

“神巫 菊”


最初の二文字が同じで、最後だけが違う。


同じ箱に入れられて、同じように流されて、同じ呼ばれ方をした子たち。


そのことが、紙の上で並んだ文字のほうが、言葉で聞くよりずっとよく分かった。


キクが私を見る。


「……やめる?」


私は首を振った。


「ううん。むしろ、同じでよかったかも」


キクが小さく瞬く。


私は少し照れくさくなりながら続けた。


「だって、こうやって並べると家族みたいな感じがする」


言ってから、変なことを言った気がして慌てて紙へ目を落とした。


けれどキクは何も笑わなかった。

ただ、ほんの少しだけ息を呑んだ気配がして、そのあと声を落とした。


「……うれしい」


今度は、はっきり聞こえた。


私はなんとなく胸の奥があたたかくなって、紙を引き寄せる。


「書いてみる」


「でも、変になるかも」


「だいじょうぶ」


今度はキクがそう言った。


「菊のほうが、雛より簡単だから」


その言い方が少しだけ可笑しくて、私は息を漏らすみたいに笑った。


“神”は難しい。

“巫”はもっと難しい。

でも、そのあとに来る“菊”は、たしかに雛より少しだけ書きやすかった。


「……できた」


紙の上の文字は、やっぱり少しいびつだった。

それでも、なんとか形にはなっている。


私は恐る恐るキクを見る。


「どう?」


キクは紙を見つめたまま、すぐには答えなかった。

失敗したのかと思って少し不安になる。


けれど次の瞬間、本当に嬉しそうに、ほんの少しだけ笑った。


「……うれしい」


その声があまりにも小さくて、一瞬聞き間違いかと思った。


キクは自分でも言ってしまったことに気づいたみたいに少し目を伏せる。


「上手」


言い直すみたいにそう言って、指先で紙の端をそっと押さえた。


でも、その手つきが大事そうで、私はなんとなく分かってしまう。


たぶん、ただ文字の形が上手だったからじゃない。

私が書いたその名前を、キクは特別に思っている。


キクはその紙をそっと持ち上げた。

破れないように、折れないように、指先だけで確かめるみたいに。


それから、本当に何気ないことみたいな顔で言った。


「……宝物にするね」


私は思わず目を丸くした。


「えっ」


「だって、ヒナが初めて書いてくれた私の名前だし」


その言い方があまりにも自然で、冗談みたいに聞こえない。


でも、それで宝物にされるのはなんだか落ち着かなくて、私は慌てて言った。


「ま、待って。もっと上手に書けたやつにしてよ」


キクがようやく顔を上げる。


「なんで?」


「なんでって……これ、ちょっと歪んでるし。線も変だし」


たしかに一生懸命書いた。

でも、宝物と言われるほどのものじゃない。


「今度もっとちゃんと書くから、それにして」


そう言うと、キクはしばらく私を見ていた。

それから小さく首を振る。


「ううん、これがいいの」


その答えがまっすぐすぎて、私は一瞬何も言えなくなった。


キクは紙をもう一度見下ろす。


「たしかに少し歪んでるし、字も大きいけど」


「大きいって……」


「ちゃんとヒナががんばって書いたってわかるから」


そう言って、ほんの少しだけ笑った。


「上手なやつは、たぶんそのうち書けるでしょ。でも、最初のは一枚だけだから」


その言葉が、やけに静かに胸に落ちた。


最初の一枚。


たしかにそうだった。

どんなに上手くなっても、この歪んだ字はこれしかない。


「だから、これがいい」


キクはそう言って、紙を丁寧に置いた。

傷まないように守るみたいな手つきだった。


私はなんだか顔が熱くなって、紙の上から目を逸らす。


「……変なの」


思わずそう言うと、キクが小さく笑った。


「名前くらいで大げさだよ」


「名前だからだよ」


名前なんて、ただ呼ぶためのものだと思っていた。

でもキクにとっては、少し違うらしい。


自分の名前を、私がちゃんと形にしたこと。

それがそんなに嬉しいことなのだとしたら。


私は紙の端をちらりと見る。


少し歪んだ“神巫 菊”。

上手ではない。

でも、たしかに私が書いた。


キクが少しだけ視線を泳がせた。


「……あのね」


「なに?」


「別に、今じゃなくてもよかったんだけど」


珍しく言いにくそうな声だった。


私は首を傾げる。


キクは少しだけ間を置いてから、小さく言った。


「名前、もっと簡単にも書ける」


「簡単に?」


「うん。平仮名」


私は瞬いた。


「ひらがな?」


キクは頷いた。


それなら先に教えてくれればよかったのに、と思ってしまって、私は思わず口を尖らせた。


「……じゃあ、なんで先にそっち教えてくれなかったの」


キクは一瞬だけ黙った。

それから、少しだけ目を逸らす。


「そっちのほうが……」


声が小さくなる。


「同じだから」


それだけで分かった。


“神巫”が同じ。

同じ呼ばれ方をして、同じように流された子たち。

その形を、キクは先に私に覚えてほしかったのだ。


私は少しだけ呆れて、それから少しだけ可笑しくなった。


「……いじわる」


そう言うと、キクがすぐにこちらを見た。


「でも上手だったよ」


あまりにも真面目に言うから、私は返す言葉に困ってしまう。


「じゃあ、平仮名も教えて」


そう言うと、キクは少しだけほっとしたみたいに頷いた。


新しい紙を出して、さらりと筆を走らせる。キクの字はやっぱり綺麗で、その隣に自分の字を書くのかと思うと、少しだけ気後れする。


“ひな”

“きく”


でもさっきの文字と違って、丸くてやわらかい。

同じ名前なのに、少し幼くて、少しだけ近く見えた。


「……かわいい」


思わずそう言うと、キクも小さく笑った。


「でしょ」


「こっちは、なんか……ちゃんと名前って感じする」


私は少し笑ってから、ひらがなの“きく”を真似して書いてみる。


漢字よりずっと簡単で、するすると形になる。

少し曲がったけれど、それでもちゃんと読めそうだった。


「できた」


見せると、キクがじっと見る。


その目がまた少しやわらいで、嫌な予感がした。


「……これも、かわいい」


「うん?」


「宝物にする」


「待って」


私はすぐに紙へ手を伸ばした。


「なんでそっちまで!?」


「だって、ヒナが書いた“きく”だよ」


キクは当然みたいに言う。


「漢字のも大事だけど、こっちもかわいいし」


思わず取り返そうとすると、キクが少しだけ紙を遠ざける。


本気で意地悪しているわけじゃない。

でも、渡すつもりもなさそうだった。

こうなったらこの子は譲らないのを知っている。


私はしばらくむっとしていたけれど、

その横顔が本当に嬉しそうなのを見たら、なんだか本気では怒れなかった。


「ほんとに変」


ぽつりと言うと、キクが楽しそうに笑う。


「ヒナが書く名前は、特別だから」


その声がいつもより少し弾んでいたせいで、

私はそれ以上、取り返そうとはできなかった。

 



それから数日、夜になると私たちは縁側か囲炉裏のそばで並んで座った。


「これは?」


「“山”」


「じゃあ、これは?」


「“川”」


キクは急がない。

ひとつ書いて、私に見せて、私が真似して、変な形になると少しだけ笑う。


「でもこれ、川じゃなくて虫みたい」


「えっ」


「でも、前よりずっと上手だよ」


その言い方が優しくて、私はむっとしたふりをしながらもう一回筆を持つ。


「今度はちゃんと書く」


「うん。がんばって」


その“がんばって”が、なぜか妙に好きだった。


ある日には、キクが一枚の紙を私の前に置いた。


「今日は文っぽいものを」


「文?」


「うん。短いのだけ」


見れば、前より少し長い文字が並んでいる。


「読める?」


そう聞かれて、私はゆっくり目で追った。


前みたいに、ただの線には見えなかった。

まだ分からない形もある。

でも、ひらがなが混じっているだけで、少しだけ近く見える。


「あ……“ひな”がある」


「うん」


私はその先を、途切れないようにひとつずつ追っていく。


「“け”…“ふ”…」


そこまでは分かる。

次も、見覚えのある形だった。


「“は”……“山”……“か”…“ぜ”」


口の中でそっと繋げる。


「……けふは、山かぜ?」


キクが少しだけ目を細めた。


「正解」


それが嬉しくて、私はもう少し先を見る。


「“こ”…“と”…“に”」


そこまで読めたところで、胸の奥が少しだけ跳ねた。


前は、最初から最後までただ並んでいるだけだった。

今は、途中まででも自分で辿れる。


「読める」


思わずそう言うと、キクがやわらかく笑った。


「うん。読めてる」


私はその先を見て、少しだけ止まる。


「……ここ、分かんない」


やわらかく続く形が並んでいる。

見たことはある気がするのに、音がうまく出てこない。


「えっと……“あ”…?」


自信なく言うと、キクが小さく首を振った。


「惜しい。そこから先は、まだ少し難しいかも」


そう言って、紙の上をそっと指で示す。


「“やはらか”」


私はその音を、口の中でゆっくり真似した。


「や……はらか」


「うん」


「じゃあ、なんて書いてあるの?」


そう聞くと、キクは何でもないみたいな顔で言う。


「“ひなへ。けふは山かぜ、ことにやはらか”」


少し間を置いてから、柔らかく言った。


「今日は山の風が、ひときわやわらかいって」


私は瞬いた。


「文って、こういうふうに書くの?」


「こういうのもあるよ」


「なんだか、手紙というより歌みたい」


思ったまま言うと、キクが少しだけ笑った。


「そういうふうに書く人もいるから」


本当のところは分からなかった。

でも、文というものがもっと難しくて遠いものだと思っていた私は、少し拍子抜けして、それから少しだけ嬉しくなる。


「……じゃあ、返事もできる?」


「できるよ」


「なんて返せばいいの?」


「ヒナが思ったことでいい」


私は少し考える。

山の風。やわらかい。


それから、口に出してみる。


「“こなたも、しづか”」


キクが一瞬だけ黙った。


「……いい文」


「ほんと?」


「うん」


その声は、いつもより少し低くて、やわらかかった。


灯りを置いて。

紙を揃えて。

私が困らないように、簡単な文字から並べて。


ひとつひとつ、少しずつ準備していたのだろう。


ふと気になって聞いてみる。


「……どうして、字を教えてくれるの?」


キクは少しだけ黙った。


「読めたら、思い出せるでしょ」


「思い出す?」


「うん。今日のこととか、見たものとか」


キクは紙を見たまま、静かに続ける。


「もし離れても、字なら残るから」


私は少しだけ瞬いた。


キクはそこで、少しだけ困ったみたいに笑う。


「……まあ、離れるつもりはないけど」


夜になるとキクが待っていて、隣に座ると優しく教えてくれて、少しでも読めたり、前よりうまく書けたりすると、たくさん褒めてくれる。

それが嬉しかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ